初色軸
雨が降り続いている。
雨が降り続いている。
むかしから水のあるところが好きだった。静かな池のほとり、清らかな川のながれ。涼やかなせせらぎの音、小さな水しぶき。
雨も、雨音も好ましい。
池に睡蓮が咲いている。
剣のように尖った真っ白い花びらと、鮮やかな緑の葉のうえにふりそそぐ雨滴が、落ちては跳ねて薄く射す陽光を弾き、静やかに美しい光景だった。
池のそばの小亭に琴を持ち出して、気ままに弾いていたのだ。
思うままに弾いていたが、なにか、えたいのしれない不安と焦燥が心にわだかまって、琴を置いて立ち上がった。
近くにあるものは雨に洗われて透明感を増してきらきらと輝き、遠くは絶え間なく落ちてくる細雨にけぶっている。
亭から踏み出すと雨に包まれた。
手のひらを天にむけるとそこにも雨が落ちてくる。
髪に、顔も、雨は落ちてくる。
どうしてだか、涙がこぼれた。
雨の日に外の小亭で琴を奏するとは、なんとも風流ではないか。
池に睡蓮が咲き乱れている様も美しい。
池に睡蓮が咲き乱れている様も美しい。
調練にてぎゃあぎゃあと騒ぎたてるくそ面倒なガキにつきまとわれた苛立ちがすぅっと引いてゆくようだ。
聞き惚れていたというのに、だが、琴の音はふつりと途切れてしまった。
「・・・丞相?」
魏延の背後の物陰に潜むようにして音色を貪り聞いていたクソガキが、声を上げた。
「なにをなさって・・・濡れてしまわれる」
そのまま駆けだそうとするのに、魏延は腕を組んだまま片足を出す。
足を掛けられた姜維は短い悲鳴を上げてつんのめり、それでもすっ転びはせずに、地面についた手を軸に一回転して体勢を立て直そうとしたのだが、立て直す一瞬前に魏延に足蹴にされて地面に沈んだ。
「なにをなさる、魏将軍っ」
「ガキの出る幕じゃねえっての」
しっしっ、と犬でも追い払うような仕草に歯噛みするうちに、厚い背は悠然と雨の中に歩を進めていた。
「なにを泣いておられるのだ」
雨の中をゆうゆうと近付いてきた男によって、抱き潰すような強い抱擁を受けた。
太い腕の強さも陽に灼けたような体臭も熱いほどの体温を持つ分厚く逞しい体躯も、なにもかも己とは真逆で、とうてい相容れぬもののようであるのに、すっかり馴染んでいて離れがたく放しがたい。
「どうしてここに?」
雨でも調練は中止にはならない。雨中での行軍はそれはそれで訓練になる。
「琴が、聞こえたから」
要するに、さぼったのか。
「なあ、よいだろう。今日はさぼって、帰ってしまおうではないか」
「帰るって、どこへ」
「無論、我が屋敷へ」
そういえばしばらく行っていない。あまりに忙しくて。
「どうしようかな」
なかば誘惑されてしまって迷っていると、額と額がごつんと触れ合った。
「濡れるのも泣くのも、我が閨だけにしておかれよ、軍師」
言いざまに、喉の奥で笑った。
涙のさいごのしずくがはらりとこぼれ落ちた。
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初色軸
十数巻にもおよび力作の法案をひとまず書き終えて、諸葛亮は満足の吐息を吐いた。
十数巻にもおよび力作の法案をひとまず書き終えて、諸葛亮は満足の吐息を吐いた。
凝り固まった首と肩を回すと、ごきりと不穏な音がする。
筆を持ち続けた手は凍えたように冷たくこわばっていて、指先の感覚がなかった。
ふと見ると、お付き合いをし始めたばかりの情人が兵法書をたぐっている。
野生の本能で行動するばかりの荒々しい気性にみえて、実はけっこう努力家であるのが驚きだった。
沐浴を済ませた夜着姿で、無造作に着付けた合わせからむくつけき筋肉がもりもり盛り上がって衣を押し上げている。
気配をひそませてすすっと背後に忍び寄った諸葛亮は、冷え切った手を、すぅっと情人の襟元に忍び込ませた。ひと息に背へとすべらせてひたりと留める。
「っひぎゅあ!」
飛び上がった偉躯がぎろりと目を剥いて振り向いた。
「冷た――!!軍師!何をなさる」
「・・・・あたたかい。というか、熱い」
魏延をびっくりさせたのは本望であるが、その体躯の熱さには諸葛亮もびっくりである。
筋肉とは人体最大の偉大な発熱機関なのだ。
「まったく・・、このように冷たくされて」
ぐるりと本格的に振り向いたせいで背にあてていた手のひらは自然と外れてしまい、すくいとるように手をさらわれて、ぎゅっと握られる。
高い体温を揉みこむようにぎゅむぎゅむと手を揉まれると、火で炙るよりもたやすく指先の内側からぬくもりが芽生えていった。
子どもにでもするようにそうしていた魏延が、ふと目を上げた。
「・・・寝所に入れていただければ、もっと、芯から御身体を温めて差し上げるのだがな」
意味ありげに口端を上げて言うので、諸葛亮は目を伏せてちいさな笑みをこぼした。
「ん・・・もう少し、経ったら・・」
含羞を漂わせた笑みの美しさにあてられた魏延は、肩をすくめる。
そうして握った手を引き寄せて、冷えた躰を己の胸に持たれかからせるようにしてから、読んでいた書の分からぬ箇所をひとつずつ、世にも稀な賢者に問うていった。
初色軸・R15
は、と耳元で吐き出される息を感じて、諸葛亮は身じろいだ。
寝台の脇の足元にちいさな火が灯されているが、真っ暗闇にはしないためのもので、輪郭を浮かび上がらせるくらいの明かりでしかない。
だから諸葛亮には分からない。情人がどんな表情をしているか。
盛り上がった筋肉の連なる体躯の手触り、膚の匂いと熱は、感じることができる。
体躯のずっしりとした重みも感じ取れる。けれど、――
「どうか、なさったのか」
「んっ」
ふいに膚の匂いが強くなって、身体が深く重なった。
「・・・そなたが、どういう顔をしているのか、気になって」
「俺の、顔」
「うむ・・」
手探りで頬に触れた。
明かりを避けるのは諸葛亮のほうで、暗がりであるからこそ身をさらけ出せている。
でも少し、惜しいとおもう。
ふてぶてしい面構えの彼が、閨ではどのような顔をしているのか見ることが出来なくて。
「快に顔を歪めたりするのか、そもそも快を感じているのか・・・?」
「なにを申されるかと思えば」
笑みの気配がした。
「明かりを、つけようか」
「・・・いや、いい!」
急いで否定すると、笑みの気配が深まって、口が重なる。
何度か戯れのように触れたあと、唇を開いて舌を触れ合わせた。
腕を伸ばして首に纏いつかせると、己の上で強靭な筋肉の連なりが身じろいで、膚同士がさらに密着する。
気持ち良くて意識がとろけた。
何度か戯れのように触れたあと、唇を開いて舌を触れ合わせた。
腕を伸ばして首に纏いつかせると、己の上で強靭な筋肉の連なりが身じろいで、膚同士がさらに密着する。
気持ち良くて意識がとろけた。
互いの身体を拭いたあとで、魏延は牀台に腰掛けた。
睡魔に絡めとられた恋人はのどかな寝息を立てており、美しい黒髪が敷布に流れていた。
頬に手のひらで触れる。
そなたが、どういう顔をしているか気になって、と白い手が頬に伸びた。
どういう顔をしているのかって。最中は飢えた獣のようであろうし、いまは腹が満たされきった獣のような顔であろう。
魏延は、夜目が利く。
だから軍師の表情がたいがい見えている。
熱を帯びた眼差しも、怯えを含ませた表情も、泣きそうな戸惑い顔も、快に浮かされてひそやかに喘ぐ様も、終わったあとの甘くとろけた様子も、だいたいはすべて。
無論、そんなことを白状しようものなら、枕を投げつけられた挙句、寝所から締め出されてしまう。
だから、内緒である。
手を伸ばして、小さな灯りを摘まみ消すと、寝所はやわらかな闇に包まれた。
真っ暗になってしまっては、いかに魏延でも見えない。
いとしい肢体を手さぐりで探り当てて引き寄せて、掻き抱いて眠りに落ちた。
真っ暗になってしまっては、いかに魏延でも見えない。
いとしい肢体を手さぐりで探り当てて引き寄せて、掻き抱いて眠りに落ちた。
軍師将軍が花街のある技館を贔屓にしている。たいそう入れ込んで足繁く通っているそうだ。
・・・という噂を耳に入れた魏延は、しばらくの間無言でいた。
「はは・・まさか」
笑いが、乾いたものになったのは否めない。
どうやら真実らしいとの証言を聞いて、咳ばらいをひとつしたあと本格的に声を上げて嘲笑した。
「あのような細腰で女を抱くとはな。笑えるわ」
「いやそうでもない。武官ほどではないが、よい体格をしておられよう。朝堂で百官を従える姿は、御貫禄があられる」
「いや、あれは、」
衣装だけだ、と言いかけて魏延は口をつぐんだ。
実際にあれは、貧弱な体格を隠すために重々しい袍をまとって威厳をつくろっているだけなのだ。
重い衣を剥げば、あやういほどに線が細く、繊細な躰である。ことに膚は絹のようにやわらかで――
というようなことを、思わず口にしてしまうところだった。
あぶない。
「趣味人でもあられる御方じゃ。普段は慎ましゅうしておられるが、華やかな花街は案外好まれるのかもな」
「美丈夫であられるゆえ、技女にもてるのではないか」
軍師の妓楼通いを非難する者は勿論いない。冷静で謹厳なふうな軍師が妓楼に通うのは人間らしいともてはやしている。
盛り上がる同僚から離れた魏延は、むっつりと口を引き結んで歩いた。
妓楼に通っている・・本当に?
どのような女人が好みなのか。
豊満な女・・・ではまさかあるまいな。才色兼備のたおやかな女なら、或いはありえるのか。
「うぬ・・」
腹に暗雲のようなものが湧いて魏延は息を吐き出した。
軍師贔屓の妓楼を突き止めて乗り込んでいったが、あまりの場違いに目を剥いた。
妓楼が華美であるのは当然のこととしても、並外れて品が良く風雅なたたずまいである。あちこちに垂らした透けるように薄い白絹が謎めいた雰囲気を醸し、金糸をあしらった濃緑の布と銀糸をあしらった深紅の布が、華やかな上にも高貴な風情である。
そこかしこから楽の音がする。
ただよう香は清冽かつ奥ゆかしい。
行き交う技女らも尋常ではなく上品な良い衣を纏い、ひらひらとした薄衣がたなびくさまは、まるで神仙境の仙女でもあるように神秘的である。
「・・・魏延?」
ぽかんとしていると、背後からいぶかしげな声が掛かった。
振り向くと仏頂面をした諸葛亮がいた。
「軍師」
「なにをしにきた」
「なにをしに?」
「貴様のような身持ちの悪い男に、ここの技女らに手は出させぬぞ。今後おまえは出入り禁止だ」
「な、―――なんの権利があって」
「あるとも。私が楼主なのだからな」
は、楼主?
驚き呆れて声も出ないために憮然と黙り込んだ魏延に、諸葛亮は肩をすくませる。
「孔明様」
ゆったりとした美しい声が掛けられた。
品の良い金糸で縫い取りした白衣の袖をひるがえした佳人が近付いた。貫禄からして楼の女主人であろう。
高官が技館を援助することは無いことではない。
そうした場合、女主人は愛人であるということが多いのだが。
軍師の、愛人、か・・・?
途轍もなく高価であるのだろう純白の綾織りをさらりと着こなした女は美しく、王侯貴族とみまがうほどに気品があった。
うるわしくたおやかでありながら隠しようもない知性を漂わせているところなどは諸葛亮と似たところがあり、軍師の寵愛を受けていると言われると百人が百人とも納得してしまえる美貌と気品であるのだが、魏延はまるで納得できず、むかむかと胃が疼いた。
「お待ちしておりました。妾も、この子たちも」
「軍師さま」
「あいたかったです」
待ってましたとばかりにわらわらと集まってきたのは年端もいかぬ少女たちである。
5人ばかりいて、いずれも十歳前後であろう幼いものたちだ。
めまいがした魏延は後ずさった。
まさか、まさか・・・幼女趣味であられるのではあるまいな。
握った拳をぶるぶると震わせる魏延をものともせず恥ずかしげもなく、諸葛亮は少女たちに囲まれて微笑んでいる。
機嫌よい様子に、女主人よりこちらが本命なのかという疑惑がむらむらと湧いた。
高官が技館を援助するのは、特殊な性癖を隠しながら発散するためという場合が、無いこともないのだ。
重ねていうが、下は十にもなっておるまい。一番育ったのでもかろうじて十五ほどであろうか。
こともあろうに、微笑んだ軍師は「皆、来なさい」と言って引き連れていこうとする。
「待て。待ちなされ、軍師殿」
思わず腕を掴んだ。驚いた顔をするのに驚いたのはこちらだと内心で悪態をつく。
「幼女相手に乱交なさるお積りか。なんと不道徳な」
ひそめた声で罵倒すると、ますます驚いた顔をする。
「お前のような男に道徳を説かれる日がくるとはな」
「いかに某でも幼女はない」
「そうか。ほんの少し微量ながら見直したぞ」
「なんだと」
高飛車な言い様が気に食わず喧嘩腰になりかけたが、微かな笑みの気配に振り向くと、白い指で口元を隠した女主人が忍び笑っているので、気勢をそがれた。
「孔明様。ここは人目がありまする。広間の用意をしておりますから、そちらにどうぞ」
お前も来い、といわれて連れだって入ったのは上客用とみえる広間である。
「琴を教えているのだ」
言う通り、少女らはそれぞれに楽器を用意している。
調弦がありしばらくして合奏がはじまった。
上手い。だが、妓楼というには少々清雅に過ぎる気がした。
「高尚すぎるのでは」
「わざとだ。高尚であればあるほど、猥雑を好む下郎に弄ばれることは減る。この妓楼では楽と舞い、或いは詩作を愉しむ場にしたい」
「色は、売らぬと?」
「禁じてはおらぬ。ただ、いかに金を積もうが無理強いは許しておらぬ。当然暴力などは禁止だ。無体をされぬよう、退役した軍人に守らせている」
軍師はゆったりとした私服であり、羽の扇は持っていない。
かわりに水色の細い扇子をもっており、時折それを挿して合奏する少女らに指示を出したり、弾き方を教えたりしている。
「軍師さまも、弾いてくださいませ」
いちばん幼い子どもに乞われて、まんざらでもなさそうに諸葛亮は琴爪をつけた。
琴の名手と名高い諸葛亮は、城内の宴席では乞われても滅多に弾かない。まれに弾いても気が乗らぬふうにすぐ切り上げてしまう。
ゆえに魏延は近くで聞いたことはない。
それが、こうもやすやすと弾く気になるとは。
やはり幼女趣味ではないのかという疑念が生じるが、少女らのにこにことしていて純粋に軍師を慕っているらしい様子に、そうではあるまいと胸を撫でおろす。
かき鳴らされる調べは見事であった。
「ほう。名手というのは本当なのだな」
思わずぼつりとつぶやくと、今更だとでも言うように、くすくすとさんざめくように少女らが笑った。
見事な琴の音を聞きつけたように二十歳ばかりの着飾った娘たちがやってきて、袖をひるがえして舞い始めた。
たいそう華やかで美しい。
そしてやはり高尚であるのだった。
「魏延。まさか金をもっておらぬとはいうまいな。祝儀を、はずんでくれるのだろうな」
「貴公の演奏にですかな?」
冗談を返すと、軍師は鼻を鳴らした。
無論、金子は持っている。
舞い終えて端整な礼をする娘たちには景気よくばらまき、少女たちにはあえて菓子を買えるくらいの金を与えた。
礼のつもりなのか少女たちは合奏をはじめ、娘たちも美々しい衣装を天女のようにひるがえして短い舞をひとさし舞って、皆で退室していった。
「舞もうまいが、衣装が見事でござった」
「当然だな。蜀錦の官工房から出しているのだ」
「官権を乱用しておられると?」
「いや・・流行をつくっているのだ。ここの技女は舞や楽はもちろんのこと装いも一級であると高名になっておるので、技女らのまとう衣や着こなしは飛ぶように売れる」
「ふうむ」
出された酒も品が良い。
すこしばかり飲んだ後、気がかりを問うた。
「女主人は、貴公の愛人であられるのか」
「・・・・いや」
「返答に間がありましたな。あやしいものだ」
「酔っておるのか、魏延」
「いや、まさか」
ふ、と少し開いた唇からほのかな息を吐いた軍師は、頬杖をつき、手慰みのように扇子を閉じたり開いたりしている。ぱちりぱちりと小気味よい音が響いた。
「彼女には情報を提供してもらっている。妓楼は人が集まり話も集まるゆえ・・」
「ほう」
ありえることだ。
だがそれで、男女の関係が無いという証にはならない。
胸中の暗雲の正体にはっきりと気付いていながら魏延はかたくなに気付かないふりをしていた。
ありえないではないか。
この魏文長が、嫉妬しているなど。
「魏延。意外にも技女らには興味がなさそうであったな・・・高尚過ぎておまえには高嶺の花であったか」
「・・・ふん」
高嶺も高嶺、――名高き黄山よりも高嶺であろう。
脅しで身体は奪えたが。
千金を積んでも、その心は買えないであろうから。
戦闘流血残酷表現あり
夢を見た。
あたりは死屍累々。
いや死骸ならばものは言わずに静かであるが、負傷したものの上げる苦鳴の酸鼻きわむる様といえば話にもならぬ悲惨さである。あるものは臓腑をぶちまけ、あるものは四肢のいずれかを欠き。
まこと戦場とは美しいものがひとつも見当たらぬ。
飛来する矢に馬が斃れ、徒歩にて雨あられのごとく向かい来る敵兵を片っ端から叩っ斬った。
血はふつふつと煮えたぎり臓腑が灼けるような高揚とともに、おぞましさに反吐が出そうな心地である。
鋼と鋼がぶつかり合って生ずる一瞬の火花。受けた傷から流れ出る血は生命そのもの色で戦袍を内側から汚し、得物の大刀を振るうたびに返り血がどしゃぶりに降りそそぐには辟易とした。
勇猛というよりは野蛮と評される戦をする魏延は、もとより敵兵に一片の容赦なぞせぬ。
振り上げざまに股から胸までを一撃で切り上げ、横ざまに薙いで雑兵の首を飛ばす。将校格の鎧はさすがに堅固で刃が通りにくいが、豪腕でもって捩じ斬るように刃を叩きつけては絶命させた。
卑賤の生まれであっては手柄を立てるほか立身の手段はなく。なるべくならば一撃で打ち倒さねば数がかせげぬ。
いつの間にか深入りしすぎていた。
林のごとき敵兵が盾を構えて並び、その後ろから弓兵がずらずらと出てきて強弓を引き絞らんとする。
ほう。ここで死ぬるのか。
いやまさか。雑兵など束になってもこの魏文長を弑することができようか。
ふん、蹴散らしてくれる。
まるで冥府にひきずりこまんとする白い手が伸びてくるのを、魏延は掴んだ。
意識がぶつりと戻る。
視線を上げると、簡素な天幕が目に入った。
女というほどは細くも華奢でもなく、案外しっかりとした骨をしている。それでも魏延がわずかなりとも力を込めれば、なんなくへし折ってしまえる白い手首を、掴んでいた。
掴んだ手を辿って視線を上げる。
曰く言い難い表情をしたものが、見下ろしている。
戦場にはおよそ似つかわしくない気品と知性を含んだ、深山の白玉を刻んだがごとく硬質であり秀麗な顔立ち。
「・・・おまえのような者でも、悪しき夢に苦しむのだな」
水のような声を聞きながら魏延は床に敷いた寝床の上で身体を起こした。
「べつに悪しき夢ではござらぬ。戦場にて敵を殲滅せんとしたところだったのだからな」
不敵な嘲笑さえ浮かべた魏延を軍師はまっすぐに見詰めた。
悪しき夢のようではない戦場などあるものか、と彼はつぶやいたようだった。
「某は卑賤の生まれ。戦場で手柄を立てねば出世は叶わぬ。さよう、悲惨であればあるだけ武勲をたてる機会が多いゆえな。望むところよ」
「・・・そうか」
「まだ、仕事か、丞相。もう夜半は過ぎていように」
「いま終わった。寝る」
「左様か」
冷えた肢体に手を伸ばして引くと、肩を覆っていた袍がすべりおちた。
真夜中を過ぎているであろう。静かだった。
陣中ゆえの粗末な寝床へといざない、覆いかぶさる。
「添い寝か、荒淫か―――さて丞相、この魏文長に、どちらを所望なさる?」
「やさしく、抱け。魏延」
「は、・・・」
やさしく。
やさしく、抱く。やさしく、・・・
やさしく敵を殺したことはないが。
やさしく人を抱いたことは、はて、あっただろうか。
「できないのか?」
「・・・・・・・できまするな、おそらく。貴公がお望みであられるならば、善処いたそう」
「うん」
冷えた肩をやわらかく抱き寄せ、玲瓏とした白皙の容貌を見下ろして魏延はふと、夢の中の戦場に居た己を思った。
そうであった。忘れていたな。
わが軍の戦場には、美しきものが在るのであったな――・・
わが軍の戦場には、美しきものが在るのであったな――・・
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