昼下がりに執務をしていると末の弟がやってきた。
「孔明様はいなくなりました」
昼餉のあと、しばしの休息にと庭に出た軍師殿が、戻ってこないのだという。
放っておけば寝食もわすれて執務に没頭する仕事中毒者が、いったいどうしたことやら。
「庭にいらっしゃらない、厠にしても長すぎる。まさか城内に不埒者でも」
「まさか」
「兄上、のんびり構えている場合ではございません。あの方になにかあったら、・・・・・」
いらいらと、今にも捜索隊でも出しかねない。
「もう一度、庭を見てまいります。それでお姿が見えなければ、人手を出してお探ししなければなりますまい」
「そなたは結論を急ぎすぎる」
「そうは言われましても、―――、孔明様!」
みゅう。
「季常・・・あぁ、幼常もいたのですね」
「尊兄?」
馬良はこの日はじめて軍師と会った。
白い道袍に、そこらの女人より長い髪を無造作に巾でくるんだ姿は平素を変わらぬが、浮かんだ笑みが常にもましてやわらかい。
そして、
み。
と、彼に抱かれた猫がなく。
小さな小さな茶色のトラ模様の仔猫が、大事そうに袖にくるまれている。
「ああ、よしよし。鳴くのでない、乳をのんだばかりでしょう?親が恋しいのか・・・そんなに鳴かないで・・・」
みぅみぅと心細げになく仔の毛並みを撫で、やわらかげな首元に口を寄せる。
そのさまは、愛しい人にささやくよう。かたわらの弟は微妙な面持ちでみじろぐ。
「尊兄、その猫どうなさいました」
「庭で鳴いていたのです。乳離れしていないのなら、抱いて人の匂いをつけるのは駄目でしょうが、しばらく待ってもいっこうに親の姿が見えなかったので」
それで、拾い上げて山羊の小屋にまわり、乳を与えてきたのだという。
「抱いて、政を執るおつもりですか」
「一度拾ったのです。捨てるわけにはいきません」
仔猫の細い爪が、手の甲にいく筋もの赤い線を刻んでいるのにも頓着せずに、やさしくやさしく抱いて、喉のあたりを指先でくすぐる。
こうしている間にも、軍師府の彼の机には、刻一刻と処理を待つ書簡がうずたかく積もりつつあるのだろう。行政も軍政も外交もささいな訴訟にも目を通す彼の仕事ぶりに馬良は賞賛を惜しまないが、彼なしでは処理できぬ事項が多すぎるのが問題だ。
「あなたに拾われたものは幸せだ。あなたは自分を傷つけるものさえ見捨てない」
末の弟が、やや皮肉げに言う。
「午後の予定をよもやお忘れではありますまい。荊州豪族のうるさ方との会談ですよ」
腕を組んださまはわが弟ながら尊大で、頭は切れるが、こういうところはすこしいただけない、と思う。
「そう・・・ですね」
ちらりと目線を流された。
やれやれ、私の執務室にやってきたことが、答えだ。
「預かりましょう。尊兄。我が家で飼いますよ」
実は、馬家は近所で有名な猫屋敷だ。
先祖代々の書物好きで、ぼう大な書簡をねずみに齧られないよう、いつからか猫を飼い始め、それが増える一方なのだ。
「ありがとう、季常。・・・・・ときどき、会いに行ってもいいですか」
「猫に?」
「そう、猫に。と、季常に」
弟がそっぽを向いた。
末の弟は自立心が強く、成人前にさっさと家を出て各地を放浪してそのまま、独りで住んでいる。
馬良の目の前で彼は仔猫に口付け、その手を仔猫を受け取るために差し出した馬良手にその手を重ねた。
「可愛がってください、どうか」
「もちろんです」
馬良はその手をそっと握る。つよくもなくやんわりとごくかるく。
「孔明様、時間がありませんよ」
弟が言い、重ねた手を切り離すようにその肩を抱いて、戸口のほうへ向けようとする。
彼らが出て行き、猫を抱いた馬良がのこった。
慣れた手つきでうす茶色のかたまりを抱き、喉をくすぐる。猫はくったりとして馬良を見上げた。
そういえば、名を決めなかった。
「・・・さっそくあの人を屋敷に招き、名づけを頼まなくてはね」
あの人が拾って名づけたのなら、私はおまえを愛するだろうよ。
軍師がそうしたように、馬良はやわらかな毛並みに顔をうめる。
仔猫は震えて、みぅとないた。