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YoruHika 三国志女性向けサイト 諸葛孔明偏愛主義
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室に入ると、夕陽の色にあかく染まっていた。
雑然とした様子に、立ち止まる。
竹簡がそこら中に積み上がり、大きな布帛が広げられている。大きな車輪のついた箱のようなものを中心に、何に使うのか分からない大小の木板や木片が散らばり、大工道具のほかに、何に使うのか分からない器具が散らばっていた。
「丞相」
足の踏み場もないというような居室に、慎重に立ち入った。
「姜維。良いところにきましたね‥‥見てください、兵糧を運ぶのに使えそうな運搬器具を考案したのですが、すこし欠点がありまして、おもうに――」
「あの・・丞相。寝ておられないのではないですか」
とうとうと語っていた声が途切れた。
ふぅと切なげに嘆息なされて、悲しげに眉を寄せるので、こちらまで悲しくなってしまい、眉を寄せた。

「それがそうでもないのですよ。――若い時は二、三日の徹夜などなにほどのこともなかったのですが。もう一晩目で辛くて・・・仮眠を取ろうと横になったら昼過ぎまで寝てしまいました。なんでしょうか、この敗北感」
「・・・いや、その」
敗北感、とは。
眉を寄せたまま、わたしもまた嘆息した。
寝ておられぬのならば、お諫めしなければと意気込んだが、寝ていらっしゃるのなら何も言うことは無かった。

「小ぶりにして小回りが利いた方がよいのか、それとも思い切った大きさにして沢山の荷を積めたほうが良いのか、となると、強度と耐久性が・・・」
「道幅の問題も、あります、丞相。それに大量の荷を積んだ場合、何かあった際には一度に多くのものを失うことになりませんか?」
「もっともな指摘ですね・・・ではやはり、小ぶりのものを多数つくったほうが良さそうです。一人で動かせるような軽量で簡易なつくりにしたいですね」
「数があるとなると、守りに兵を割かなくては」
「防御力を持たせればよいでしょう」
「え?」
木の箱に、防御力・・?
「ええ。鍵のようなからくりをつけるだとか。有事には車輪になにか噛むようにしてしまえば、動かせなくなるような」
「なるほど・・」
よくそんなことを思いつくものだ。
この方の幅広く奥深い叡智には、驚嘆するしかない。

それからは、木の板を割ったり、削ったり。
ああでもない、こうでもない、とこだわりにこだわりを重ねる丞相を、手伝って作業する。
「兵糧を運ぶのでしたっけ」
「兵糧でも物資でも」
「火矢に弱いのでは?」
「火矢の脅威を感じたら一箇所に固まらず分散して逃げるように訓練しておけば、被害は抑えられるとおもいますよ」
「車輪は一つですか?」
「軽さを重視しますとね。あとは取り扱いが容易くするために」
「このままでは不安定かと」
「そうなのですよね・・・転倒防止に支えをつけましょうか。二本・・・うーん・・・・四本のほうがよいでしょうかねぇ」
「四つ足の動物のようになりましたね」
「頭もつけたら、より動物のようかも・・・」
たいへん器用であられる師は、あっという間に木材でそれらしい頭部をつくってしまった。
「ぷっ」
思わず笑ってしまった。
天才でありながら、茶目っ気もおありになる。
「牛になりましたね、丞相」
「・・・・麒麟、のつもりだったのですけど」
「えつ、麒麟って・・・このようなものでしたか」
架空の生きものであるが、こういうふうなものじゃないと思う。
「いや、ええと・・・これは牛でよいのではないですか」
「天水の麒麟児とか称されたどこぞの凛々しい若武者に敬意を表したつもりだったのですが。貴方がそう言うのなら、牛でよろしいですよ、姜維」
「え、あ、えっ・・・その」
大きめの車輪がついている箱、脚が四本、角をはやしたどこか愛嬌のある四角い頭部。
無骨な可愛げと親しみやすさはあれど、悪いが、強そうにも、賢そうにも見えない。
とても、神獣、霊獣のたぐいには、見えなかった。




「食料輸送に用いる運搬の道具です。木牛とでも呼ぼうかと思っています」
非公式な集まりの場で、地味な感じにお披露目されたそれは、諸官の方々の「おお・・」という地味な感じのざわめきを誘った。

「・・・ねえ、姜維殿。あれって、頭部は必要なのかな」
背後でこっそりと小さな声で、馬岱殿がささやく。
「丞相が必要だと思われるならば、必要なのかと」
言葉を濁す。
実は麒麟を目指していたのだとは、言えない。
頭部をつけたのだって、なりゆきだ。
あの時すでに時刻は深夜を回っていて、夜中の工作に熱中していた丞相もわたしも少々おかしな精神状態であったのだ。


「なあ、おい、輸送具は良いんだが、頭部は、要らぬのではないのか、丞相?どう見ても、必要ないぞ」
響き渡った遠慮のない大声。
馬岱殿があーあと額を抑えて、小さな声でささやいた。
「魏延殿ってば・・・空気を読まないにも程がある」
丞相のこめかみにぴきりと青筋が立つのを見て、わたしは思わず下を向いた。



執務に疲れて、庭先に立ってみる。
よく晴れていて陽射しが眩しい。白い雲が浮いている。遠くの山に、雪が積もっているのが見えた。


こちらの建物に向かう回廊を、誰かが歩んでいる。軍靴を履いた足音。
すこし、早足であり、すこし、せっかちである。
回廊は木の板で囲ってあり、姿は見えない。けれど、無造作にくくっただけの樹皮色の髪が、早足の歩みとともに跳ねるのが目に見えようで、自然と笑いがこみあげた。

足音は、建物側の廊下にはいって篭るような音になり、歩みがゆるやかになった。重々しくはないけれど、隙がなく落ち着いている、ように感じなくもない。

落ち着き払っているかと思うと、意外に短気なところもある。
誰もが腹を立てるようなことを頓着せずさらりと受け流すかと思うと、何が気に入らないのか全く分からないところでひどく怒ったりする。
私の挙動を不躾なくらいじっと眺めているかと思うと、目が合った途端、うろたえて逸らしたりする。うろたえたことを恥じるかのようにすぐに顔を上げて、より一層力のこもった視線で私のほうを見つめ返す・・・。

そのような揺らぎは、若さゆえだろうか。
槍の技や用兵は若さに似合わぬ周到さであり、知略も群を抜いている。書籍を脇に置いて兵法を沈思黙考している姿などは老成してさえ見るのに、どうも未熟さを感じる部分がある。

私はなぜか、かれの未熟な部分にいとおしさを感じる――・・・

いや、なぜか、というほどでもない。
若者の未熟に愛しさを感じるのは、こちらが老いているからだ。
おもわず、ちいさく笑ってしまった。
どうもこのところ、少しでも暇ができると、かれのことを考えてしまうな・・・。





かの人は、居間と庭との境い目に佇んでいた。
空からふりそそぐ強い日の光と、暗い石壁との、はざまに。
逆光に照らし出された姿に、目を奪われる。
目を伏せ、広がる袖の中で腕を組んでいる。
わずかに首をかしげるようにした面貌は彫像のように整っていて、彫像ではありえないやわらかみも有している。膚はひかりを吸い込むように白く、双眸は淡い色をしていた。
なにを考えておられるのだろう。
と、おもった時、かの方は、わずかに微笑んだ。
それは優しげに、やわらかく。
思わず嫉妬してしまいそうになるほど、まるで、いとしい人を思い浮かべたときに自然とこぼれ出てしまったような笑みだった。

「丞相」
声を掛けると、思索から覚めたように視線を上げた。
「・・・姜維」


なにを、考えておられたのだろう。
或いは、誰のことを?
この方に、あのような笑みを浮かべさせることできる者とは、いったい、誰なのだろうか。


気がつけば、かの人は室内へと戻っていた。
「さて、では今日は、軍の編成と、軍備の振り分けについての書類の作成をやっていただきたいと――」
いつものように軍事に関する執務の補佐の仕事を割り振っていただくのをさえぎって、竹簡に伸ばされようとしていた手を取った。無作法であるのを承知で。
「丞相」
「姜維?」
「さきほど、・・・なにを、いえ。誰を、おもっておられたのですか」
「どういうことでしょう」
「庭先で、なにかを思い出したように、微笑して、おられた」

知って、どうするというのだろう。でも知らずにははいられない気分だった。
わたしは、この方のことでいっぱいであるのに。



ああ、と丞相は、頷いた。
「貴方の、ことを。考えていました・・・姜維」
「え、――」
まじまじと、顔を見る。距離は近かった。
え?
「わ、わたし、――?・・まさか、そのような・・」
わたしはうろたえた。
先帝陛下、もしくは古参の盟友のどなたかの名があがるものとおもっていたのだ。


丞相は、微笑んだ。
ひかりがにじむような笑みだった。


「貴方は、思慮深く胆力があって、武と知略に優れ、老成しているように見える部分もありますが、一方で、たいそう未熟で子どもっぽい部分があるな、と。・・・そう、おもうと、おもわず、笑ってしまって」


手の甲で口を覆って、うつむく。
ほめていただいたのか。けなされたのか。
どちらにせよ。
わたしはひどく動揺した。
しばらく顔を上げられそうになかった。



何に使う器なのだろうか。
持ち上げるとずしりと重い青銅の器で、複雑な文様で細工がしてあった。


成都の城に集められた数人の商人は、それぞれに粋を凝らした品物を持参し、卓に張った夜色の布の上に並べていた。
簪や扇など身を飾る、繊細な、あるいは華麗な品々。技巧を凝らした茶器や文具といった実用品。
劉禅様がお妃様への贈物を選ぶという会合だった。劉禅はすでに美しい翡翠で飾られた銀細工の首飾りと、あざやかな彩色の花瓶を選び取って退室しており、城勤めの女官や官吏が、自身の買い物と目の保養にと、広間をそぞろ歩いている。

若い将が姿を現すと広間がざわりと揺れた。
武装しておらず平服である。白い大袖の内衣に、灰緑色に水色を織り込んだ袖なしの上着、黒革の帯。簡素な金具でまとめただけの濃茶の髪が、歩くと流星のように尾を引く。
地味な衣服のくせに人目を惹きつける。姿勢も良いが、なによりも姿の良さが際立っている。
息を呑むような端整な容貌であるのだが、樹木の色の髪が無造作に額に落ちかかる様やほどよく日に灼けた膚が、男性的で凛々しい。
よく鍛えた堂々とした体躯であるのに腰のあたりは若々しく細く、伏せ気味の眼を縁取る睫毛が濃く翳を落として、心を騒がせるような色気をただよわせている。

商人やその伴の者、女官、文武の官の視線が彼にあつまり、さざなみのような感嘆のため息が音もなく波及する。ただ、反感の舌打ちも多く混じっていた。
まといつく視線にまったく意に介した風もなく、隙のない足運びでひととおりの品定めを済ませると、導かれるように彼は広間の片隅で足を止めた。
「・・・お目が高うございますなぁ。春秋時代の逸品です、姜将軍」

若い将軍が青銅製の小ぶりな器を手に取ったのを見て、見る目があるなと商人は目を細めたが、同時に苦笑も浮かべた。
よりにもよって、それかよ、と思う。
滅多に手に入らない自慢の品。本音をいうと、手放すのが惜しい。
「――春秋」
400年以上前の時代を、武人はそっと唇に乗せた。


成都の城に出入りする豪商は、ぷかりと煙草をふかした。
宮城の中でやるには無作法なのだが、荊州の時代から劉備軍に出入りして融通を効かせてやっているので、その無礼を咎められることはない。
「山東の出土品でして」
「なんだと?」
将校の表情が大きく動いた。
へえ、可愛げがある顔するじゃねえか。
商人はおもしろそうに口端をゆがめた。
青年は急に熱心に、器をいじりはじめる。
「これは、蟠龍文だな」
「仰せのとおり」
流石は、麒麟児と称される傑物。若いのに博識なものだ。
「――貴公のお師匠殿に献上しようと思って、持ってきたんですがねえ」

蟠龍とは、まだ天に登ったことのない龍をさす。
器に刻まれた龍の周りには荒々しい雲が意匠として細工されており、力強い躍動感があった。

「若いころの臥竜殿は、ちょうどそんな感じだったぜ。劉軍は弱小で、端から見りゃあ地面を這いずってるようなもんだったが、これから天下に躍動しようって気概に満ちてたな」

昔を思い出した商人は、ただよう煙草のけむりに片方の目をすがめ、慇懃な口調をくだけたものに変えた。

「丞相の、お若い頃・・・そんな頃からの付き合いなのか、其方は」
「そうだなぁ。漢水を渡る船が欲しいって、おれのところに来たのが、はじまりだ」

「これを、買いたい。言い値を払う」
「姜将軍。もうちょっと交渉ってもんを学んだ方がいいぜ。商人に向かって、言い値で良いなんて、禁句だぜ?」
「これで足りないか」
「いやあんた、もうちっと、人のいうこと聞けよ」
ずいっと差し出された袋に開けてみる。貨幣だとしたら、軽い。しかし中身は銀だった。詰まった銀の粒の多さに、商人は顔をしかめた。若者が持ち歩くような額ではない。
「なんだこれ。将軍職ってたって、魏領から下ったばかりの若造が、なんでこんな大金を持ち歩いてやがるんだ?」
「丞相のお傍に侍るのだ。非常時のそなえは必要であろう」
当たり前だというような調子で返される。
「うお、健気だな・・」
「それで、足りるのか」
「ああ、足りるってことでいいや」
骨董品なので値のつけようがない。
売るのが惜しい珍しい逸品なので、ふさわしい人物の手元に置くのがよかろうとおもって、持ってきたのだ。
どうせ、ただで臥龍に譲ってやる積もりだった。彼の弟子に売りつけたって、構うまい。
高値すぎて、臥龍に怒られるかもなぁ。
想像した商人は肩をすくめ、西蔵(チベット)産の煙草をふかした。
臥龍には、揚州産の墨でも渡しておくか。


老年の域に入る商人からすれば孫のような年齢の青年は、近くで見ても美形だった。
くっきりとした目鼻立ちにきりりとした眉、まったくもって見目の良い青年将校である。愛想の欠けらもないのが玉に疵だが、この凛々しくも端麗な青年に愛想があったらややこしい事態になりそうで、このままで良いという気もする。


臥龍は、こういうのが好みなのかねえ?
手のひらにおさまるほどの大きさの青銅器を、綿入りの布袋にくるみながら、ふと思う。
「これが好みじゃあ、おれが振られたのも、しょうがねえなあ・・」
布袋で手渡しながら、思わず心中を口に出してしまった。
青年のきりりとした眉がひくりと動く。
「・・・其方、丞相に」
声に殺気がにじんだのを感じたが、商人はじゃらじゃらと腕につけた装飾品を鳴らして、煙草をふかした。
「昔の話だぜ。臥竜は綺麗だったし。おれもたいがい各地を旅して色んな人間に会ったが、臥竜みたいなのは初めてだったんでな。加えて頭まで絶品とはなぁ。で、おれのもんにならないか、と」

おお、戦場だったら叩っ斬られてんな、おれ。
噴き上がるような殺気を感じて商人は、殺気をかわすようにひょいと洒脱に腕を組んだ。
ちらっと青年の腰を見たが、宮中ゆえか、丸腰だ。
丸腰だろうが、一流の武人である彼が本気になったら瞬殺であろう。

「春秋の青銅器は山東がいちばん出来がいいんだ。山東は、臥龍の生まれ故郷だろ。そいつは、臥龍にやろうとおもって持ってきたんだ。逸品だぜ、大事にしてくれ、姜将軍」

臥龍の故郷、というあたりで、ふっと息を吸うように殺気を消した青年は、視線を伏せ、はにかむように微笑んだ。
「・・・丞相に差し上げる・・」
うっぅわぁ、可愛いな、こいつ。
こんだけ顔よくて武術も用兵も一流で、軍略もあって。死ぬほど不愛想なくせに、臥竜を呼ぶ声だけこの甘さなのか。

修練の用意をしなくては、と日の傾き具合を気にしつつ、青銅の器を大事そうに持って青年将校は出て行った。



しばらくぼさっと放心していた商人は、きよげな薫香に気付いて顔を上げた。
「相変わらず、その草を愛用しているのですか。そのうち臓腑をやられて死にますよ」
「今も昔も過労で死にそうなあんたに言われたかねえな」
「老けましたね、少し」
「あんたはびっくりするくらい変わらんな」
彫刻のような白皙の容貌も、夜のように黒い髪も。
地位が上がっているくせに着るものも言動も。

『新野の民が、劉備様に付いてくる。かれらを逃がす船が必要なのです』
変わらない。静やかな佇まいも、清廉な思考も振る舞いも。
穏やかなふりをして内側に焔のような烈しさを秘めているところも。

「これを貰います」
夜色の布の中から彼が手にとったのは、いつも彼が私用で買うような硯でも筆でもなく、新緑色の織り紐だった。
深い緑と浅い緑と銀を織り交ぜた瀟洒な飾り紐で、両端に、透明な水晶を通している。

すごいな。分かりやすい。
あの坊やの髪紐だよな。

濃茶の髪には、よく映えるだろう。
晴れた日には、純粋無垢な水晶がきらきらと日を反射して、しなやかな髪といっしょに揺れるのだろう。

それよりも商人は、目を伏せた臥竜が控えめであるがやわらかな笑みを浮かべたのに驚いた。
ああ、うん。
分かりやすい・・・・師弟そろって。

こいつらは、自分たちが相手を想うときどんな顔をしているのか自覚したほうが良い。
そう忠告したものかどうか迷って、商人はあたらしい煙草に火を入れた。手がわずかに震えるのは、認めたくはないが老いたから。

「ご自愛ください。まだ用はたくさんございますので」
「北へ出征するんだろ」
返答はなく、ひとつだけ瞬くと彼は背を向けて。優雅な衣擦れの音を立てて去っていった。



後日、案の定、北伐の準備とやらで臥竜の執務室に呼びつけられた商人は、彼が執務に使用する大卓の上に、蟠龍文の青銅器を見た。
墨をする際に用いる水を入れておく器にしているらしい。
同室の隅っこに黙々と竹簡に取り組む弟子がいたが、樹皮色の髪はそっけない金具で留められていた。
「渡してないのか?」
こっそりささやくと、ちらりと目を上げて、
「茶の支度を、申し付けてもらえますか、姜維」
と、青年を部屋から追っ払う。

は、と返答して隙のない足運びで出て行った青年が扉を閉めると、書簡の影でほぅと嘆息する。
「・・・・大切すぎて、使えないと。きっぱりと言い切られました。一度も使ってもらえないのです」
意気消沈とした様子に、吹き出した。
「武人が使うにゃ繊細すぎるんだ、あの髪紐。もうちっと丈夫そうなやつを次から次へと渡せよ。そうすりゃ普段使いできるだろ。おれの店から届けてやろうか」
「そうですねえ・・」
あまり気乗りしないような様子に、商人はくっと唇を曲げて、夜のような黒い髪からのぞく耳に、口を寄せた。
「じゃあな、あれだ」
「なんですか」
「同衾した翌朝、坊やの髪を結ってやれよ。そんで問答無用でくくりつけちまえ」
「そのような・・」
臥竜は、恥じ入るように顔を伏せた。


「・・・貴様。丞相になにをしている」
ちょうどその時坊やが戻ってきて、修羅場になった。
すごい既視感があった。
あれだ、さいしょに臥竜を口説いたとき、おれは趙雲に斬られそうになったわけだが。
坊やの抜剣は趙雲より速かった。別に、武芸の技量の優劣ではなく。
坊やはあの時の趙雲よりずっと若くずっと短気で、要するにやばいヤツだった。
「あなたが傍にいると微行になりませんね」
伴をして市を歩いていた時のことだ。
護衛として付くという覚悟であるので武装していた。私用の外出というので密かなものである。表袍の下に帷子をまとい、袖に隠して手甲をつけていた。腰に剣を帯びているので、武官であることは誤魔化しようがない
「あなたを危険な目にあわすわけには参りません」
武装は致し方ない事です、と強く言い切ると、軽やかに歩を進めるままに、顔だけをちらりと此の方に向けた。
「そういう意味ではありません。分かりませんか、とても目立っているのです。ことに若い娘たちが、あなたを見ておりまして・・・」
意味ありげな笑み、・・しかしどういう意味が含まれているのか解せない。
「剣を下げておりますから、怯えているのでしょうか」
武器を持たぬ者を怯えさせるのは本意ではない。
だが、それよりも丞相の身の安全のほうが、大事だ。
国とっても、わたしにとっても。

くすりと笑われて、目をみはった。
「なにがおかしいのですか」
「さあ、・・・」
はぐらかされて困惑する。それに、思わぬほど顔が近付いていて、胸が苦しくなる。
「丞相・・」
ひそめた小さな声で呼ぶと、ないしょ話をするような様子でこっそりと彼は言う。
「貴方の容姿がたいそう良いから・・・姜維」
なにを言われたのか、とっさに理解できなかった。
わたしの容姿は整っている、らしい。さんざん言われてきたことだ。
しかしこの方に言われるのは、これまでとわけが違う。

この御方にとって、わたしの容姿は価値をもつものなのだろうか。
少しでも好もしいと、おもってくださっているのだろうか。

一瞬気を取られて、清雅な姿を見失ってしまう。
ざわざわと活気のある市場のざわめき、商店にあつまる人の群れ。
「丞、」
口をつぐむ。大声で呼んでしまえばそれこそ微行はだいなしになる。
行き交う人々の群れの中で声がつまった。
なんたることだ。
私情にかまけて護るべき方を見失うなんて。

露店にたかる人ごみの中にふと浮かび上がる慕わしい姿を見付けたときは心の底から安堵した。
身の程をわきまえぬ無礼を承知で二の腕を掴み、声を荒げた。
「どこにも行かないでください」
わたしを置いて、どこにも行かないで下さい。
「・・姜維」
迷子のわらわのような顔をするでない、と。かの人は忍び笑い、わたしの眉間にふかぶかと刻まれたしわを、なだめるように撫でた。
(また子どものような扱いを)
困ったような表情。ぐずる子どもの扱いに困ったような顔に、心中が荒れ狂う。

わたしが物申すまえに、彼は名案を思い付いたというような表情になった。
「後ろを付いてくるから、見失うのです。隣を歩きなさい。姜維」
「え、――」
炎が燃え盛るように荒れていた胸中が、すぅっと鎮火する。
隣を、歩く。この御方の・・?
わたしの逡巡を蹴り飛ばすように丞相は、わたしの手首を掴み、歩き出す。
それこそ、子どものような扱いであったけれど、文句を言う事もできずに。
屋台で売っている名物だという食べものの話を聞きながら。
顔が赤くなるのを止められなかった。

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