左後方だ。
大人の歩幅にしておそらく10数歩の左の背後の、背の低い木の、後ろがわ。
多忙すぎる執務の合間をぬって息抜きに出ていた諸葛孔明は、ひとりで過ごす平穏な時間が終わったのを感じた。
城からすこし離れた丘陵地。すこしだけ、空と近くなれる場所。
どうやってこの場所を突き止めたのか知らないが、…いったいあの人はなにをしているのか…。
「…孟起。そんなところでなにをしておいでですか」
うっと息を呑む気配がして、背の低い潅木がゆさゆさ揺れた。この木は、人がにょっきり生え出るめずらしい木だったらしい。
日差しが眩しくて空気がもやもやしていて、春なのだなあと孔明は空を見上げた。
「…どうして、俺がいるのが分かったのだ」
「…まあ、なんとなく」
わからないほうがどうかしている。
あれでいちおう気配をかくす気があったのだということが驚きだった。
「厩の係りの者があたふたしていたぞ。軍師が伴も連れずにひとりで外出してしまったと」
「厩の…。なるほど、そうですか」
追ってこれたわけが分かった。
馬超はよく厩にいるので、城内で馬超を探すときは、私室より先に厩に行くのが順当であるとされているくらいだ。厩の番人とも馬の世話係とも親しいのは当たり前なのだろう。
孔明としても、近侍の文官には見つからずに出てこれたが、馬をつかう以上厩はさけて通れなかったのだ。
少しでも謎があるとそのことばかり考えてしまうが、謎が解けてしまうと、とたん興味はなくなった。
地面に寝転んでいた孔明は、寝返りを打とうとして視線を空から離すと、かたわらでは馬超が孔明と並んで坐ろうとしている。
孔明は手をのばし、中途半端に腰をかがめていた馬超の腕を、絶妙のタイミングでおもいっきり引いた。
「ぅを!」
猛将は後ろに手をついて、かろうじて転倒をまぬがれる。
無防備になった腹に、孔明はぱふんと頭をのせた。
「おい…っ」
「ちょうど、枕がほしかったのです」
「そうか…。っておい、俺が枕かっ!?」
「ああ。動かないで。…少しだけです。少しだけ休んだら、また執務に戻らなければ…」
語尾はかすれて、寝息になってしまった。
…これでは動くに動けない。
近い茂みで、ウグイスが鳴いている。
どこからか良い匂いが漂ってきて、馬超は鼻がむずむずした。
なんぞ花でも咲いているのかときょろきょろあたりを見回して、…匂いの正体は、孔明が焚きしめた香だった。