世に、春眠暁を覚えずとやらいう。
乱世の姦雄、曹孟徳の比類なき珠玉、荀令君こと荀文若。欠けたところのない満月のようにすべてが整ったかれに欠点があるとすれば、それは寝穢いことである。かれは睡眠をこよなく愛す。つまり朝になってもなかなか起きない。
「おい、文若。そろそろ起きなければ」
同衾していた主君のほうが、ごそごそ起き上がった。
荀彧が寝穢いのはいつまでも眠りを貪っているという一点だけであって、かれの寝相は端正である。
あくまで端然とした寝姿に、曹操の好奇心が触発された。
黒絹のような髪をすいとはねのけて秀でたひたいをすいすいと撫でるが、荀彧はぴくりともしない。
品のいい耳朶をつまんでくりくりとくすぐるようにすると、たぐい稀な智臣は妙なる声であえいだ。
「うぅ・・・ん」
おお…!
曹操はひそかに慨嘆した。
眠っていても弱いところは同じなのか!
―――あたりまえである。
しかし曹操は大発見した子供のように喜び、かつ興味深く実験をくりかえした。
「主公~。なにソワソワしてるんすか?」
朝議の席で、あくびをしながら郭嘉が言った。ひとり寝のぜったいできない男だが、こうして時間通り朝議に出席しているところをみると、夕べ同衾したのは陳羣であったのだとおもわれる。
「主公~、荀彧殿のアレ、ちょいヤバじゃないすか?」
自分の首すじを指先でとんとん叩いて示して、郭嘉が言う。
曹操はうっと息をのみこんだ。
「気づくか、やはり」
「ほかの奴はどうかな~。おれくらい目端の利く奴じゃなけりゃ大丈夫でしょうけど」
荀彧の耳のうしろがわとうなじがわの首のつけねに、今朝つけてしまった赤い痕。
「ふぅ~ん、あれが荀彧殿の弱いところかあ」
「あんまり、見るな」
「いいじゃないですか、減るもんじゃなし」
「おまえに限っては減りそうだ」
ひどいなあ、と郭嘉はあくびする。
朝議は、なかなか終わらない。
はらりはらりと散る花のなか、ほろりほろりと夜が更ける。
昼間から、花見の宴を張っていた。
曹操の後宮には歌妓や舞妓あがりの女性も多くいる。それらを舞わせ歌わせているうちに夕刻を過ぎて日が落ちれば、灯をいれて宴をつづけた。
夜がふけ宴果てて、曹操はいまを盛りの花の下、ひとりぼんやりと花を見上げていた。
人払いをしているのでまわりには誰もいない。宴の残骸――料理の皿や酒壺は、あたりに散乱したままである。
さやさやとひそやかな衣擦れがし、曹操の背後に、ひとりの文官が膝をついた。
「お召しにより参上いたしました、主公」
「…おう。待っておった」
目に見えぬ背後にいても、えもいわれぬ芳香が漂ってくる。それを愉しみながら、曹操は振り向いた。
「荀彧」
「はい」
現われた曹操の寵臣は、きわだった気品の持ち主だった。袖をはらう仕草、さげたこうべを上げる間合い、ほんのちいさな挙措でさえ他の誰にも真似できぬ品位にあふれている。
「酌をしてくれぬか、荀彧」
「ご命令とあらば」
冠をいただいた頭頂から衣のすそ、指先にいたるまで、荀彧には隙がない。うなじにかかる後れ毛までもが、気品に満ちている。
曹操は、注がれた酒を口にふくんだ。
「花が散るのう…」
「はい」
「おぬしを散らしたい、と言ったら。どうする、荀彧よ」
「ご命令とあらば」
荀彧の眸は澄んでいるが、底はない。澄んだ湖面でさえ一石を投じれば揺らぐというのに。荀彧の眸は揺らがない。
「私は主公の臣下でありますれば、御命令にはさからいえません。…命じてごらんになられますか、主公」
けぶるような美貌に、曹操は、ふ、と鼻を鳴らす。
「いいや。やめておこう。…いまはまだ、な」
こくりと喉をならして酒を乾し、あいた杯に美酒をそそいで差し出す。
「飲め、荀彧」
花がひとひらひらりと散って、注がれた酒の表面に浮いた。
「頂戴いたします」
荀彧は、花ごと酒を飲みくだした。