晩秋の天気の良い昼下がり、翊軍将軍の邸宅で働く家僕はひと通りの掃除をした後で、干していた寝具を取り込み、主人の居室および客間の寝所に、陽の恵みをたっぷりと浴びてふっかりとなった敷布と掛け布団をあつらえた。
さて次は庭の手入れでもしようかと玄関に出たところで、貴人と出くわした。
貴人は、生成り布の袍を身にまとい髪を素布でくるんでいて全くもって貴人らしい恰好はしていなかったが、この国においては知らぬ者のない要職にある方である。
うやうやしい礼儀などは好まぬ方であるのを知っていたので、家僕はいつも通り気さくに出迎えた。
「いらせられませ」
「また寄らせてもらいました。ご主人は御在宅かな」
「いえ――」
家僕の笑顔がくもった。言いにくいが、言わずに済ますこともできまい。
「それが――兵舎で何かあったようで、呼び出されてお出掛けに」
「兵舎で。何かもめ事か・・」
表情には出なかったが貴人――軍師将軍から落胆の気配がうかがえ、家僕のほうこそ残念でならなかった。
この御方がいらっしゃると分かっていたなら主人とてそう簡単に出掛けなかったであろうし、そもそも軍の重鎮である主人を兵舎のもめ事程度で呼び出さないでいただきたいものだと、家僕は八つ当たりめいた感慨さえ抱いてしまう。
意を決して家僕は顔を上げ、口を開いた。
「軍師様。庭の奥で名残りの薔薇が咲いております。香りがようございますよ。垣根の山茶花の咲きはじめの花も可憐でございますれば、ひとめぐり散策なされてはいかがでしょう」
邸宅の粗末さに比べて庭は広いほうだ。
こんもりとした山に隣接しているため黄葉した樹々が目にうるわしく、野趣あふれた秋の植物が咲き乱れるさまは風情があるといえなくもない。
庭に面した縁台に熱い茶を用意し、妻がつくった柿の甘味を添えて出すと、家僕の言葉通りに庭をひとめぐりした軍師将軍は静かに座し、美味そうに茶を飲んだ。
端整な顔に少々の憔悴があるのを見て、家僕はまたもや意を決して提案をした。
「御多忙でお疲れでしょう、軍師様」
「そうでもないが・・まあ、少々は」
「実は、・・・布団を干したばかりなのです。主人の寝室ですこしお休みなっていかれては?」
提案は予想通り、苦笑と共に一蹴された。
「気遣いはありがたいが。主人不在の邸宅でそれは非礼であろう」
この応えを予想していた家僕は、あえて残念そうな表情をつくって更なる提案を持ちかけた。
「では客間にご案内いたします。それならばよろしゅうございましょう?」
主人不在の折、客人が客間で待つことは何の不都合もなく当然のことだ。
都合良いことに客間の布団も干したてである。
待つ合間に心地良い寝具にて横になったとて、なんの非礼もない。
「しかし、できれば、主人の居室に居ていただきたいものですなあ」
「それはまた、どうして」
「主人はあの通り、肝が太く度量広くあまり物事に動じぬ方です。軍師将軍は徒歩でお越しで、ご愛馬をお連れではないのでご来訪に主人はすぐには気付かないでしょう。どうです、主人を驚かせてみるというのは」
かるく目を見張った軍師は目を伏せ、低く軽やかな笑いをもらした。
「たいした家人だ!その機転と肝の太さ、さすがは趙子龍に長年仕えているだけのことはある」
孔明とて、このまま趙雲に会えぬまま無為に帰るのは、本意ではない。
干したての布団でしばし休息というのは魅力的な誘いであるし、なるほど用を済ませて帰ってきた趙雲が、自室に戻ってきて孔明がいたら吃驚するかもしれない。
想像してみると愉快だった。
本来であれば、言った通り不在中の主人の寝室に客が入るというのは考えられぬ非礼だが、といっても、孔明と趙雲は情を交わす間柄であるので、趙雲の居室も寝室も孔明は熟知しており、今更というものである。
家僕は案じていたが、日暮れ前に主人は戻ってきた。
動じてはおらぬが少々殺気立っている気配は感じられた。
兵舎でなにかもめ事があったというが、これはよほど位の高い武将のどなたかが絡む諍い事であったのかもしれぬ。よく見れば着衣にも汚れがあった。
「風呂の用意を頼む」
「かしこまりました、ただいま」
出迎え、外套を受け取りながら家僕は秘かにほくそ笑んだ。
風呂の用意は、とうにしてある。
名残りの薔薇(そうび)の花びらをふんだんに浮かべた風呂を。
まったくもって家僕の予想通り、主人は風呂に直行せずにまず居室へと向かった。
主人の居室にも、それから続きの間である寝所にも、色とりどりの花を花瓶に盛るように活けて置いてある。
その馨しい香りのなかでいまごろは主人の大切な御方が、干したての心地よい寝具にくるまれてしばしの午睡を愉しんでおられる筈だった。
肝の太さに定評ある主人も、これには吃驚されるに違いない。
肝の太さに定評ある主人も、これには吃驚されるに違いない。
さて、湯の具合を見てこなければ。
夕餉のしたくも手抜かりなく整えなければならぬ。
家僕はいそいそと湯殿に向かって歩いて行った。
外へと一歩を踏み出すと雨に包まれた。今日は冠をつけていない。重い袍も着ていない。それだけで身は軽やかでどこにでも行けそうな気がした。
どこにでも――
ふふ、と喉もとに笑みがわだかまった。
どこにも行けようはずがないというのに。どこにゆくというのだろう。
髪にも顔にも雨滴が落ちかかる。
このまま。降りやまなければ。降って降って降って天地が崩れるほどに降り続けば。この世から争いはなくなるのだろうか。
臥した龍、と呼ばれていたことがあった。雲を得れば天に昇るのだと。
龍は天に昇ってなにをするのだろう。慈雨を降らせて人を生かす?
そう―――ひとを生かす龍になりたかった。だのに私はあまたの兵を死地におくりこむ。
目から雫がこぼれた。つぎからつぎへと、ぼろぼろと。のどから嗚咽が漏れる。
無慈悲な天にうつむいてぼろぼろと目から雫をこぼしていると、ふうわりと何かがかぶさった。慣れた匂い。そして気配。
「どこかに―――」
「うん?」
「どこかに、私が行ってしまいたいといえば。あなたはどうなさいますか」
「おまえが真に望むのならば、どこへなりと共にゆく」
慣れた気配に抱き締められた。慣れた匂い、体温。具足の硬さですら。
優しく強い抱擁を受ける。遠巻きにあった護衛の気配も今はない。雨降りしきる天と地のあわいにふたりだけ在るような都合の良い錯覚がした。
目を伏せるとまだ涙がはらはらとこぼれ落ちた。
「子龍。あなたがいなくなったら私はもう泣くことすらできないという気がします」
言い終わらないうちに、武将の肩衣にすっぽりと包みこまれて抱き上げられた。布に包まれたまま無骨で美しい肩の筋肉の上に顔を乗せ、一人分の重みなど苦にもならぬという確かな歩みに身をまかせて止まらない雫に濡れている目を閉じた。