「孔明」
この部屋の主に呼ばれた。
この男と自分との関係をいいあらわす言葉を捜すのはむつかしい。
むつかしい上にかなりどうでもいいことなので、特に定義はさだめていない。
「孔明」
「・・・孟起。いっておきますが、わたしはまだ起きませんよ」
「ほら、見ろ」
ジャっというのは、たぶん窓を覆う帳が開けられる音であろう。
わたしはふとんの端をしっかりと握り締め、もそもそと亀のごとくその中に潜んだ。――否、潜もうとした。
人のいうことを微塵も聞かない、そして場の空気をよむ度量のない男は、いつもわたしの牙城を安易に、そして容赦なく崩す。
寝ているもののふとんを剥ぎ取るなどという所業はいつだって許されるものではない。職務が休みである朝ならば尚更のこと。
わたしはどんな罵言を放ってもよい立場であった。
だが、洩れた言葉といえば、
「・・・雪・・・・・・」
という唸りめいたつぶやきのみ。
冬に、いやすでに春先という区分であろうが、ともかくいまの時節に雪がふるのは珍しくない。
まして降っているのは、春に相応しい綿雪である。
だがそれは例年ならば、という注釈がつく。
この冬はどういうわけか、雪がひどく少なかったのだ。
「・・・・・・」
如何な感想を述べようかと思案する間もなく、わたしの体はぶるりと震えた。
「寒いのか」
男は何故か嬉々としてその良く鍛えられた腕をわたしに廻してくる。
「なんだ。薄い反応だな」
拍子抜けしたように云う。
「おまえは、雪をみたら真っ先に黙々と足跡をつけてまわるタチかとおもったんだが」
・・・黙々と、ってなんだ。人を根暗みたいに。
「・・・新雪の雪原なら・・・」
そうしてもいい。だが、まだ雪は降り出したばかりのようで、地面をまだらに覆っているだけである。これで足跡などつけに行ったら、沓が泥にまみれるだけであろう。
「それもそうだ。ならば、積もるまでまだ間があるな?」
といって、男はわたしを押し倒した。雪が積もるまでそういうコトをして待つ気であるのか。
都合が良いというか悪いというか、そういえばここは閨であった。
「・・・積もるかどうか・・・」
分からないではないか。春の雪は淡雪という別名があって、凍り凝ごることなく融け消えることでも有名なのだ。
というようなことをわたしはぼそぼそと説明した。
休日の朝に明瞭な思考を持つことはむつかしい。
「積もらなければ、ずっとこうしているか」
それも悪くない。
男は鼻歌でも歌いだしそうな上機嫌で、わたしの帯を解きだした。
結果を云おう。
雪は積もらなかった。