花は、いつとはなしに咲いているものだった。
年が明けて寒さがゆるみ、風が柔らかくなる頃に、城の外縁や農家の庭先などに、白や紅色の花が咲く。
それらには梅や桜、あるいは桃といった区別があるらしいのだが、詳しいことは分からない。気にしたこともない。
それが桃花であれば、主君が義兄弟と共に酒宴をおこなう。
誘われれば断る理由もないので付き合う。さいごには酔っぱらいの面倒をみるはめになるのだが、それもまたいつものことだ。
ただ桃花の宴では張兄がたいていは機嫌がよく、大酒を食らった挙句の暴力沙汰に及んだりはしないので、普段の酒宴よりは楽かもしれない、それだけのものだった。
春の花の、柔らかく甘い色合いは、自分には縁遠いものとしか思えなかった。
というのに、今年の春は。
白に、淡紅。
陽に透ける花弁が、軽く指先を伸ばせば触れられそうな距離にある。
蕾から花開いて、まるで目覚めたばかりのように揺れている。
思いがけず、胸の内がざわめく。
薄い花弁は繊細で儚げ、それでいて、大地に根付く強さのようなものがある。
「趙将軍はどうなさったんだろう。立ち止まっちゃって、微動だにしねえけど?花なんて愛でる趣味、なかったよなぁ」
「そうだけど、絵になるよな」
通りがかりの巡回兵のつぶやきも、樹下にたたずむ偉丈夫にみとれる侍女の視線も意に介さず、趙雲の物思いは続く。
花見に、誘っても、よいのかどうか。
想い人は執務中だ。いつもの通り。
邪魔をするわけには、いくまい。
だが、花とは気が付くと咲いているのと同じく、気が付くともう散っているもの。
見ごたえのある内に、見せたほうがよいのではないか。
夜を待ったとしても、どうせあの人は夜になっても執務を続けるし、まして夜では花は見えない。
軍師殿はご休憩もなさらない、と文官が嘆いているのもよく聞くことだ。
ご主君のお為に働くのはご立派とはいえ、お身体が心配だよなぁ、と。
軍の補給、人事、諸侯への対応・・・どれも誰かが代われるものではない。
だからといって、机から一歩も離れないのは心身に負担がたまっていくことだろう。
・・・止めておくか。
・・・・・・いや。
やはり、誘おう。
「花見に?それはうれしいですね。執務が煮詰まっておりまして、歩きたい気分だったのです」
誘いは、あっさりと受諾された。拍子抜けするくらいに。
「きれいですね。風もやわらかくて心地良い」
「この道の奥に桃が咲いているのです」
主公たちの酒宴の場所は避けた。
軍師は静かな場所を好むような気がしたから・・・そして、二人きりになりたかったから。
流れてくる春の風は、剣の鍔に染みついた鉄の匂いとはまるで別世界のものだった。
樹木の枝に衣をまとうように群れ咲く淡い色の花弁。
風がふいて枝を揺らし、やわらかそうな花びらがふわりと舞う。
「・・・咲いているのは桃と仰いましたが。これは桜花ですね、趙将軍」
「花の区別など、つきません」
「ふふ」
袖で口を隠した軍師がおかしそうに忍び笑う。
春の花など自分には縁遠い、ものだったのだ。これまでは。
「誘っていただいてよかったです。──春は、ほんの短い間しかないのですから」
これまではそうだった。おそらく、これからも。
だが。
これから先の春もずっと、花の下で、またこの人と同じように肩を並べていたい──その想いが、胸に芽生えていた。
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