*孔明女装。孫尚香が正史よりの悪役になってます
揚州の孫家から主君、劉備のもとへ嫁いできた孫夫人こと孫尚香に呼びつけられ、奥宮へとやってきた趙雲は、不機嫌だった。
揚州の孫家から主君、劉備のもとへ嫁いできた孫夫人こと孫尚香に呼びつけられ、奥宮へとやってきた趙雲は、不機嫌だった。
戦場では絶大な武威をまとい、蒼銀の鎧が戦場に姿を見せようものなら弱兵であれば逃げ出してしまうほどの威圧を放つが、平時は温和であると評されている。
そういう男が隠しもしない不機嫌な顔でやってきたので、奥宮に仕える女たちの顔は一様に引き攣った。目を伏せ無言で頭を垂れ、通りすぎる長身を見送る。
女傑と称される孫尚香は、趙雲の表情を目にすると内心では臆していたが、高い自尊心から表には出さずに、朗らかな声音で話し掛けた。
「よくきてくれたわ、趙雲」
「は」
あからさまな仏頂面とそっけないにも程がある趙雲の態度に、孫尚香は鼻にしわを寄せて無理やり笑った。
「男なら誰でも奥宮に呼ばれたら大喜びで、そわそわしながらやってくるっていうのに。すごいわね、これだけ女ばかりいる場所に何の関心も無いって顔、いっそ見事だわ。さすが趙子龍というべきかしら」
笑いながらの嫌味に応えはなく、ひややかな視線が寄越されるだけだった。
孫尚香は間違っても気の長い性質ではない。早くも切れた。
「なんなのよ、その態度!」
「貴女が、主公・・劉備様を、敬って接してくださったら、私もこのような態度を取ることはない」
「あなたたちは、みな同じことを言うのね」
「女人であるから、妻であるから、男を敬い、夫に従えと、申し上げているのではありません。貴女は貴女という一人と人として、劉備様という一人の人を敬って接して欲しいのです。劉備様は我らが主君でありかけがいのないお方であり、そうでなくとも、たとえ劉備様が乞食であろうとも、敬意の無い乱暴な態度で接していいというものではないということを、どうかお分かりいただきたい」
この際立って武勇のすぐれた姫は、けして弱きものに横暴に接する性質ではない。
むしろ弱きものを助け、強きに立ち向かう人だ。
ひどく遺憾なことは、現在の彼女が立ち向かっている強き者というのが夫である劉備であるという事だ。
なぜここまでこじれてしまったのか趙雲には理解できないが、劉備の忠実な臣下にとって、揚州の兵を引き連れて並べ侍女にまで武装させて威嚇するという孫尚香の劉備に対する傲慢なふるまいは、とうてい見過ごせるものでも許せるものではなかった。
「・・・分かってるわよ」
尚香の声に苦さが混じった。
趙雲は目を上げてようやく気付いたのだが、今日の尚香は武装束ではなかった。
鮮やかな紅の武装束を纏い、腰に細身の剣と弓を佩いているのが常の姿であるというのに。
真紅の地に花模様の銀刺繍がほどこされた、あでやかな着物を身につけている。
艶のある黒髪はいつもと同じように頭頂で一つにまとめて結い、馬の尾のように背で揺れているのだが、結いの元に赤い花飾りが挿してあるのが、くっきりと整った勝気な顔立ちに華やぎを添えている。
「なにか、云うことは?」
「は?」
「着飾っている女に、云うことは無いの?」
「殿に、言っていただいてください。私からはなにも」
「この―――朴念仁!!」
怒鳴られようと言う事などひとつもない。
「なぜ、私を呼ばれたのか。用がないのなら、退出します」
「わたしが呼んだんじゃないわよ」
尚香は横柄にあごをしゃくった。
はじめて気づいたが、奥には女人がたたずんでいた。
趙雲はあえて目を逸らし容貌を目に入れないようにしたが、背が高く、気品ある女性であるようだった。
尚香より年上であろうが、それだけではなく孫家の姫である尚香よりも高貴で近寄りがたいものがあるばかりか、どこか浮世離れした雰囲気もある。
いったいどこの深窓の姫君か。
考えて趙雲はうんざりとした。
つまるところ、見合いではないのか、これは?
「今日は、祭りなんでしょ。秋の収穫祭だっけ」
「はい」
それは本当だ。主人に身近に使える使用人と警護の兵、街を守る警備隊を除くすべての官吏も将兵も職務は休みとなっていた。
それもあって、奥宮などといういささかの興味も関心もない場所に呼び出されたことが趙雲の不機嫌を煽っていた。
大きな祭りだ。多忙極まりない趙雲の想い人も、職務を休むであろう。いや、休むべきだ。あの人はまったく働き過ぎだから。
連れ出したい。
街は飾り付けがされ、普段はない露店が並び、食べものも物品も、また芸や音曲をなりわいとする者も集まってくると聞く。
きっと興味を持ち、・・・喜ぶのではないか。
少々変装などしていただいて、雑踏にまぎれこめば目立つことはあるまい。
「・・・祭りに、行きたいと思います。もし将軍のほうのご都合にさしつかえがありませんでしたら、伴をお願いできないでしょうか」
流れる水のように静かで奥ゆかしい、この上なく耳に心地よく慕わしい聞き慣れた声音に、趙雲は一瞬すら迷うことなく返答した。
「承知しました」
「本日、ほとんどの将兵は休みだと聞いておりますが。大丈夫ですか」
「ええ。もちろんです」
こちらからお誘いしようと思っていたのだ。
公務であろうとも私事であろうとも、構わない。
声の方に視線を上げると、軍師と目が合った。
なぜか、女装をしている。
というか先程から孫尚香の奥に佇んでいたこの上もなく気品のある姫だとおもっていた人が、軍師だった。
趙雲は一瞬混乱した。
軍師との、見合い、なのか?
私と、軍師が?
孫尚香及びこの世に存在するあらゆる神だとか運命だとかに感謝しそうになったが、・・・いや、そんなうまい話があるわけが無いような気もする。
「・・・びっくりするくらい驚かないわね、趙子龍」
「驚いては、おりますが」
驚いたのは、驚いた。
女装されているということは、娶ってもいいということだろうか、と。
いやだが、そもそも、誰もこの場が見合いだとは言っていない。
「それでは、行ってまいります」
「ちょっ、・・・ほんとうにその姿で行くつもり?」
「約束は守ります」
「・・・分かった、わよ!私も守るわ。今後は劉備様のお部屋では武器は持たないし、侍女を武装させることもやめる」
「ありがとうございます。孫尚香様」
礼を取った軍師は趙雲の横までやってきてから振り返り、尚香に向かって再度の礼をした。
趙雲も退室のための軍礼をして、背を向けた。
「・・・・尚香様も仰っておられましたが、この姿を見ても驚かれないのですね。入室の時から見抜いておられたのでしょうか」
「いえ。お声を聞くまでは、まったく」
どこぞの姫だと思っていたので、見てもいなかった。
「どのような姿をされていようが、軍師殿は、軍師殿ですから。着ているものが何かなど、あまり気になりません」
「・・・あなたの豪胆さには、時々ほんとうに驚きます」
感慨深そうにため息を吐いた軍師から、ことのいきさつを聞いた。
尚香と押し問答になった末の帰結だと。女だから武装してはならぬというのか、いえ女だとか男だとか言うことではなく、では軍師が女の衣装を着てみれば?それで祭りに行ってくれば言う事を聞いてもいい、今後は劉備の室で武装はしないわ、と。
呉侯の妹君である孫尚香の衣装であるのだから元より豪華である上に、奥宮の女たちが寄ってたかって飾ったのだからその出来栄えは秀逸で、どこからみても高貴な婦女にしか見えない。
肌は玉のようにつややかに、切れ長の怜悧な双眸は目尻に刷いた薄紅色の顔料によってやわらかげなものになっている。唇にのせた紅がうるわしく、全体として優婉なことこの上なく、月に住む嫦娥とはこういうものかと人が見たら思うだろう。
このようにきらびやかに着飾って街を歩けば衆目を集めて仕方なかろうが、尚香との約束であれば華やか過ぎる花簪のひとつも外すわけにはいかない。
趙雲のほうは略式の武袍なのだから、少々釣り合わないか。お伴にしか見えないかもしれない。それは構わないし間違ってもいないのだが。
段差のあるところで軍師がふとつまずいた。女性の衣は裾がほっそりとしとやかであるので、すこし歩きづらいのだろう。
「軍師。お手をどうぞ、こちらへ」
しばしの沈黙のあとで差し出された手は、四六時中筆を持つために少々荒れている、まごうことなく軍師の手だった。
そういえば街に出たら軍師と呼ぶわけにはいかない。姓も名も字もまずいか。
女性の姿をした彼をいったい何と呼べばよいのだろうと悩みながら、勤勉さが如実にあらわれた手を取って、いつもの半分ほどの速度でゆったりと、趙雲は歩き出した。
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