益州、成都の春の宵。
豪族の開いた酒宴の奥まった一角、庭に面する座敷にて孔明は静かに酒を味わっていた。
庭では気まぐれな夜風によって花びらがはらはらと舞っている。
薄紅色の花弁が降り注ぐ池のほとりで、宴に興を添える楽士が幾人か、笛や弦の楽器を奏でていた。
手の中には白磁の酒杯。仄かに桃の香りが混じる酒は甘口で、ひとくちずつ、舌の上で春の味を確かめるように含む。
「諸葛軍師は、琴の名手であられるのでしょう。かの高名な東呉の周都督と合奏したこともおありだとか。ぜひ腕前を拝見したい」
主催者である豪族に話をもちかけられ、
「昔、少々嗜んだくらいのものですので」
と謙遜でごまかそうにも琴が用意され、瞬く間に軍師の琴を聴きたい、と場の空気が出来上がってゆく。
孔明は琴の前に座した。
そっと指先を触れさせる。
屋敷の主人は楽に堪能であるらしく、細工の美しい古琴は調律も整っており、弦の張り具合も心地良くて好感が持てた。
弾き始めると少しずつ高揚した。
うららかな春宵にふさわしく、やわらかい旋律を夜風に乗せてゆく。
心地良い夜だ。良い琴だ。
孔明は、いつしか口に甘い微笑を浮かべていた。
喧騒が止んで静まった酒席に妙音が流れ、昇るように夜空に吸い込まれてゆく。
さいごの弦音の余韻が消えてしばらく経って、拍手が起きた。
さいしょは控えめに。次第に大きくなる。
「お見事」
「ほんとうに。技巧も優れておいでだが、それ以上に心情が篭っていた」
「まこと春の宵にふさわしい麗しさだ」
料理も酒も美味であったし、庭の風情も楽もよかった。
満ち足りた孔明は気分良く夜道を歩いているが、じきに気付いた。
「……趙将軍。ご機嫌がお悪いように見えるのは、気のせいでしょうか?」
「………」
返答が、ない。
「………」
何か不始末をしてしまったか、と考えるが、思い当たることはない。
少々酔ってしまっているが、それも少しだけ。よい気分になる程度のもので、挙措を乱してもいなければ、主催者や客に無礼を働いたということも全く無かった。
「琴が」
黙々と歩いていた主騎がやっと口を開いたので、孔明はほっとした。
「琴が」
黙々と歩いていた主騎がやっと口を開いたので、孔明はほっとした。
「お気に召しませんでしたか?」
「あなたの……琴の音が、あまりにも美しかったので」
「…それで?」
「誰かに奪われるような気がしたのです」
「……」
軍師の挙措は派手派手しくはなくむしろ控えめであるが、それでも隠せないものがある。
それが知性や怜悧さであるならば、よいのだが。
軍師の琴は見事だった。だが、自分以外の者があの音に聴き惚れていることが駄目だった。
それに、浮かべていた笑みがさらに駄目だった。 目元のやわらかさ、口もとに浮かぶ微笑もまた、駄目だった。
あのようなうつくしい微笑を誰かれとなくさらすなんて。
それに、あの周都督と合奏したとかいうのも、また。駄目だ。
「嫉妬、です。いってみれば」
今ちょっと百人くらいの敵兵に囲まれてあやうい状況です、というような苦い声音と表情で言ってぷいとそっぽを向いてしまった趙雲に、孔明はすこし目を見開き、そしてえもいわれぬ微笑を浮かべて、主騎の袖を引いた。
「では今夜これから、あなたのところで琴を弾きましょうか…?」
「…俺の、ために?」
「ええ。……あなたのためだけに」
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