諸葛孔明が立っている。
新春の香気を一身に集めたような、匂やかな立ち姿なのだった。
扉を開けて飛び込んだ馬超は一目見て、ぽかんと口を開けた。
「―――、・・・・やけに、めかしこんでいるな?」
昼下がりの執務室でのことだ。
執務室に入るときは声を掛けてからにして下さいとか、扉を足で開けてはいけませんとか、顔を合わせたらまず挨拶をしてから用件を切り出すのが作法であるとか(その日もう既に会っているのだったら会釈でもよいけれど、しかし目上の人ならばそういう場合であってもきちんと拱手をすること)などなど、いつもならば出会い頭にお説教の涼風が吹き通るのだが、この日の軍師は、黒すぎるほど黒い双眸をすこし細めただけだった。
「この袍ですか。蜀錦の官工場の職人長が、私にと献上してきました。試作品で、まだ市場には出回ってない貴重なものです」
綾の織物は重厚にして潔癖な白、裾の端には目立たないふうに、精緻な刺繍で白梅を描き出している。
花の文様なんて普段は手に取らないが、季節柄にいかにもふさわしく思い、袖を通す気になったのだ。
腕を上げて袖を揺らすたび、歩を進めて裾をさばくたび、真新しい絹が凛としなうのが心地よい。
「・・・織り方に、新しい方法を取り入れたようですね。横糸の間隔をこれまでより狭めたので、その分重々しく仕上がるとか。どっしりした生地なもので、白の無地ではいかめしいから刺繍を入れて仕上げたと言っておりました。私も良い出来映えとは思いましたが、貴方に誉めていただけるのは・・・嬉しいです」
軍師の微笑は午後の日差しよりも清冽である。馬超は驚きの表情は引っ込めたが、苦々しげに口を歪め、
「誉めたわけでは――ないのだが」
気まずげに目を逸らしてしまった。分かりやすい反応に、孔明はゆるく苦笑する。
「誉めたのではありませんでしたか。・・・貴方のお気に召さなかったのならば、残念ですね」
「いや――気に入らないというわけではない。・・・よく、似合う、とは思うのだが――」
らしくなく言葉を濁してしまう馬超に、軍師はちらりと視線を送った。
なにが、気に入らない?
執務室にはいってきた時は、普通だった。やけにめかしこんでいる、と言った時も、純粋に驚いているだけのようだった。
しかし、何をそんなに驚くことがある?
色・・・・却下。自分の着ている長袍はいつも白だ。
模様・・・・・多分、違う。
派手な色合いで見ておれないとか、品のない模様だというのなら分かるが、白地に梅の文様ではそんなことはない筈だ。
花模様といっても大々的に描かれているわけではなく、艶をおさえた銀糸を控えめに使った縫い取りなのだ。一見しては分からず、光が当たった時だけきらきら浮かび上がるという模様だ。近寄らなければ目に留まらず、ちょっと見たところはただの品のいい白袍に見える。
着方が間違っている・・・それもない。文官の長袍の着方がそもそも分かっているとは思えない。
似合っていない・・・・・いや。先ほど「似合う」と言った。もの凄く気まずそうに、だったが。嘘を言う人ではない。世辞とも無縁だ。
つまり彼は、似合うとは思っているのだ。
軍師はほそく息を吐く。
諸葛孔明に解けない謎など、ないものと思っていた。いいや、実はたくさんあるのだが、それでもこの難解さはどうだろう。
「教えてはいただけませんか」
「な、なにを」
「貴方の不機嫌の理由です。私には分からない」
「それは―――」
「・・・言いにくいですか。ならば無理には聞きません。―――茶でも煎れますか」
踵を返した孔明は、一歩も行かないうちに動きを止めた。
肩に、ぬくもりを感じる。武人らしい大きな手が、両肩に掴んでいた。
この人の体温は、とても高いと、もう何度も抱いた感慨をもう一度再確認する。高い体温だ。戸惑ってしまうほど、熱い手だ、と。
「その模様―――梅、というものだな?」
「・・・ええ。よく覚えていましたね」
「軍師が俺に教えたのだ。樹に羽扇をかざして、あれが梅というものだ、と」
「ええ。昨年の、・・時期はもう少し後でしたね。かなり咲いておりましたから。今年はまだ見ておりませんが、もうじき咲き始めでしょう」
「・・・咲いている」
「もう、ですか。それは早い・・・」
「枝の先に少し。馬を出そうとして、気付いた」
孔明は目を伏せて忍び笑った。
「・・・また、城の中庭を馬で横切ったのですか。それも花園を?庭師にいつか報復されなければよいのですが・・」
「馬が、立ち止まったのだ。俺はまったく気付かなかった。引いても動かぬから敵でもいるのかと思って辺りを見回すと、良い匂いがして、気付いた」
「馬がさきに気付いたと言うのですか」
「そうだ。俺は呆気に取られたが、ともかく貴殿に知らせたが良かろうと思い飛んできた。しかし、――このザマだ」
「もしかして馬は置き去りですか」
「あれは利口だから、城を出て勝手に走るなり厩舎に戻るなり、今頃好きにしているだろう。それにしてもたいした違いだった。俺は敵襲かと殺気だって辺りを睨みまわした。あれのほうが、よほど雅を心得ている。・・・それにだ、多分、まだ誰も気付いていないだろうから、教えてやろうと勇んでやってきてみれば、」
若い将は言いにくそうにしていたが、ぼそりと呟く。
「―――袍が、」
「梅の文様だった。先を越されたとでも思いましたか」
「違う。そんなことではない」
小さく笑った孔明は裾を払って振り向いた。絹がさらりと良い音をたてる。黒い眸と灰緑の眸が正面から向き合って、馬超は少しく慌てた。この軍師の黒眸は黒過ぎ、そして深すぎる。
「ではなぜ・・・機嫌を損ねたのですか」
「――――」
馬超は口ごもったが、頬骨をすこし赤らめて、ぶっきらぼうに吐き捨てる。
「お、俺はあの樹の花が軍師に似合うと、思ったのだ。だから、急いでやってきたのに。ほかの奴もそう思っていたというのが、・・・悔しいぞ。職人頭だと?着て欲しいと持って来ただと?それほど似合う衣を贈るとは、そいつは軍師のことが好きなのに決まっている」
「・・・・・」
今度は孔明が口ごもる。目をそらしてやおら調度品を数えたりしていたが、執務室の調度などもう嫌というほど熟知していた。卓に装飾された彫刻などを目で追う。
「・・・いいえ。そんなことはありません。何度か、公務で顔を合わせたことがあるだけですので」
「充分だろう。俺が軍師を好きになったのは、初対面から数えて3度目のときだ」
「・・・・・」
孔明は一瞬、真剣な顔で目を閉じた。
・・・3度目って、いつ?
初対面は覚えている。次は、ええ?廊下ですれ違ったのは数に入るのか。軍議の席で端と端に(孔明は軍師だから壇上にいたし、馬超は新参であるせいかいちばん後ろにいた)いたのは?
なまじ記憶力がすぐれているおかげで、次から次へと疑惑の場面が浮かんで消える。
しかし、思い出せない。彼がそう言い切るからには、よほど劇的な何かがあった筈だが。
諸葛孔明にも解けない謎が、また増えた。
なにか腹立たしく、なにか腹立たしくない。
「・・・馬超殿」
「うん?」
「・・・・・・梅を、観に行きますか。その積もりで来られたのでしょう」
「あ、ああ・・・」
外に出るために扉を開けた。とりあえず、回廊までは出る。風が冷たくてとても寒い。屋外への一歩を踏み出すのは勇気のいる選択だった。
馬超が、言いにくそうに言った。
「ぐ、軍師。今日は寒い。朝、地面が凍っていた」
「え、ええ・・・それがなにか」
「凍っていたのが溶けて、道が悪い」
「だから?」
「だから―――手を繋ぐか」
「・・・・・・・・・・・」
孔明は咄嗟に地面のほうを見た。馬超はもとより、空のあらぬほうに目をやっている。
二人はしばし無言で立ちすくんだ。
凛々とした日差しの中どこからか、咲き初めた梅香が漂った。