「子龍殿、あまり私を甘やかすな」
「は?」
非常に顔の良い主騎が振り向いたので、孔明はちょっと目を逸らす。
「そこで驚かなくても。言ったとおりの意味なのだ。貴兄はずいぶん私を、甘やかすから」
ちゃぽんと、水が跳ねた。
孔明が足を動かすたびに波紋が生まれて、さざなみが立つ。
「俺のどこが――俺は、いつ軍師を甘やかしておりますか?」
孔明の方が絶句する。
「今まさに、甘やかされていると思うのだが・・・」
久しぶりに護衛に付いてもらった。
趙雲の本分は兵を率いて戦陣に立つ武将であるから、孔明の護衛をさせておくのが勿体なく、このところ共に公務をこなすことが減っていた。
馬に乗り連れ立って城外に出てみると、降り注ぐのは真夏の陽光、立ち込める暑気。
普段は執務室にこもりきりである孔明には耐え難い。
それでも口にも表情にも出さず、淡々と豪族との交渉事を済ませた。
まだ夕刻まで間があるので、帰ってもうひと仕事、と内心暑さにくらくらしながら云った。
にじんだ汗を見た趙雲が目を細め・・・少しだけ寄り道しましょうかと、連れてきてくれたのが、この川辺だったというわけだ。
山から流れ込むせせらぎは澄んで、涼しい風が吹き通る。
豪族と会った孔明は、衣冠を調えている。水辺に立って水面を撫でる風に当たるだけで充分に涼んでいたのだが、趙雲は馬から布を降ろしてさっさと孔明が座る場所を整えてくれた。
人の通りにくい場所であるのが、また良かった。
誰も見てないから良いでしょう、軍師、ときっぱりと言い切られて孔明は、沓を脱ぎ捨てる気になったのだ。
爪先を水に入れると、背に涼気が通り抜けていくようだった。瞬時に汗が引き、体に篭っていた熱が引いていく。普段あまり外に出ない孔明には、たいへんな贅沢だった。
「冷たい。ああ、気持ちいい・・・」
孔明が涼む間にも趙雲は馬に水を飲ませ、また竹筒をもって上流の浅瀬まで行き、綺麗で冷たい水を汲んできて渡してくれる。だけど孔明がどんなに勧めても、隣で一緒にくつろいではくれないのだ。
「なんというか、・・・理想的な主騎だなぁ、貴兄は」
「ええ?」
趙雲はまた、面食らったような顔をした。
「そこは、驚くところかな?」
孔明としては、大きな声ではいえないが、趙雲とは実はその、恋人同士であったりするものだから、ちょっとくらい共にくつろいでも良いのではないかな、と思ったりするわけだ。
「ああ・・・いえ。もしかして軍師、俺が隣に座らないのは、護衛の任務があるからだ、と思っておられますね?」
「違うのか。・・・では、まさか、その」
孔明は口ごもり、不安げに眉を寄せた。
「―――私の隣に来たくないから?」
孔明の様子に、趙雲が笑い出す。
「違いますよ。よくもそんなことを考え付かれるものだ。俺は恋人として、そんなに不安にさせておりますか」
ひとしきり笑って、笑みを含んだまま腕を組んだ。
「軍師は衣冠を付けておられる。似合うとは思いますが、暑そうだとも思います」
「うん。実のところ、とても暑いけど。それで?」
「傍に居るとその重そうな冠など脱がしてしまって、重ねた長袍を乱して、よからぬことをしたくなる。だから、一緒にくつろげないんです。守るべき人にこのように不埒な考えを持つとは―――実際、俺はとんでもない護衛かもしれません」
「――――」
聡明な軍師が身じろぐ。だけど足を水にひたしている状態では、大きく動けない。
趙雲は素早く身をかがめると、冠を留める紐が結ばれた孔明の喉を指でなぞり、声をひそめた。
「素足など、出させるんじゃなかったな。俺以外の者の目にふれたらと思うとたまらない。誰か人が来たら、斬ってしまいそうです」
「子龍殿・・」
これ以上聞いていられないという表情で、軍師が呼ばわる。
「も、・・もう、戻ろうかな」
あわてて素足を引き上げて、ぱたぱた水を振り落とた。
「御足を拭いて差し上げましょうか?」
「絶対、嫌だ。こんな場所で欲情などしたら、絶交してやる」
「それは困ります」
ばたばたと孔明が立ち上がる。しかし長袍というやつは裾が長い。焦った挙句沓に爪先を引っ掛けた孔明は悲鳴を上げてすっ転びかけ――待ってましたとばかりに腕を広げた趙雲に抱きとめられた。