彼とはじめて会った日、雨が降っていた。
静かな雨だったようにおもう。
袖にまといつく雨粒をわずらわしそうに払いのける仕草が優雅で、それでいてどこか烈しかった。
視線に気づいたように眼を上げた彼の前髪が、すこし濡れていたことも覚えている。
ほんの少しだけ下の位置にある双眸が、こちらを見た。
値踏みするような視線は息を呑むほど烈しく、それでいて優雅だった。
ドアを閉めると、雨音がやんだ。
さすがに遮音は徹底しているのだな、と思う。
見回した室内は、想像していたよりまともだった。
ドアが頑丈な鉄製なのは、防音のためだろう。オフホワイトの珪藻土で塗り固めた壁はナチュラルな感じがしたし、木を組み合わせた天井も、こういう場所にしては悪くなかった。
合板の家具はすこしだけ安っぽかったが、とりあえず妙な色彩やいかがわしい自販機がなくて、少しは安心した。
力ない身体を、ベッドに降ろして寝かせる。
ベッドが呆れるくらい大きい。
いつものくせで事務的に降ろしたが、もっと優しく寝かせばよかったのだろうかと、急にそんな考えが浮かぶのに苦笑した。
襟元を緩めようと手を伸ばしかけたとき。
閉じていたまぶたが、まやかしのようにゆっくりと、開いた。
「どこですか、ここは・・・」
苦しげにかすれた声が、惜しい気がする。彼の声は好きなのだが・・・まあ、ひくくかすれた声も、艶めいていなくもない。
「ホテルの部屋です。俗にいう、ラブホテルというものですよ」
「・・・・・・」
物憂げに閉じた眼がまた開くのにすこしの間があった。
「・・・なぜ私は、ラブホテルとやらにいるのでしょうか」
声には理知が戻ってきつつある。
「ラブホテルに入る目的は、そうないと思いますが」
「私を抱きたいのでしたら、インペリアルホテルのスイートくらい取って欲しかったですね」
「なるほど」
予想外の答えが可笑しくて、思わず笑った。
「それは失礼を。ただ、あなたは意識を失っているし、雨が降っているしで、選択肢がありませんでした。これでもまともそうな所を選んだのですが」
「もうひとつ聞いていいですか、趙雲殿」
「なんでしょうか」
「私は意識を失っていた。そして今も、身体が動かない。クスリを盛られた・・・としか考えられませんが」
「そうですね」
「どこの組織の誰でしょうね」
「知って、どうなさいます」
「殺しますよ、勿論」
「俺です」
「・・・なんですって?」
「あなたは薬が効きやすいようですね。もともとの体質なのか、それとも激務にお疲れだったせいなのか・・・後者だとしたら、少しは気をつけたほうがいい」
「・・・・」
また、すこしの間。
身体は動かないのに、舌がそれなりに動いているのが意外な気がした。ゆったりとしたしゃべり方は、いつもとそう変わらない。言葉と言葉のあいだの間が多いことからすると、思考はすこし遅いかもしれない。
それでも透き通るような眼は、やはりこの人でしかありえない色だ。
「それは、いつもは「私」というあなたが、「俺」と話しておられることと、たとえば何か関係が?」
また、意外な言葉だった。
「さぁ・・・あるかもしれません」
「・・・・」
眼を閉じた彼が、息を吐く。
叡智と強さを宿している瞳がまぶたによって閉ざされ、白い容貌でそこだけ血の色の唇がうすく開いて、息が漏れている。呼吸は、いつもよりは速い。
「・・・このことを、殿トウはご存知なのですか」
「このことというのは軍師殿パツジーシンが俺ホングンに薬を盛られて、ホテルに監禁されている、という事実のことでしょうか」
「監禁・・なのですか、これは・・・」
「それに近いものではあります」
「それで、答えは?」
「殿は知りません」
「・・・・・・・」
それから彼は、ずいぶん長いこと黙っていた。
「俺からも聞きます。できれば正直に答えていただきたい」
腕組みを解いて、彼に近寄り、額に手を置いた。薬の影響か、もしくは彼の精神状態によるものか、血の気が引いていて青白く、冷たい感じがした。
「殿は、あなたを抱いているのですか」
長い、沈黙があった。
「・・・聞いて、どうするのです」
「重要なことです、俺にとっては」
「・・・・・」
「答えたくないなら、身体に聞きます。答えたとしても、同じですが」
「同じならば、答えによってなにが変わるのです。たとえば・・・殿が私を抱いている場合は?」
「・・・殺すかも、しれません」
「どちらを」
「殿を」
「・・・反逆を?冷静で賢くて忠義に厚いあなたらしくもない」
「べつに、反逆する気はありません。それで、どちらですか」
「・・・答えたくありません」
「そうですか」
長い黒髪を、手ですくう。べつに性格を反映しているわけではなかろうが、冷たい手触りだった。くせはあるが強くなく、しなやかに手に纏いついてくる。彼の体の一部分にでも、すこしは素直なところがあるのだ。
頬にかかる髪をわずらわしそうにしていながら、抵抗をする様子はない。
殿は、彼を抱いているのか。それだけは分からない。
たびたび寝所を共にしているのは確かだが、護衛としてつねの劉備のかたわらに在り、プライベートな事柄までほとんどすべてを知っていても、彼を呼ぶときの劉備はかならず寝所を締め切ってしまう。
夜が明けて退室する彼から、情事の気配を知ることはできない。寝乱れた髪をかきあげながら寝室から出てくる彼に、みだらな痕跡が残っていることはない。
彼はあまりに冷ややかで情事の気配がないが、劉備は劉備でまた熱くありすぎて、とらえどころがない。
彼を愛しているのは確かでも、それが身体を求める欲望をともなっているのか、計り知れなかった。
「それだけしゃべれるのなら、身体は、もう動くのでしょう?抵抗しないのは、無駄だからですか、軍師殿。だからあれほど、武器を持ち歩きなさいと言ったのに」
「私はあなたたちと違って野蛮なことは好みませんので」
挑戦的な視線を向けられたが、とくに反論はしなかった。
彼の声も舌鋒も嫌いではないので、このまま一晩中、論戦を繰り返しても良かった。
だが―――
「・・・抱きますよ、孔明殿」
いちおう、言ってから服に手をかけた。
刺し殺しそうな眼で睨んでくるのに、肩をすくめる。
「殺したい、という目をしておられる」
「お止めなさい、趙雲殿。後悔しますよ」
「あなたが俺を殺すときは、銃でもナイフでもないのでしょうね。・・・毒かな」
「私の敵が楽に死ねないことは、あなたが一番よく知っているはずです」
「・・・あなたの毒は、甘そうだ」
抱いたところで、手に入れることはできないのは分かっている。
知っていて―――何が欲しかったのだろう?
意外だった。
「―――殿は、あなたを抱いていなかったのか・・・」
返事はない。
あると思っていたわけではなかった。意外で思わず口に出してしまっただけだ。
どこまでも冷たいのか思った身体は、熱かった。
さいごまで抵抗しないかと思った手足は、途中から抗ったが、力で押さえつけた。重ねた衣服を乱して膚を侵した。鋭い叱責がいつしか懇願になり、最後には哀願に変わったが聞かなかった。
嫌だイェン、と繰り返す声音が、耳に残っている。
犯したときの、絶望にまみれたうめきも。
まともそうなホテルだったが浴室は馬鹿げて広く、蛇口をひねると、何もしていないのに勝手に泡が出はじめた。
魂が抜け出したようにうつろだった身体だが、後方に触れるとびくりと肩を震わせる。
「・・・嫌」
「お許しを、軍師殿・・・。中の始末をしなければ、お体に障ります」
「・・ぅ、ぁ」
叶うかぎり丁寧に素早くやったが、その間中、屈辱にまみれたうめき声が洩れていた。
どろりと出てきた時には背筋がひきつり、悲痛な喘ぎ声が上がった。
円形の浴槽は、彼を抱いて入ってもまだ余裕があった。
熱めの湯に、真っ白い泡。
雨が降っていることを思い出した。
「初めてあなたに会った日は、雨が降っていました」
後ろに回り、彼を抱え込むかたちで浴槽につかった。
泡は次から次へと湧き出てくる。どうやって止めるのか分からなかったので、そのままにしておいた。
「孔明殿・・・」
白いうなじに口づける。
「欲しかったのです。どうしても・・・殿に逆らっても、あなたが欲しかったのです」
「・・・私は、あなたに初めて会った日のことなど、覚えておりません」
「・・・・・・」
「殿がいらして、多分、その後ろにあなたは居たのでしょうね・・・。雨、でしたか、それはそれは」
うつろな、それでいて毒のこもった声音だった。
「今夜のことも、私は忘れてしまいますよ、趙雲殿」
「そうですか」
少し笑った。忘れてしまう、か。殺されたほうが、ましかもしれない。
はじめて会った日は、雨だった。それは間違いない。
目を伏せたこの人の前髪から、雨粒が落ちたことも覚えている。それを見たのは、俺の前に立つ殿の肩越しだった。
目が合ったと思ったのはきっと、俺だけだったのだ。この人は、殿しか見ていなかったのだ。
抱いたところで、手に入れることはできないのは分かっていた。
届かない、月―――
広い広い浴槽には、白い泡が、いつまでも出ていた。
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「隔たり」の魚水の裏ルート趙諸。
途中の意味不明なルビは、あれです、この話、劉軍が中国マフィアだという設定なので。
頭(トウ):ボス
白紙扇(パツジーシン):軍師・参謀
紅棍(ホングン):戦闘幹部
というのが香港マフィアの役職名なんだそーです。Webでちゃちゃっと調べただけなので間違ってたらスイマセンですが。
「隔たり」は魚水がラブラブで趙雲が良い人なのですが、実は趙雲が裏切る裏ルートが存在しまして。しかし隔たりとかぶるのが嫌で、現代。現代でも殺伐とした雰囲気を出したかったもので中国マフィア。うん別に深い意味はないです。