「孔明!」
年下の恋人が、飛び込んできた。
「人前では軍師と呼びなさい」
というと、はっとしたように目を見開いて、「・・・軍師殿」と意外に端正な拱手をしたあと、首をかしげた。腑に落ちない、というように。
「誰もいないのだが」
「予行練習ですよ」
「?」と書いた顔。孔明はかたりと筆を置いた。
「なんの用でしょう」
馬超はふっと、真顔になった。
「風が変わったな」
孔明は目を伏せる。振り向くと、そこは壁だった。蜀の脳である丞相府の執務の室には、機密を守るため窓がない。もとのように目線を戻すと、馬超も壁を見ていた。
「風が変わった。空の位置も違う」
「空が高くなったということですか」
「色も違う」
じんましんが出るくらい苦手だというカビ臭い書物の匂いが立ち込める丞相府に、彼はこうしてやってくる。
ひどく些細な事象を、伝えるために。
「天帝の座が動きますか」
「なに?」
「天の座が、朱雀から、白虎に移りましたか」
「・・・謎掛けなのか」
「季節が移ることを別の言い方で言っただけです。この場合は、夏から、秋へ」
「ほう?」
よく分からぬと言いたげな長身を手招くと、分からないという顔をしたまま彼は素直に身をかがめ、孔明はその髪に手を伸ばす。黄沙の色をした髪は、硬そうに見えて実はやわらかい。
「白虎は西方の棲む風の神。獰猛で気高く、孤独な獣です」
髪を弄られて一瞬驚いた顔をした馬超は、目を閉じてなすがままにまかせている。
目尻が鋭くて荒削りな顔立ちは、男らしくて精悍で、でも目を閉じるとほんのちょっとだけ幼い。
「孟起。この書簡を書き終えたら、すこし休息したいと思います。風を、見に行きましょうか」
馬超が目を開けた。ひどく嬉しそうに口端を上げ、孔明の唇の横に口づけた。
「馬を用意してくる!待っておれ!」
といって、止める間もなく飛び出していく。
孔明はちょっと目を見開いた。
(庭を散歩、というくらいに思っていたのですが)
馬となると。どこまで行くことになるのやら・・・
筆を取り、書簡の続きを記しだす。
しばらく、青い空を見ていない。
流れる雲、吹き抜ける風、色変わる空、移ろう季節・・・
私はそろそろ、彼にありがとうと言ったほうがいいのだろうか。
礼を言ったら、彼はきょとんとした顔をするような気がして、孔明は薄く微笑んだ。