真夜中にちかい時刻だった。
灯かりをともしていても照らす範囲は限られ、部屋のあちこちに、灯では追い払いきれない闇がわだかまっている。
ときおり、かたん、という音が闇を揺らした。
部屋は質素そのもので、家具も調度品も、実用本位で選ばれているのが一目で分かる簡素なものだ。
「――申し上げます」
印章に手を伸ばそうとした時、扉の外に控えめな気配が立った。
「趙将軍様が、ご帰還なされました。これより丞相府にお越しになるとのことでございます」
伸ばしかけた手が震えた。
権力の象徴である印章を、取り落とすわけにはいかない。孔明は伸ばした手を返し、胸の前で握り締めた。
「お通ししてください」
言ってから今度こそ印章を取り上げて、作り終わった書に押印する。
ああ、こんなに、簡単に。
印は権力の証である。署名が入り印が押された書簡は、蜀漢内において正式な命令書として通用する。
こんなに簡単に、軍令が出されていく。この指示によって、何人の兵が死んでいくことになるのだろう。
そして、どんなに有能で戦い慣れた将軍でも、丞相の命令に逆らえない。命令に従わなかった場合は軍令違反で罰せられ、悪くすると反逆罪となってしまう。
将軍自身が、これは危ないと、過去の経験や勘などから、危険である、と判断した場合であっても、孔明が渡した命令書にやれと書いてあれば、やるしかない。おそろしいことだ。人の命を握るということは。まして、・・・愛しい人の、命を・・・
具足がこすりあわされて鳴る低い金属音とともに、規則正しい足音が近づいて、扉がひらく。
「丞相」
扉を開けて、拱手する。いかほど強張った顔でやってくるかと思っていた。だが鋭く引き締まった精悍な容貌は、孔明の予想から大きく外れて、微笑んでいた。
「趙子龍、帰城つかまつった。こたびの戦ではさしたる戦功を上げること叶いませなんだが、成都への帰還叶い、丞相閣下のお顔をふたたび見ることができたのは幸甚に存じ――」
「・・・子龍・・!」
孔明は椅子からすべりおり、趙雲が皆までいわないうちにその身体に取りすがった。
「孔明。ちょっと待て」
趙雲は笑って、後ろ手に扉を閉めた。
溺れかけた猫のように必死にすがりつく痩身を一度ぎゅっと抱きしめてから、顎に手をかけて顔を上げさせようとする。かたくなに顔をそむけていたが、
「顔をみせてくれ」と、言われて少しだけ上げた。
「すこし痩せたか。また寝ておらぬし、食ってもおらんようだな。おまえは俺の言うことなどひとつも聞かぬ」
――なにを言っている?わたしが痩せた?そんなことはどうでもいい。どうして、責めない。どうして・・・・
孔明は内心で絶叫しながら無言で、ますますきつくしがみつく。指先ががたがた震えた。趙雲は今度は何も言わず、落ち着かせるように黒衣の背をなでていた。
「・・・無事に帰らぬかと思いました」
孔明がぼつりとつぶやいたのは、丞相府の執務室から移動し、私室に引き上げてからのことだ。城内であっても私室は寝台をそなえ、心きいた従者によって不自由なく整えられている。
窓をあけて風を通そうとしていた趙雲は、振り向いた。
黒衣を着た孔明は、強張った表情をしていた。それでいて心細そうな、泣きそうな。
おそらく苦悩しているだろう、錯乱せんばかりに、と陣中で思っていたが、予想は当たっていた。その予想のために趙雲は、報告ならば明朝でよかったのに関わらず、今夜のうちにやってきたのだ。
「無事に帰ってくれれば、何も望まない、と思っていた。責められても仕方ないと覚悟していた。でも、帰ってきたあなたは、笑っている。・・・なぜ?」
肩が震えている。重々しい織り方をした長袍。鎧よりも重そうに、肩に食い込んでいる。
考えもせずに趙雲は答えた。
「無事なのは、皆の助けがあったからだが、まあ、今回の俺の役目は無事であることに尽きるのだろうと、思ったのでな。無事であることに全力を傾けた。責められても仕方ない、とおまえは言うが、何をどう責めればいい?おまえは兵を思い、民を思い、蜀の国のためを思って全智をしぼって策を立てた。それのどこを責めればいい」
「・・・全力を尽くしたからそれで何もかもが許される、というほど、わたしの責務は軽くありません。子龍どの。わたしは・・・先陣のあなたを囮(おとり)につかったのに。少しでも間違えば、あなたの軍は全滅してもおかしくなかった。あなたには責める資格はじゅうぶんにあります。なぜこんな仕打ちを、と声を大にして、わたしを罵るといい」
「こんな仕打ち」
おかしな事を言われた、というように趙雲は笑った。そんな趙雲の様子のほうこそ、孔明にはおかしな事のように思える。
こたびの戦で孔明の出した策は、先鋒の趙雲がまず囮となって魏軍の主力部隊を引きつけ、手薄になった魏国の領土に蜀軍主力部隊が攻め入る、というものだった。むろん、もっとも危険なのは魏の大兵力に少数の部隊でぶつかる趙雲であったが、彼はよくその任務をまっとうしてくれた。
兵力の差があるので、「少しでも間違えば、あなたの軍は全滅してもおかしくなかった」という孔明の言葉は正しい。それは趙雲にもよくわかっていた。趙雲は兵力を失うことを徹底的に避け、一兵でも生きて帰すことだけを考えた。結果として、魏の主力軍と戦ったのしては、おどろくほど少ない損傷で撤兵し、成都に戻ってきた。
それで、戦に勝ったかというと、そうではなかった。かんじんの魏の領土に攻め込んだ蜀軍のほうが、敗北したのだ。
先帝である劉備が死に、それより先に関羽張飛が死に、そのあとには馬超黄忠も死んでいた。あとを継ぐべき大器の将軍が、育っていない。それに、やはり魏軍との兵力の差は圧倒的だった。
「蜀の国力をかけて戦ったいくさに敗北した。これはわたしの責です。その責は負わなければならないし、負うつもりです。でもわたしは――あなたが大切なのに。蜀の国を思えば、先陣を任せられるのはあなたしかいない。でも、・・・わたしはあなたを愛している。それなのにあなたを死地に送り込んだ。薄っぺらい、軍令書を1通出しただけで。心が・・・ちぎれそうです」
「俺を先陣に送り込んだ。それが”こんな仕打ち”なのか、孔明?」
血を吐くように叫んだ孔明に対し、趙雲は静かに聞いた。返答はなく、孔明は震える手で顔を覆った。
「困ったな・・・」
趙雲は、すこしも困っていない表情で腕を組んだ。その表情のままで、寝台にすわる黒衣のとなりに、腰かける。
「おまえは責めて欲しいのだろうがな・・・俺は、すこしも責める気にならん」
どうして、とつぶやく気力もない。孔明はただ悄然と首を振った。
こわかった。全知をしぼったといえど、万全な策ではなかった。魏との国力の差を考えれば、危うい賭けになるのは仕方ないが、責められて当然であるし、責めて欲しかった。だのに帰ってきた趙雲は、笑っていた――
「理由を聞かねばおまえは納得しないだろうから、言うがな・・・しかしこんなことは言うまでもないことだぞ、孔明」
がしゃりと具足を鳴らして寝台に腰掛けた趙雲は、とくに気負ったふうもなく言った。
「ひとつには、先陣で、敵の主力とぶつかる任務というのは、武人にとって誇りでこそあれ、こんな仕打ちをと怒る対象ではない。ふたつには、俺は蜀国の将であり、蜀に武人としての全てを預けている。蜀の命令で戦うのは、俺の誇りだ。だからそれが蜀のためになる軍務ならば、どのような軍令を受けようとも不満はない」
力説ではなく、どちらかというと軽い語り口だった。しかし言葉の持つ力強さが、闇を払拭するようだった。
「最後にみっつめは、・・・あまり大きな声では言えぬが、俺はおまえを愛している。だからおまえの策で動くのは嬉しいことだ。最も危ない軍務を与えられる己を、誇りに思う」
趙雲は立ち上がって、具足に手を掛けた。
胸をおおう大鎧をはずし、肩甲と手甲をはずして床に置く。最後に剣をはずして、寝台に立てかけ、崩れ落ちそうに嘆いている痩身の肩に手を置いた。
「孔明。忘れたのか。どこまでも一緒に戦っていく、と約束しただろう。先鋒を命じたからといって、俺におまえを責めよ、というのは、俺に対する侮辱だ。武人としても、同志としても。・・愛人としてもな」
さいごだけ趙雲は、すこし面映そうに言った。侮辱だ、と言ったときまでは凛々しく真顔でいたものを、いや、最後のところを言ったときも真顔でいたのだが、言い終わった途端、顔をしかめた。
「あぁ、なにを言わせる。いい年をして妻帯もしておらん男に、愛だのと、言わせるな」
趙雲の言葉は胸を打った。いいがたい感情に胸が熱くなる。希望は見えない。だけど向う先は見える。趙雲の苦笑が聞こえた。
「その長袍、鎧のように重く見える。孔明。剥いでもいいか」
孔明はうなづく。唇を噛んで、こくり、と、子供のように。
「抱いても、いいか?野営続きのなりだが」
孔明はしばらく眉を寄せていたが、それにもうなづいた。言葉が出てこない。やさしい、と思う。抱きしめて欲しいのだと口に出せないのだと分かっていて、こんなふうに言ってくれる。
声もなくひと筋涙を流した孔明を、趙雲は抱きしめて、口づけた。