調練場から少しはなれた水場で、趙雲は顔と頭に水を浴びた。
水がそろそろ冷たい。空は高く、澄んでいる。
どこからか甘い匂いが薫ってきて、探すまでもなく井戸の向こう側に木犀の樹があるのが見つかった。
趙雲はぶるっと身体を震わせる。
「お疲れ様です」
背後から軽やかな声がして、ふわりと乾いた布が降ってくる。考えるより前に掴み取って振り返ると、予想に違わぬ美しい顔が微笑んでいた。
「お一人ですか?」
浮かんだ考えを振り切って、趙雲は渋面をつくってみせた。
「少し前までは。今は誰より頼りになる主騎と合流したから、危険はない」
「屁理屈だけはお得意ですね」
白皙の容貌が、わざとらしく顔をしかめてみせた。
「なんて言いようだ。手公のもとに参上しておったのだが、窓から貴兄が見えて、水場に向っておるくせに布一枚も持参しておらぬ。風邪を引いては気の毒と思い、わざわざ出向いてきたのに」
「布なら、持っておりますよ」
ふところにおさめたそれを取り出す。
「・・これ、すでに匂ってないか?」
「調練中に、汗を拭きましたから」
「悪いことを言わぬから、新しいほうを使うとよいぞ、趙子龍殿。貴兄ほどの男前ならば汗くさいのも魅力であろうが」
へらず口に肩をすくめたが、せっかくの好意であるし、どのみち布はもう濡れてしまっていたから、遠慮なく使うことにした。
つるべを落としてもう一杯水を汲み、顔をすすぐ。
「・・といいつつ、わたしは貴兄の汗の匂いは嫌いではない。汗だの埃だの泥だのにまみれていようと、貴兄は潔く強くて男らしい」
後ろ手に手を組んで飄々と立った彼が、そんなことを言い出した。
「・・・卑怯な方だ」
「誉めたのになんて言い草だ。わたしのどこが卑怯だって?」
「俺が濡れていて、あなたに触れない時に限って、そんなことを言い出されるところが」
「触りたいのか?城内だぞ」
「抱きしめて俺を感じさせたい。あなたが嫌いではないと云った俺の匂いをあなたに移して、あなたの匂いを俺に移したい」
目を見開いて一瞬動きを止めた彼が、くすくす笑い出す。
「おかしいな、主公に伺ったところ、趙子龍は真面目で穏やかで清廉で実に忍耐強く我慢のきく男だということだったのに。わたしの前で貴兄は時々まるで聞き分けのない駄々っ子のようだ」
「軍師殿」
一歩近寄ると、彼は一歩下がった。
片目をつむって、悪戯っぽく微笑んでみせる。
「駄目。先に身体を拭いてから。といってもそのあとも駄目だけど。今は真っ昼間でここは城内のそれも屋外でその上、わたしはまだ政務がたくさん残っているから。ほら、早く拭くといい。さっき水を浴びたあとぶるっと身体を震わせていただろう?頑健を誇るのはいいけど、粗末にするのはいただけない」
云われたとおり趙雲は髪を拭き、顔をぬぐった。
ひと雫も残らないように入念に水滴をぬぐいとって、面白そうにその様を見ている軍師に歩を進める。
「ひとつ、教えましょうか」
「なにを?」
軍師が目を輝かせる。好奇心がとくべつに強いのか知識欲が異常に旺盛なのか、知るということに関して、この軍師は貪欲である。
趙雲が声をひそめると、軍師も聞き耳を立てる。
「さっき、俺が身体を震わせた理由について」
「寒かったから、だろう?この季節、わたしならもう外での水浴びは遠慮したいな」
「寒かったではないのです」
「うん?」
軍師がきょとんとして、身を寄せてきた。趙雲はますます声を低めた。
「木犀が匂ってきて」
「・・・木犀。ああ、城内あちこちに咲いてるけど・・・それが?」
「何か、思い出しませんか?」
「え?」
しばらくいぶかしげに考えていた軍師は、何かを思いついたらしく、ぱっと顔を上げた。
「・・・・・・・―――――――!!」
見る見るうちに赤くなる。
「・・・まさか」
「ええ。思い出してしまいまして・・・・あなたとの夜のことを」
趙雲は抜け抜けと、言い放った。
趙雲とこの軍師は、恋人同士である。趙雲のほうから惚れこみ、大人げないほど攻めて攻めて攻め尽くして落とした。恋人同士であるから、閨なんか共にしたりもする。
閨を共にすると、ごにょごにょなんてこともしたりする。そこまでこぎつけるまでにはまた趙雲の涙ぐましい努力があったわけだが、それは割愛するにしろ、ごにょごにょする際に男同士であるのだからして、補助するものが必要である。
必ずぜったいに必要なわけではないが、そっち方面は奥手の軍師に傷も痛みも与えるわけにはいかないのだから、必要なのだ。
趙雲の場合それに香油をつかっており、べつに決めているわけではないが、荊州ではどこにでもある桂花(木犀)の匂いのを当初から使っている。
だから趙雲は木犀の香りをかぐと、すったもんだあったさいしょに閨から、少しは馴れてきた今日この頃の閨のことまでが走馬灯のように、脳裏をめぐってしまうわけだ。
耳まで赤くなった軍師の様子を見る限り、彼も思い至ったようである。
思い至るように誘導した趙雲は本懐を果たせて満足だったが、真っ昼間の野外で閨をほのめかされた潔癖な軍師は、恥ずかしさに卒倒しそうな顔つきをして固まっている。
「まだ、政務はしばらく終わらないのですね?」
趙雲が云うと、赤い顔のままでぎくしゃくとうなづく。
いとしい。
抱きしめてしまいたかったが、彼が言うように今は真昼間でここは城内しかも屋外である。
「俺も、まだ軍務がありますが」
一歩近づく。彼はもう避けたりはしなかったが、消え入らんばかりに恥らっている。
弁が立って強気な反面、こういう方面にはてんで初心なところも、惹かれてやまない部分ではある。
「終わったら、夜、伺っていいですか?」
夜、というところをさして協調したわけではないが、彼はまた一段と赤くなった。
返事を待たずして、趙雲は井戸の向こう側の樹木に向った。
小さな星に似た橙色の小花をたわわにつけた一枝を折り取って、彼に差し出す。
「・・・・・」
ためらいがちに白い手を差し伸べてくるのを、するりとかわし、淡い碧色の巾に包まれた結髪の、根元のところに挿した。
「・・・花が薫るたびに、あなたが俺を思い出すように」
趙雲は笑った。
美貌ではあっても、花の似合う可愛らしい顔立ちではないかと思っていた。それは間違いで、よく似合う。花に愛されているように。
「これでも不公平なくらいです。俺はいつもあなたのことを考えない時はないんですから」
真昼間でここは城内しかも屋外でその上、ふたりともこのあとも職務がある。
今はこれだけ、と趙雲は、花を挿した軍師の髪にかすめるだけの口づけを落とした。