晩秋の日は暮れるのが早い。
夕方、西日がまぶしいなあと思いつつ調練を終えて馬の世話やらをしているとすぐに真っ暗になる。
特にこの日は軍務が立てこみ、調練の後処理のあとで軍令書の仕分けや返信などの事務仕事なんかもしていると、すっかり夜が更けてしまった。
「寒くなってきたなぁ~」
歩いて家に帰る馬岱は、実はちっとも寒いなんて思っていない。
なにしろ北方の沙漠育ちである。凍り付いた砂塵が刃のように吹き付け、馬を走らせれば皮膚が傷だらけになってしまうような荒涼とした厳しい故郷の風土に比べれば、成都の秋の冷えなんてへっちゃらなのだ。
馬岱は帽子の後ろで両手を組んでほてほてと歩きながら、鼻歌でも歌いだしそうなお気楽な調子でつぶやいた。
「こんな日はあったかいお風呂がいいよねぇ!」
ということで、馬岱は薪を用意する。
ちょうどよく厩舎を建てなおしたばかりで古い木材がたくさんある。いい感じに乾燥しており、薪にするにはもってこいだ。
風呂を沸かす釜にばかばか木材を放り込み、ばったばったと風を送ると、最初ぱちぱちと控えめな音を立てていた火が景気よくぼうぼうと燃えはじめる。
「ぅ~っとあれ?熱いのとぬるめなの、どっちが好きかな?」
馬岱は風呂は熱めが好きだけど、彼はどうなんだろう?
今度いっしょに入って聞いてみようか?
ん、いっしょに入る?
彼と?
ぅ~ん。
ものすっごい酔わせでもしないと無理かも。っていうか、酔ったところ見たことないなぁ。
いやいやそのくらいいっしょに入らなくても聞けるか。
今日聞いてみよう。
「というわけで諸葛亮殿、うちの風呂に入りにきて」
風呂は熱めに焚いてきた。水を足せばすぐ調節できるように。
「ごはんもあるよ。どっちが先が良い?」
さすがにごはんは馬岱が用意したものではない。野戦料理ならめっぽう得意なのだが。
酒も用意してる。
もしかしたら酔わせることができるかもしれないし。
もしかしたら酔わせることができた彼といっしょにお風呂に入ることができるかもしれないし。
詳細に描かれた地図を眺め、諸葛亮は唇のすこし下で指を組み合わせていた。
灯火の炎が揺れ、地図に陰りが落ちる。
灯火は揺れるだけでは済まず、かすかな音を立てて消えてしまった。
すこし驚いて顔を上げると、どうしてか机の遠いところにある灯火も、今にも消えそうだった。
・・・・・・油が?
立ち上がって見てみると、火をともす燃料である油がどの灯明皿からも消え去っている。
「・・・・?」
侍従たちが足し忘れたのであろうか。そんなことはあまり無いのだが・・・・
「というわけで諸葛亮殿、うちの風呂に入りにきて」
こんこん、と廊下ではなく庭に通じるほうの窓を叩く音がして、ぱたんっと窓が開けられ、白いふさっとしたものが覗いたとおもったらそれは帽子についた房飾りだった。帽子の下からひょっこりと顔をのぞかせたのは・・・馬岱だ。
”というわけ”って、どういうわけなんだろうかと一瞬だけ考えたが、諸葛亮はすぐに考えるのをやめてしまった。
馬岱の思考はすこし特殊で考えても分からないことが多い。
「ごはんもあるよ。どっちが先が良い?」
「いえ。・・・まだ政務が」
「だぁめ」
残っている、と続けようとしたが窓わくに頬づえをついた満面の笑みにさえぎられた。
「だいたい油がもうないでしょ。いくら諸葛亮殿でも明かりなしに政務は執れないよねぇ。だから帰ろ」
「・・・・・・なぜ、油がないのを知っているのです?」
「諸葛亮殿の執務室の油、夜になったら無くなるような量にしといてねって、みんなに頼んだからだよ、もちろん」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
ひょい、と身軽く室の床に足をつけた将の顔を見ると、ふいと髪に口づけされた。
「髪、伸びた?諸葛亮殿」
「はあ、まあ・・・そろそろ、切らなければ」
「切るの?」
「伸びすぎると、冠が重くなりますので」
「俺が切ったげようか」
「・・・あなたが?」
「うん。俺、刃物全般得意だよ」
馬岱は執務机のわきに立っている細身に両手を回してぎゅっと抱きしめた。思った通り冷えている。
装束が重々しいからぱっと見は分からないが諸葛亮の身体は薄い。そしてちょっと心配になるくらい熱がないのだ。
あ~はやく連れて帰ってお風呂入れたげたいなぁ。
と思ったと同時に、部屋を照らしていた炎がゆらゆらと頼りなく揺れて、ふぅっとかき消えた。
「うん、消えたね。じゃあ帰ろうね、諸葛亮殿」
たっぷり数秒間を沈黙した諸葛亮はふぅと息を吐いて目を伏せ、ほんのすこし微笑んだ。
「・・・今日だけですよ」
「ええっ」
馬岱はびっくりして目をみはった。
「そうなの?俺、明日も明後日も同じ手を使うつもりだったんだけど」
帽子を取ってがりがりと頭を掻き、またかぶりなおす。
「まぁいいや。明日はまたなんか考えるから。とりあえず今日は帰っちゃおうよ。そうだ、諸葛亮殿、風呂は熱めとぬるめとどっちが好き?」