馬超は正式に劉備に臣従し、平西将軍になった。
諸葛亮は兵舎の回廊から調練場を見下ろしていた。趙雲の軍、そして新参の武将、馬超の軍が、もうもうと土煙をあげて行き交っている。
馬超の軍は寡兵。入蜀してからまだ兵を足していないため、今まで彼が率いてきた涼州兵のみで構成されている。
寡兵だが精強だった。
馬軍は、趙雲の軍とは趣きがおおきく異なっている。兵装から馬具、兵の顔つきにいたるまで。
そして動きのひとつひとつが―――苛烈である。
熟練というなら趙雲の軍であろうが、峻烈をきわめているという点では馬軍が際立っていた。
「あ、・・・あぶないッ・・!」
諸葛亮の後ろにひかえていた文官が思わず声を上げる。
突出した騎馬がぶつかり合っていた。前線の兵がばらばらと馬から落ちる。それでも馬軍の突撃はやまない。先頭の馬を駆けるのは、馬超その人だ。
「・・・調練でありましょう!?無茶苦茶だ」
・・・兵の練り方が、根本から異なるのだ、と諸葛亮は思う。
趙雲の軍は、10の力を最上とするならば、6、7の力に合わせて兵を組んでいる。弱いものの力を引き上げ、ずば抜けて優れたものはやや力を抑えるようにして。
それで全体として厚みが出て、均整が取れ、容易に破られることのない強兵になっている。
馬超の軍はおそらく―――馬超をすべての基においている。馬超に付いてこられる者だけが軍をつくり、すべての動作は馬超を頂点として、馬超を見つめている。
兵も馬も、ただ1人を見て・・・駆ける。
馬超は異民族の血が濃い。
益州―――蜀の地は、周辺を漢族ではない部族に囲まれ混血も進み、漢族と異民族の入り混じる、複雑な政情の土地だった。
その地で、馬超の血と、武名は大きい。漢族の支配地から一歩はなれた異民族の居住地では、馬超は熱烈に歓迎されるだろう。王侯のように。
現に成都は、馬超が劉軍に参戦したという一報によって、開城した―――・・・
蜀の地ではめずらしくもよく晴れた宵になった。
夕闇にいくつかの星が瞬いている。
「―――軍師殿」
諸葛亮はひとり、宮城城壁で空を見上げていた。
「なにをなさっているのだ」
「・・・・星を見ておりました」
「星か―――」
馬超も空を見上げる。このように星が明るく瞬いているのは、たしかに珍しかった。
「星を読んでおられるか」
「星を、読む?」
「星になにかを聞いておられるのではないのか?」
諸葛亮はひくく笑った。
「星になにをきいても、答えてはくれません。・・・答えは自分の中にしか・・・・ありません」
「―――なるほどな」
馬超の具足が鳴った。宵だというのに彼は武装を解いておらず、長身で雄偉な体格にまとった白と金の大鎧が、勇ましくも美しかった。
荒々しく引き締まった表情とはうらはらに、横顔は、どこか繊細さを感じさせる。
となりに立った馬超は星から目をはずし、諸葛亮に向き直った。
「―――俺は今から馬を駆るが。・・・・一緒に、来られるか、軍師殿」
諸葛亮は彼に目を当てる。
名流の出自、血筋、輝かしい武勲、凄惨な敗北、錦と呼ばれる振舞い、容貌、まっすぐな性情―――そういうもので構成された彼を。
馬上にあれば鋼鉄の槍を苛烈にふるう手が、差し出される。
「もっと天が近い地に連れて行ってやる。星が、もっとよく見える」
この手を取れば――――得られるものはおそらく、大きい。
諸葛亮は目を伏せ、かるく頭を下げた。
「・・・・・あいにく、今宵は用がございます」
「そう―――か」
馬超はうすい苦笑をもらし、差し出した手を握り締めた。
去っていく背を見送り、その気配が消えてから、諸葛亮は眼下を眺めた。
街や村では家々に灯がともっている。夜警の兵が出はじめた城壁から、離れる。
軍師府にも居室にも、戻りたくなかった。
城内のひろい庭園には、成都をぐるりとかこって流れる錦江から水を引いている。
清らかな流れがしずかな音を立て、いずこともなく流れていく。
樹木が茂り、もう星は見えない。
せせらぎがあつまり沢になっているところで、諸葛亮は足をとめ、おおきく、ため息をついた。
「・・・・・・ため息つくと、幸せが逃げちゃうよ、諸葛亮殿」
目を見開いた諸葛亮が足元を見ると、革の長靴をしつらせた足があった。一本は長々と伸ばされ、一本は曲げて膝を立てている。
諸葛亮は息を吸い、ゆっくりと吐くと、一歩を踏み出す。
こんもりと茂った木蔭に彼はいた。
襟も袖も無造作に乱した平服で、武人らしいしつらえといえば手首に巻いた鉄甲くらい。
「お久しぶりですね」
「ええーーそうだっけ?」
すっとぼけた返答に諸葛亮は目を細める。
うるさいくらい執務室にやってきていたのが、あるときを境にぱったりと来なくなった。
「最近・・・・ここに居ることが多いよ。面白いものが見れるんだ」
「蛍、・・・・・ですね」
「蛍っていうんだ、なにこれ」
「虫です。幼虫のころは水や湿地で過ごし、成虫になると夜に飛び、ある時期になると発光します。・・・・蜀に、いたのですね。私も成都で見るのは初めてです」
「ふうん・・・・そっか、虫なんだね」
ぱたりと身体を倒して、頭の後ろで両手を組み、馬岱が地面にあおむけになる。
癖のつよい髪に草がからまるのには、まったく頓着していない。
話し声がやむと、静寂につつまれた。
黄緑に発光する小さな物体が、3つ、4つとあたりを浮遊していた。
長い長い沈黙。
馬岱と同じくらい無造作に、諸葛亮は草むらに腰下ろした。
片方の膝を立て、その上に肘をついて頬づえをつく。
ほのかな光がゆるやかに行き来する。
ながいながい時間、水の流れる音だけが響いていた。
「・・・ねえ、これってどんな拷問なの、諸葛亮殿」
「・・・・・拷問?」
諸葛亮は水辺をみつめる。
「私といることが、拷問ですか・・・馬岱殿」
ぎゃあという不甲斐ない悲鳴とともに、馬岱ががばっと身を起こす。
「うん、すごい拷問だよね。馬岱殿、とか呼ばれるのもさ」
馬岱が表情と姿勢をあらため、諸葛亮に向き直る。
「今日の調練の若、かっこよかったでしょ」
「・・・・見事なご手練ではありましたね」
「若って、顔いいんだよ、ぱっと見た感じはねぇちょっと怖いけど、ちゃんと見ると整っててさ、目の色とか見たことある?」
「今日、見ました。淡く透き通るような金色でした」
「脱いでもすごいんだよ、知ってる?」
「それは、知りません」
馬岱はひくりと表情を動かすと、へらりと笑った。
「若はお得だよ~~性格はちょっと面倒くさいけど、血も名も顔も身体も槍も絶品!どれをとっても最高品質なのは、俺が保証するから」
「血筋がよいから、名が高いから、容貌が立派だから、身体が美しいから、武技がすぐれているから、人は人に惹かれるのですか?・・・・なにかと比べて選ぶのなら、別のすぐれたものが現れると、心は移るということでしょうか」
諸葛亮が、すぅっと手をのばす。夜を裂いて白い指先に自分に伸びてくるのに、馬岱は目を開いた。
諸葛亮の指先は馬岱の頬をかすめ、癖っ毛にまといついた草の葉をつまみとった。
「太陽も月も星も・・・それぞれに輝き、また人の営みに役立ちますが・・・・では、蛍のような仄かな光には、まったく価値がないとでも?」
つまみとった草の葉を諸葛亮は息を吹きかけて飛ばした。
「・・・・・・・・人の心を震わせるのは・・・・・容姿でも能力でもなく・・・・・」
細い刃のような新緑の葉は、すらりと風に乗り、水の上に落ちてゆく。
「ただ、慕わしいという想いだけ・・・・です」
水をみつめる諸葛亮は、背後から両腕に包まれた。肩口に額がつけられる。
黙っていると、腕の力はどんどん強くなった。
それでも黙って動かずにいると、ついにはぎゅっと身体に腕を廻された。
わずかに首を動かすと、肩に埋まった顔の表情がすこしだけ見えた。
「・・・・貴方の笑っていない顔を見るのは、はじめてな気がします」
肩が揺れたが、顔は上がらなかった。
「・・・笑ってたほうがよければ、ずっと笑っていようか。今はムリだけど」
「どちらでも。・・・どちらでもよいのです、それが貴方であるかぎり」
くぐもったうめきがもれ、ぎゅっと抱き締められたあと、唐突に身体が反転する。
草むらに身体を押しつけられ、見上げれば見たことのない表情の馬岱がいた。
「ねえ・・・なんで嫌がらないの。はやく逃げてよ、諸葛亮殿」
笑みもなく余裕もない、切羽詰った表情。押さえつける腕は将であるだけにさすがに強い。
「なにされるか、分かってないの?」
諸葛亮は視線をすこし動かした。馬岱の背後に蛍が飛んでいる。
ふよりふよりと、すこし頼りなく。
諸葛亮はちいさく微笑んだ。