梅につづいて桜が咲き散り、道々の端に小花が咲き乱れる様相になった。
寒さもやわらぎ、うららかに晴れた昼下がり。
主君付きの侍従が訪れたのは、窓の外のどかに鳥がさえずりかわす午後だった。
「庭園の桃花が盛りゆえ、皆で花見をしようと殿の仰せでございます。皆さまにお知らせして回っておりますので、諸葛軍師さまもぜひお越しください」
諸葛亮はかすかな笑みを浮かべて首肯する。
「知らせてくれてありがとう。ただいま軍の編成の書簡をつくっておりますので、私にかまわずどうぞ先に始めてくださいと、お伝えください」
「かしこまりました」
しばらくして幾人かの文官が顔をのぞかせた。
「殿の花見の宴がはじまったようですよ。よい天気でございますし、お出ましになられてはどうですか」
「ちょうど新しい法律のまとめにはいったところです。後で行きますから、其方たちは行ってらっしゃい」
「よろしいのですか、それではお先に・・・軍師様もどうかいらしてください」
午後の遅い時間になり女官が訪れる。
「殿はなにも仰いませんが、きっと軍師様に顔を見せて欲しいと思っていらっしゃいますわ」
「おそれおおいことですね・・・・・・ただ近隣の村落から訴訟がでております。急ぎ裁いてやらねばなりません」
「ではそちらが終わられましたら、ぜひお越しくださいませ」
夕暮れ近くに、酒がはいって赤い顔をした武将らがやってきた。
「なんだ軍師殿、参られんのか。職務もあろうが、桃花が咲くのは年に一度のこと。殿に縁の深い花でもある。すこしは顔を見せられよ」
「そうそう、参りましょうよ軍師様」
「折角のお誘いで恐縮ですが・・・・河川の様子の報告がただいま入りまして。目を通し処置してから参りますので、おのおのがた、どうぞ私におかまいなく、楽しんでください」
日が暮れて、暗くなった。もう花は見えない。庭園での花見は広間に座を移して酒宴になったようだ。
主だった文官、武官はそちらに出席し、侍従や侍女たちも給仕に忙しい。酒宴に出ない身分の官吏たちも上司らが昼過ぎから不在とあっては、早く仕事仕舞いをして帰ったようだ。
自らの手で明かりを灯した諸葛亮は、税の徴収に関する覚書に目を通していたが、窓がこつりと音を立ててふと顔を上げた。
「こんばんは、諸葛亮殿」
飄々とした笑顔に出会う。
「・・・・・こんばんは」
「入ってもいいかな?」
「・・・・・・・」
返事をまたずに、将が窓を超える。上背もありけして華奢ではないのに猫のように音を立てずに、ひょいと室の床に足をつけた。
「なんで諸葛亮殿は来ないのって聞いたけど、劉備殿も張飛殿も趙雲殿も答えてくれなかったよ。忙しいの、諸葛亮殿?俺、手伝おうか」
馬岱の申し出に、諸葛亮は視線を書簡に戻して微笑した。
「お申し出はありがたいのですが、手伝いは結構ですよ・・・。まだ酒宴は続いておりましょう。どうぞ楽しんでください」
「ここにいちゃだめ、諸葛亮殿?」
「・・・・・・・かまいませんが。お構いはできませんよ」
「うん。はい諸葛亮殿の分。俺勝手に飲んでるから、構わなくていいよ」
馬岱は腰につけていた瓢箪から平たい盃に酒を注いでことりと置いた。白いにごり酒に、桃の花が一輪浮かんでいる。
諸葛亮の脳裏にさぁっと風が吹き、満開の桃花が揺れた。淡い紅色の花弁が澄み切った青空に映え、花をつけた枝の先からは瑞々しい青葉が茂りはじめていて―
「・・・忙しいというより、小心なのでしょうね、私は」
「ふうん。小心なんだ、諸葛亮殿」
諸葛亮は今日昼過ぎから片付けた書簡の山を見た。そして手にしている書に目を落とす。
「やはり怖いものですよ。これなどは税に関する書ですが―――書いてあることは数字の羅列ですが、税金というものは民の心血・・・・殿の領地の民、ひとりひとりの人生そのものです」
「うん」
「軍の編成にしても、領主や将は数千、数万の単位で考えますが、それは人の集まりです。軍を預かるということは、数千、数万の命を預かるということ―――。河川にしても、この先の季節の長雨で川が溢れれば、どれほどの民の生命と財が脅かされることかと―――そう思いますと、私は止まるわけにはいかない、と思うのです」
「ぅん―――・・・・」
馬岱は卓に頬杖をついて足を組んだ。
馬岱は武将だ。幾千、時には幾万の将兵の生命を預かる。
だけど―――馬岱は兵のひとりひとりの生と死を思いやったことはない。
馬岱の大切なもの、心に掛けるものは、昔からとても少ない。
「ぁ――・・・・・」
俺、ちょっと、この人のこと好きかもしんない
ああぁどうしよう若、ごめん。
「まあ、覚悟して望んだ地位と職務でありますので――・・・」
馬岱の内心に突然わきあがった煩悶など知らぬ諸葛亮は、ごく平素な顔つきで書をたたみ、別の書簡を手繰り寄せる。
そのまま書簡に没頭し、筆をとり硯を引き寄せて書きものを始めた。
またたくまに見事な筆跡が真新しい書を埋めてゆく。するすると筆が遅滞なく動いて書が仕上がっていくさまは手品のようだ。
夜も更けるまでさらに十数巻の書を処理して、やっと諸葛亮が筆を置いた。
さすがに少し疲労した様子で髪をかきあげて立ち上がり、馬岱のいる卓に近寄ると、置かれたままだった一輪の花が浮かんだ酒盃をすっと取り上げ、香りをかいだのち音もなく飲みくだす。
「ちょっと、花を見てきます」
盃を置いて扉へ向かう背にもちろん馬岱は付いていく。
外に出ると広間でまだ続いている酒宴のにぎわいが風に乗って届いた。諸葛亮はそちらには向かわず、回廊から庭へと降りる。
桃花の林は庭園の奥だ。池のほとりをぐるりと囲む小路に沿うように植えられている。
昼間そこにいた馬岱はもちろんそこに行くまでの道を覚えていたが、半歩先を歩む諸葛亮も迷いはない。
おぼろに霞んだ月明かり。
夜目が利く馬岱にとっても、こんな暗がりで花見が楽しめるとは思えない。
ところが目当ての場所にたどりついて、うなる。
ひとつの明かりが・・・ひときわ見事な満開の花をつけた樹に提灯がぶらさがり、花を照らしていたのだ。
それでいて、夜の花見を楽しむような人影はない。気配もない。
まるで夜更けに、誰かが花を見に来ると分かっていたような仕掛け。
「愛されてるね、諸葛亮殿」
「ええ。――――幸せなことですね・・・・」
「俺も、あなたが好きだよ、諸葛亮殿」
「・・・・・・・」
応えはなく、花を見上げた横顔にはらりと花びらが落ちかかる。
昼見ると濃い桃色であった花弁は、ほのかな明かりのもとではやわらかい白だった。
散る花弁の横切るその横顔を、たぶん俺一生忘れないんだろうなぁと、馬岱は思った