通りかかった女官に水を頼むと、こころよく持ってきてくれた。
いいところだなぁと思う。
さきに身を寄せていた張魯のところではあんまり良い待遇ではなかったのだ。
劉備の人柄のせいなのだろうが、劉軍の陣営は気さくで親切だ。
ついに馬超は主君を持った。
本人に自覚はあるのかどうかちょっと不安だけど、涼州においては軍閥の盟主として立ち、流浪してからも軍を率いてつねに頭を張っていた馬超がもう首領ではなくなった。
まだ数千の兵は馬超を主として従っているが、それを養うのは馬超個人ではなくなり、その行く末も馬超個人に帰属するものではない。
馬岱の役割もこれ以後はかなり変わってくるはずだ。
「まぁ、俺は若に付いてくだけなんだけどね」
欄干のてすりにことりと杯を置き、馬岱ははふと息を吐く。
大量に呑んだ酒は体内を駆け巡っているが酔ってはいない。
巨大な宴会場と化した広間で張飛につかまってえんえんと呑んでいる馬超も同様だ。
とことん酒に強い家系なのだ。
広間に戻ろうかと一瞬迷った馬岱は広間とは反対方向の庭に降りた。
頭の後ろに両手を回して歩きはじめる。
酒が回った身体に夜風が心地よいから、ちょっと散歩してみよう。
成都の城は戦場にならなかったので、先の城主、劉璋が丹精した庭が無傷で残っている。
雅な趣で配置された樹や池や玉石には興味がなかった。
夜空には月がかかっている。
涼州でみるのとも漢中で見るのとも異なる、霞んだおぼろ月だ。温度と湿度との高い成都ではいつもこんな具合なのだという。
夜空に抱かれてほの白く輪郭をにじませる月を、馬岱はそれはそれで綺麗だとおもう。
たぶん馬超はそうは思わないだろうが。
ぶらぶらと、木々の合間を縫い築山の横を通り過ぎて小川をまたぎ越して馬岱は進んだ。
馬超もそうだが、馬岱も道に迷うということは一切ない。
清げな青竹が立ち並ぶ一角に入り、行く手をはばむ竹の葉を手で押さえて前に進もうとしていた時、前方からさやさやと月光がただよってきた。
「・・・・なんだろう、これって」
月のひかりが目に見えたのかと錯覚したが、正確には耳に聞こえてきていた。
なにかの音だが月に似ている。
きれぎれでいながら儚くはない。強くはないが芯が通る。遮蔽された空間で淡い光のすじが閃いているような印象を受ける。
音色に気をとられた馬岱はうっかり一歩を踏み出してしまい、ガサリと下草が無粋な雑音をたてた。
淡く翳る月のした、琴を弾いている人がいた。
解き流した髪は濡羽色をして肩に流れ、黒髪にかこまれた容貌は月とおなじくらい白い。
着ているものも白く夜闇にぼうっと浮かんでいた。
白い指先から紡がれる音色は、さやさやと発光しながらゆるい螺旋をえがいて天へと昇る。
鎮魂だ、これは――――弔いの曲だ
知らない曲であり誰に教えられたわけでもないのに馬岱には分かった。
音色に涙はなかった。
悲しみも痛みもなかった。
そこにあるのはひとすじの祈りだ。
「そちらにいらっしゃるのはどなたですか」
ながいながい曲を弾き終えて、琴から顔を上げたその人が静かな声で問うのに、馬岱はかなり場違いな頓馬な言葉を返してしまった。
「あ、人間だったんだね」
「・・・は?」
案の定、その人はけげんな顔をする。
もう音を立てても大丈夫そうなので、がさがさと茂みを掻き分けて出て行った。
「こんばんは」
「・・こんばんは」
帽子を取って挨拶すると、その人も返してくれる。
「月の精かとおもったよ。でも人間だねあなた」
「・・・私がだれかご存知ではないのですか、馬岱殿」
「知ってるよ。劉備殿の一の軍師諸葛亮殿。宴会の合間にはじめましてのご挨拶に行こうと思ってたら、若がいきなり張飛殿につかまってね。それっきり」
馬岱はぽいっと帽子を放り投げた。
くるくると宙を舞って落ちていく軌跡をけげんな表情で見守ってから、その人が馬岱に向き直る。
「はじめましての挨拶をしていい?きれいな軍師さん」
「・・・帽子、なぜ投げたのですか。それに樹に引っかかってしまってますが」
「平気、いっぱい持ってるから。でもあれはお気に入りだから後で取りに行くけどね」
不可解、と表情に書いてあるのにかまわず、馬岱は3歩ほど踏み出してその人をぎゅっと抱きしめた。
ぎくりと強張る背中をぽんぽんとあやすように叩く。
「誰か死んじゃったんでしょ、親しい人が。そういうときは独りでいちゃ駄目だよ。月の精なら放っておいたけどあなた人間だから傍にいてあげるよ」
月が傾くまでの時間ずっとそうしていた。
緊張感をただよわせていた背中からふっと力が抜けたのを良いことに、髪に触れてみる。
馬超の亜麻色のやわらかい髪も綺麗だけど、この人のつやつやした真っ黒な髪もすごく綺麗だ。
馬岱ははたと我にかえって首をひねる。
―――なんで俺、この人を若と比べてるんだろう
馬超にじゃれて抱きつくことは多々ある。
けど、こんなふうにしっとり抱くことはあんまりない。
それに身体が異様に細い。
武将である馬超と比べるのは間違っているんだろうけど、それにしたって腰なんて女人よりも細いかもしれない。
「ねえ軍師さんご飯ちゃんと食べてるの?」
腰のあたりをきゅっと抱いた馬岱は、懐疑的な声で聞いた。
「ああ答えなくていいよ、食べてないよね。ちょっと俺、広間に戻って喉通りそうなもの貰ってくる」
すっとんで行こうとした馬岱はでも出来なくて、ほとんど自分と同じ高さにある置いていかれそうな子供のような不安げな目をのぞきこむ。
「そんな顔しないで。すぐ戻るよ」
額にそっと口づけた。
「戻ったらご飯食べてね。食べながら亡くなったあなたの友だちの話を聞かせてよ」
馬岱はいきなり跳び、頭上の木の枝に手を掛けて身体を一回転させて樹の枝の上に乗り、周囲を見回す。予想通りの位置に広間の明かりが見えるのを確認して最短距離を割り出してから、振り返った。
「そこで待っててね。動かないでよ。もっとも動いても俺、たぶんもうあなたの居る場所は見つけられるけどね」
馬超の居る場所がだいたい分かるように。
この人がどこかに行ってしまっても見つけられる気がした。
―――うーんだからなんで俺、この人と若を比べてんの?
馬岱はぱっと木の枝から夜空に身を躍らせた。ふわりと一瞬浮いた身体を宙で返して別の樹の幹を蹴り、地上に降りてからは道なき道をひた走った。
果物?粥かスープみたいなもの?意外と肉食べるかも。酒もあったほうがいいかなぁ。
大荷物を抱えて戻ると、彼はおなじ場所にいた。
岩に腰かけて、手元では所在無げな琴の音が切れ切れにしている。さすがに足音を立てないわけにはいかなくてがさがさと騒々しく近寄ると、ゆっくり顔が上がった。
「・・・・その盆はいったい」
馬岱はにっこり笑った。両方の手に曲芸のように乗せた大きな盆がゆらゆら揺れる。
「あなた何が好きか分からなかったから、みんなに聞いてきた。みんな言うことが違って面白かったけど、ぜんぶ揃えて持ってくるのはけっこう大変だったかな。どこで食べようか、どこかに卓はある?」
困ったように眉を寄せた軍師が指して歩き出すのに付いていく。
竹林が風でさやさやと音を鳴らしている。通りぬけたところにこじんまりとした建物があった。のちに丞相府と呼ばれて諸葛亮の政庁となるその建物は、ひっそりと闇の中に白壁を浮かび上がらせていた。
正面ではなく脇の小径から、人が起居できるようにしつらえた居室に入る。
卓と椅子があり茶道具などが置かれているがまだがらんとしており、つい最近使い始めたようだった。
「どうぞ、馬岱殿」
遠慮なく居室に足を踏み入れた馬岱は持っていた盆を卓に置く。
「・・・・劉備様の好物と張飛殿の好物と趙雲殿の好物、ですね。あとひとつは・・・・・」
野菜と肉が入った薄味の炒め物と肉と米を炊き込んだこってりした飯と野菜と肉を煮込んで南方の香辛料で真っ赤になった鍋をつくづくと見て、諸葛亮がぼそりと言う。
「そうなの?」
馬岱は目を丸くした。
「俺ちゃんと諸葛亮殿の好物教えてよって聞いたけどねぇ。もうひとつは、あなたの好物?」
もうひとつは、蒸した魚の上に彩りのよい細切り野菜の餡をかけた上品な皿だ。
「・・・・・・・・・士元が、好きだったものですね」
諸葛亮はことりと卓につく。
「諸葛亮殿の好きな食べ物何って聞くと、みんな答えが違ったけど、好みの酒はなに?って聞くと、みんな同じ答えだったよ」
梅を漬けた果実酒をさいごに卓に置いて、向かい合わせに馬岱も座る。
座ってからふと気づいた。
「ねえ俺向かいに座ってよかった?」
「むろん、ご遠慮なく――」
「膝に乗せたげたほうが良かった?食べさせてあげようか」
まじまじと見られて、すこし行儀悪く卓に頬杖をついていた馬岱はきょとんとした。
「なに?」
「・・・いえ、あなたはどういう人なのかと思いまして」
「自分じゃ分からないな。どうでもいいし。俺がどんな人なのか諸葛亮殿が決めていいよ」
あいまいにうなづいた諸葛亮を尻目に、馬岱は箸を取り上げて料理に手をつけた。
お腹はすいていないが、宴席では呑んでばかりでさほど料理に手をつけなかったのでいくらでも入る。
ぱくぱく食べていると諸葛亮も箸を取った。
「亡くなった友だちは、どんな人だった?」
あらかた食べ終えて、箸を持ったまま馬岱は言った。
諸葛亮はずいぶん前から箸を置いている。目を伏せた彼は、指先でつまんだ酒杯を揺らした。
「士元は―――」
かたりと椅子を鳴らして立ち上がった諸葛亮は窓辺に向かった。
おぼろに霞んだ月が浮かんでいる。
馬岱は箸を置いて、杯に酒を注いだ。
「士元は、すこしあなたと似たところがありましたよ、今ふと思ったのですが」
「ふうん?」
「意外性のあるひとでした。気さくで飄々としていて、誰とでも親しめる人ではありませんでしたが、私のふところには不思議とするりと入ってきてしまって・・・」
「ふんふん」
「強引なところもありましたね、平気な顔をして無理をして。戦場に出ないでくれと何度も言ったのに―――弓兵に討たれるなど・・・・・・そんな死に方をしてよい人ではなかったのに・・・・士元は軍政よりも行政のほうに向いていたのです・・・これからという時に」
立ち上がった馬岱は諸葛亮の肩をそっと抱いた。
力を加減して、その背が自分にもたれかかるようにさせる。
「馬岱殿、・・・あなたは何故」
「俺のことなんてどうでもいいでしょ。もっと聞かせてよその人のこと。出会ったときから全部がいいな、まだ夜は長いんだから」
馬岱はひと晩かけてホウ士元の生き様と死に様と諸葛亮との出会いと何も持っていなかったかれらが夜を徹して乱世の後の世を語ったことを聞いた。
それが出会いだった。