執務に疲れて、庭先に立ってみる。
よく晴れていて陽射しが眩しい。白い雲が浮いている。遠くの山に、雪が積もっているのが見えた。
こちらの建物に向かう回廊を、誰かが歩んでいる。軍靴を履いた足音。
すこし、早足であり、すこし、せっかちである。
回廊は木の板で囲ってあり、姿は見えない。けれど、無造作にくくっただけの樹皮色の髪が、早足の歩みとともに跳ねるのが目に見えようで、自然と笑いがこみあげた。
足音は、建物側の廊下にはいって篭るような音になり、歩みがゆるやかになった。重々しくはないけれど、隙がなく落ち着いている、ように感じなくもない。
落ち着き払っているかと思うと、意外に短気なところもある。
誰もが腹を立てるようなことを頓着せずさらりと受け流すかと思うと、何が気に入らないのか全く分からないところでひどく怒ったりする。
私の挙動を不躾なくらいじっと眺めているかと思うと、目が合った途端、うろたえて逸らしたりする。うろたえたことを恥じるかのようにすぐに顔を上げて、より一層力のこもった視線で私のほうを見つめ返す・・・。
そのような揺らぎは、若さゆえだろうか。
槍の技や用兵は若さに似合わぬ周到さであり、知略も群を抜いている。書籍を脇に置いて兵法を沈思黙考している姿などは老成してさえ見るのに、どうも未熟さを感じる部分がある。
私はなぜか、かれの未熟な部分にいとおしさを感じる――・・・
いや、なぜか、というほどでもない。
若者の未熟に愛しさを感じるのは、こちらが老いているからだ。
おもわず、ちいさく笑ってしまった。
どうもこのところ、少しでも暇ができると、かれのことを考えてしまうな・・・。
かの人は、居間と庭との境い目に佇んでいた。
空からふりそそぐ強い日の光と、暗い石壁との、はざまに。
逆光に照らし出された姿に、目を奪われる。
目を伏せ、広がる袖の中で腕を組んでいる。
わずかに首をかしげるようにした面貌は彫像のように整っていて、彫像ではありえないやわらかみも有している。膚はひかりを吸い込むように白く、双眸は淡い色をしていた。
なにを考えておられるのだろう。
と、おもった時、かの方は、わずかに微笑んだ。
それは優しげに、やわらかく。
思わず嫉妬してしまいそうになるほど、まるで、いとしい人を思い浮かべたときに自然とこぼれ出てしまったような笑みだった。
「丞相」
声を掛けると、思索から覚めたように視線を上げた。
「・・・姜維」
なにを、考えておられたのだろう。
或いは、誰のことを?
この方に、あのような笑みを浮かべさせることできる者とは、いったい、誰なのだろうか。
気がつけば、かの人は室内へと戻っていた。
「さて、では今日は、軍の編成と、軍備の振り分けについての書類の作成をやっていただきたいと――」
いつものように軍事に関する執務の補佐の仕事を割り振っていただくのをさえぎって、竹簡に伸ばされようとしていた手を取った。無作法であるのを承知で。
「丞相」
「姜維?」
「さきほど、・・・なにを、いえ。誰を、おもっておられたのですか」
「どういうことでしょう」
「庭先で、なにかを思い出したように、微笑して、おられた」
知って、どうするというのだろう。でも知らずにははいられない気分だった。
わたしは、この方のことでいっぱいであるのに。
ああ、と丞相は、頷いた。
「貴方の、ことを。考えていました・・・姜維」
「え、――」
まじまじと、顔を見る。距離は近かった。
え?
「わ、わたし、――?・・まさか、そのような・・」
わたしはうろたえた。
先帝陛下、もしくは古参の盟友のどなたかの名があがるものとおもっていたのだ。
丞相は、微笑んだ。
先帝陛下、もしくは古参の盟友のどなたかの名があがるものとおもっていたのだ。
丞相は、微笑んだ。
ひかりがにじむような笑みだった。
「貴方は、思慮深く胆力があって、武と知略に優れ、老成しているように見える部分もありますが、一方で、たいそう未熟で子どもっぽい部分があるな、と。・・・そう、おもうと、おもわず、笑ってしまって」
手の甲で口を覆って、うつむく。
ほめていただいたのか。けなされたのか。
どちらにせよ。
わたしはひどく動揺した。
しばらく顔を上げられそうになかった。
PR
この記事にコメントする