頭の芯で鈍痛がやまない。喉もひどく痛む。
ひそかに侍医を呼ぶと、「風邪ですな」とあっさり断言され、その場で――つまり私の部屋で、薬草の調合がはじまった。
苦みのある青臭い匂いが、鼻の奥をつんと刺激する。
秘密にしてもらえますか、と頼むと、良いでしょう、見舞客が押しかけてもお困りでしょうから、という返答だった。
ですが、蒼龍殿はお気付きになるでしょう、と医師は肩をすくめる。
裏付けるように、足音が聞こえた。
「孔明殿・・!」
大事ありませんと言おうとしたのに、喉が痛んで声が出ず、かわりに空咳がこぼれ出た。男らしく整った清冽な容貌の眉が寄る。
働きすぎです。夜は休まれていたのか。食事をちゃんと摂っておられなかったのでしょう。まったくあなたは、いつもそうだ。
お説教が身に染み入る。薬草を煎じる医師が笑いに肩を震わせている。もっと言うてやりなされ、将軍。
出来上がった薬湯を渡され、苦いですかな?と聞かれるが、味は分からない。お風邪は身体が休養を求めているのです、長引かせるよりはまずは一日お休みなさいと言って、道具を片付けた医師は退室していった。
さあ、お休みに、と背を押されるようにされて、寝台へ。褥の中に押し込められる。
「傍におります」
布団の中でそっと、手を握られた。堅くてたのもしい武人の手。
身体も脳芯もふわりとゆるむ。
「何からもお護りいたしますゆえ、お休みください」
目を閉じるとすぐに、とろとろとした眠りにひきこまれた。
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乱世といえど、成都は戦禍にあっていないから、庭園はそれなりに整えられている。
姜維は庭の景観に興味はない。そこに生えている植物にも、まったく関心はない。
それでいて、毎日のように庭園を歩く。
薄(すすき)が秋風に揺れている。赤い萩がこうべを垂れ、白い小菊が草むらに群れ咲き、薄紫の紫苑と黄色の石蕗が咲きはじめている。
草にも花にも樹木にも関心のない姜維は興味のない目でそれらをひととおり検分し、足をとめた。
黄金色の花をつけた樹木。かんばしい香りがあたりに漂う。
樹木をしばらく見詰め、無言のままに小刀を抜いた。
慎重に、一枝を斬りとる。
さくりと下草を踏んで、引き返した。
益州の中枢たる宮城に付随する白い建物にたどりついて、そこに仕える者に花枝をたくす。
「丞相の居室へ」
一拍をおいて、付け足す。
「ご寝所の、枕辺に」
かしこまりました、と侍者はうやうやしく受け取って、奥へと消えた。
翌日、執務の補佐をしていると、想い人が書簡からふと目を上げた。
「昨夜の木犀は、良い香りがして。よく眠れた気がします」
「・・・そうですか」
「いつも花を届けてくれて、ありがとう。貴方はやさしいですね」
冠につけた房飾りが揺れるのを目で追って、小さく否定する。
「いいえ」
いいえ。やさしさではありません、丞相。
あなたの安眠を誘えたのは、うれしい。
「いいえ」
いいえ。やさしさではありません、丞相。
あなたの安眠を誘えたのは、うれしい。
あなたの御心をやわらげることができたのも。
でも、丞相。それだけではない。
わたしは、あなたがいる空間に、わたしがいないことが耐えられないのです。
「勝ったとはいえ、ひどい戦であったそうだな」
「火計だったのだろう?戦場はそれはもう悲惨な有様だった、と」
「火計が、お得意であるよな。わが軍の軍師殿は」
「冷たそうなお顔立ちをなさっておられるものなあ。人を焼き尽くすという、むごたらしい策を好まれる」
「人の心など、持ってはいないのではあるまいか」
「な、っ」
「な、っ」
官僚たちのささやき声を耳に入れて、劉備が拳を握り締めた。
顔を怒りに染めて足を踏み出そうとするのを、横に立つ諸葛亮は眉一つ動かさずに、目線で制した。
「なりません。我が君」
「しかし」
火計の策は、諸葛亮が出した。悲惨な戦になるだろうことは、承知していた。
策だけ出して成都で待機していたこともまた、非難の的になるだろうことも分かっていたことだ。
火計の策は、諸葛亮が出した。悲惨な戦になるだろうことは、承知していた。
策だけ出して成都で待機していたこともまた、非難の的になるだろうことも分かっていたことだ。
「出陣していた諸将らが帰還したのです。勝ち戦であったのですから、どうか晴れやかなお顔で出迎えて差し上げてください」
その居室は、宮城から兵舎へと続く道に点在する建物の一角にある。
高位の将の中でも破格に広いそこは、無人だった。
室内には重々しい大鎧からこまごまとした手甲・腕当ての類から錦帯錦袍までが脱ぎ捨てられている。主の許しも得ぬままに立ち入った諸葛亮はかがみこみ、無造作に置かれた武装具の、無数についた細かな傷を指でたどる。鋼鉄製の肩当てに、大きな亀裂が走っていた。
「―――・・・・・」
気配を感じて振り向くと、奥の浴室から馬超が出てきたところだった。濡れた髪を布で押さえ、一枚しかまとっていない薄着からも水がしたたっている。
勝手に入った諸葛亮を咎めることもなく無言で通り過ぎると、居室の奥で濡れた薄着を無造作に脱ぎ捨て、寝台の脇に整えられていた衣を身につけていく。
単衣をまとい帯を締め、表袍を手に取ったが着ようとはせず、衣箱に投げ捨て、寝台に腰をおろし、そして息を吐いた。
勝手に入った諸葛亮を咎めることもなく無言で通り過ぎると、居室の奥で濡れた薄着を無造作に脱ぎ捨て、寝台の脇に整えられていた衣を身につけていく。
単衣をまとい帯を締め、表袍を手に取ったが着ようとはせず、衣箱に投げ捨て、寝台に腰をおろし、そして息を吐いた。
「なかなかに大変な戦であった」
彼の一連の動きを、静かにたたずんで見守っていた諸葛亮は、肩で息をついた。
馬超はずっと無言でいる気かと思っていた。諸葛亮の存在など、無視するかと思ってもいた。
「そうですか」
彼が何を口にしようとどうでも良かった。口を開いたことが重要だった。
「悲惨ではない戦場などありえぬ。・・・が、あれはな」
馬超があごの下で両手を組み、身体を丸めるようにする。いまだ湿ったままの淡色の髪が白皙の額を覆い、その表情を隠した。
諸葛亮には彼が無言でいるよりは、無言でないほうがずっと良かった。馬超が無言ではないことに、口を開いたことに、戦に対する感慨を吐いたことに、諸葛亮は安堵した。
「若ぁ~~~また拭かずに濡れたまま出てって、もぅ・・・って、あれ、諸葛亮殿?」
浴室のあるほうから馬岱がひょいと顔をのぞかせる。
短い単衣をまとっただけの姿で、風呂上がりであるのが歴然と分かる、ほかほかと湯気がたっているような有様だった。
「来てたんだね。忙しいんじゃないの。何か、用でもあった?」
戦後処理で忙しいのは本当だ。用は、別にない。諸葛亮は話題を変えた。
「怪我をしているのではないですか?馬超殿は」
「かすり傷だ」
馬岱のほうに向いて問うたのだが、返答は本人からあった。
「左の肩ですね」
「よくお分かりだな」
「肩当てが割れていましたので―――見ても宜しいですか」
肩をすくめた馬超は、今しがた着たばかりの衣を肌蹴る。諸葛亮は傷を見下ろした。
「これが、かすり傷ですか?馬超殿」
「かすり傷だ――もうふさがりかけている。軍師殿手製の薬とやらを、岱が塗りたくったのだ」
「おとなしく塗らせたのですか。色も妙な上に鼻が曲がりそうな匂いだと、諸将には不人気なのですが」
「匂いは感じなかったな」
―――別の、酷い匂いがしていたからな・・・。
馬超がくっと笑みをもらす。
嫌な笑みではなかった。
「なかなか嫌な戦であったぞ、軍師殿。だがな、そのせいかどうか」
「・・・はい」
諸葛亮は、すこし身をかがめる。後ろを通り過ぎた馬岱が、「はい、若ぁ。ちゃんと拭いてくださいねぇ」と言いながら、馬超の頭に布をかぶせていった。
片手で布を押さえ、豪奢な雰囲気のある白金色の髪からしたたる雫をぬぐいながら、馬超は淡い金色の瞳で諸葛亮を見上げ、片頬だけで笑んだ。
「なんだかな、俺は蜀に帰還した折、はじめて、帰ってきたな、と思ったのだ」
「――――・・・・・」
諸葛亮は目を閉じて、しばらく閉じていた。胸が、熱かった。
髪からしたたる雫を雑にぬぐいとった馬超は、緩慢な仕草で寝台に横たわった。
「すまぬが、すこし、眠る。・・・・・軍師殿、貴殿の薬は、よく効いた・・かたじけ・・・ない」
すぅ、と息を吸う音。それはしばらくして寝息に変わった。
「あ、若。寝ちゃったぁ?無理してたからねえ」
この上もない宝を見守るように目を細めて、馬岱は、糸が切れたように寝入った偉丈夫の体躯に、ぼふんと布団をかけた。
寝台脇の垂れ布をしずかに引いて、静寂がみちた居室をふたりで出る。
隣が馬岱の室だ。馬岱の居室には風呂がないので馬超の部屋で入っているし、それでなくともこの従兄弟同士の間には遠慮がなく、お互いの部屋の区別はあまりない。
「それほど酷い戦であったのですね」
「酷くない戦はないからね」
間髪入れずに返答があった。なんの気負いもない声音で、馬岱はいつもの飄々とした笑みを浮かべていた。
「諸葛亮殿が悪いんじゃないよ?少ない兵で大軍に勝つ方法なんて、そうそうあるもんじゃないからねえ」
「ええ。悔いはありません」
敵であろうとも、人を燃やし、山野を燃やし尽くした。
それでも。
かけがいのない人たちを生かす為ならば。
どれほどむごい卑劣な策であろうとも、勝機のある方を選ぶことに、迷いはなく悔いはない。
「あなたが、帰ってきてくださって良かった」
「ただいま、諸葛亮殿」
その居室にいたのは、ほんのわずかな間だった。諸葛亮には山積みの職務があり、それに戦後処理と次の戦の用意がある。
「では、これで」
顔が見られて、よかった。
「うん」
別れ際に、馬岱は自分の部屋を指さして言った。
「がんばってねえ、諸葛亮殿。執務が終わったら、今日はここに 帰ってきて 」
俺たちはあなたのところに帰ってくるんだから。あなたは俺のところに帰って来なさいねぇ。
諸葛亮はまっすぐに前を向いて、答えた。
俺たちはあなたのところに帰ってくるんだから。あなたは俺のところに帰って来なさいねぇ。
諸葛亮はまっすぐに前を向いて、答えた。
「はい」
今日の天気は、どうだろう。
髪をくしけずる人の後ろ姿を眺めて、姜維は寝台の上でゆっくりと身体を起こした。
かの御方は、視察に赴くのだという。遠方、山間の小村へと。
曇りであればよいな、とおもう。
残暑の厳しい時候だ。日差しのきつさと暑さの中で山を越えるのは難儀されよう。曇り空ならば、御身体がすこしは楽であろう。
髪が整い、白緑の衣装をまとったのを見ていると、ふと、雨にならないものかと想念が湧いた。
大ぶりの雨になれば、視察は取りやめになる。そうすれば今少し、共にいられる‥‥寝台の中へ、わが腕の中に戻ってきて、いただけるかも‥‥
早朝の出立に配慮して、夕べはおとなしく眠りについた。
その埋め合わせを、――‥…
髪と白緑の衣装がなかば整ったあたりで、未練を振り切り身なりを正した姜維は、室を辞した。
「道中、お気をつけて。丞相」
「ええ」
自室に戻り、鍛錬用の武装束を整えたところに、伝令の兵が飛び込んできた。
「申し上げます!本日の調練は、中止とあいなりました!劉備様に来客があり、主な武将方で宴を催されるとのこと」
「承知した。ご苦労」
伝令が背を向けるやいなや姜維は佩刀し、外套を引っ掴んで走り出した。
「丞相!!」
あと一歩で、外へと続く扉に到着するという人の姿をとらえた。
「丞相!本日の調練は中止とのこと。視察に、お供いたします!」
「そうですか」
晴れが、よい。
涼やかな秋の空であればよい。
秋の風景、秋の風物について教えを乞うふりをして、お声が聞ける。
かの人の前に立ち、扉を取っ手に手を掛ける。
扉を開くのは、目下の者の役目だ。扉の向こう側に、曲者がひそんでいるかもしれない。
白衣の賢人を背にかばって前に立ち、扉を、押し開けた。
早朝の薄い光が、開いた隙間からこぼれ出る。
「丞相。参りましょう」
かの人の肩を抱くようにして、外へと。
空を見上げて、気づいた。
ああ、天気なんて、どうでもいいのだ。
曇りでも、雨でも、晴れでも。
あなたの傍にいられるのならば。
「ああ、暑い。身体の芯から熱い。なのに背筋はぞくぞくと寒いのだ」
「発熱しておいでですから」
「寒いと思うのに汗は止まらぬ。ああ、暑い。熱い。しかし寒い」
「さ、薬湯を」
「う・・む、すまぬな、孔明よ」
「なにを仰せになられるのです、主公。代わって差し上げたいくらいです」
「ばかもの。代わって、何とするか。おぬしが倒れると皆が困ろう」
「主公こそが、われらの要にございます。‥‥すこし、お眠りになられると宜しいのですが」
「眠りたいのだが、こう暑くてはなぁ‥‥暑いのに、寒い…せめて汗が引けば」
堂々巡りだ。
夏風邪をひいた劉備の枕辺に、諸葛亮は詰めていた。
「人恋しい」とねだられたから。
熱があるのに寒い、いや、熱があるから寒いのだろうか?とにかく風邪とはそういうものだ。
しかもくっそ暑い夏場のこと、暑さと悪寒と汗の不快さゆえに寝入ることもできず、劉備の機嫌は悪く、どうにも人恋しく、ぐずぐずぐだぐだと、諸葛亮を引き留めていた。
「汗をお拭きいたしましょう」
「え、いや、うむ」
美貌の寵臣の申し出に、照れたようにうろたえる劉備。
「俺が、やりましょうか?」
「お、趙雲」
新たに現れた美丈夫に劉備がうれしげな声を上げた。人好きな劉備は、具合が悪くっても家臣たちがやってくるのは嬉しい。
「軍師。そろそろ戻られよ」
趙雲は、井戸からくんだばかりの冷たい水に、布をひたして絞った。
「主公がおさびしいようですので。それに、新作の薬湯の効果も確かめたいのです」
うんうん、わしはさびしいぞ。
って、新作の薬湯の効果、わしの身体で試したのか?
ちょっと微妙な気になる劉備。もちろん諸葛亮の調薬は信じているが、この寵臣は普段はおっとりしているくせに、時にびっくりするくらい過激だったりするのだ。
「風邪がうつったら、どうするのです」
「将軍こそ」
「俺は、平気です」
「私だって平気ですよ。ほら、熱なんて、無いでしょう?」
こつ、と額を触れ合わせる。
距離感の親密さに、うひゃーとなる劉備。
「たしかに、いまは大丈夫そうだ」
「昔から風邪って引かないんですよね。均はたまに寝込んでいましたが」
「均・・?弟君ですか」
「ええ」
「似ておられるのか、あなたに」
「気性も容姿も、あまり」
「はは」
めずらしく趙雲が頬をゆるめた。
「似ていなくて、結構」
「なぜ?」
「あなたみたいなのが二人もいたら、たいへんだ」
「ひどい言われようです」
頬をゆるめた趙雲と対照的にふてくされる諸葛亮。
えっと。
ちなみに上の会話は、劉備の汗を拭きながらのことである。手際よく拭かれながらかくも軽やかな会話をされると、なんかこう。
かいがいしい若夫婦に介護されてるみたいじゃないか、わし・・!?
たいへん微妙な気分におちいる劉備。
「もう、寝る。おまえらもう行け」
「おや、眠気が?ようございました」
諸葛亮はやさしく布団を掛け、趙雲は枕辺に水差しや布を整え、
「どうぞご静養を、主公」
それぞれに几帳面な拱手をして、退室していった。
「ふふふ、新作の薬の効き目は抜群のようですね」
「なにを入れたんだか・・主公は頑丈ですが、年も年です。あまり過激なものは」
「ふふ、葛に麻黄に・・原料はふつうですが、製法にひみつがありまして。効果てきめんですよ。眠れないとあれほどぐずついておられた主公が、あっさりと寝たのですから」
寝たんじゃない。おまえらが仲良しすぎて当てられたんだ。
人恋しいわしが出ていけと言うなんて。たいがいであるぞ。
趙雲、年も年って。覚えておけ。
しかし、身体が軽くなったのは確かだ。
ていねいに清拭されたので汗も引き、さっぱりしている。
寝るか。
関羽、張飛、はよう帰ってまいれ。
野外の長期調練に出ている義兄弟におもいをはせ、劉備は目を閉じた。