*できてない趙孔
漢の時代、官吏の休みは五日に一度だったらしい。
漢の時代、官吏の休みは五日に一度だったらしい。
対曹操軍の最前線に位置している劉備軍では五日に一度のお休みというのは無理だとしても、休養日は一応ある。
「孔明、お前は休め。気分転換が必要だ。明日は遊べ。よいか、童心にかえって遊ぶのだ!」
と主君に命じられてしまったからには、遊ぶしかあるまい。
「ぅ~ん・・よく寝た」
寝台の上でもぞもぞとうごめいた諸葛亮は、起き上がって伸びをした。
本日遊ぶのに備えて昨夜は早寝した。気分は爽快で体調は万全である。
「さて遊ぶか。なにをしようかな」
遊ぶには、遊び相手が必要だ。
着替えた諸葛亮は、足取りも軽く兵舎に向かった。
「趙将軍は、騎馬にて城外へ出ていかれました」
「ああ、そうですか」
ああ、そういえば趙子龍殿は朝が早いのだった。
こんなに日が高くなってから遊びのお誘いにくるのでは遅すぎたな。
「ではどなたか、私と遊びませんか?」
「えっ」
城の警備を受け持つのは趙雲の隊だが、兵舎の入口に近いこのあたりにいるのはただの兵卒である。下っ端の彼らは軍師のお誘いに硬直し、うろたえた。
「あれ、軍師様?」
「趙雲様を探してますか?」
「朝駆けに行っておられますよ」
通りかかったのは趙雲部隊の方々だ。確か第七部隊だ。一ケタの部隊は精鋭である。
「どなたか、私と遊びませんか?」
「え?」
「へ?」
「は?」
第七部隊隊長は、とりあえず言ってみた。
「ええと、遊ぶって、なにをしてですかね?軍師様」
「くじをつくってまいりましたので、こちらから一つ引いてください」
軍師がささっと綺麗な色の巾着を取り出す。
「はい、では。あ、【手合わせ】ですね。――え、手合わせ?」
「軍師様、趙将軍と手合わせする気だったんですか?」
「猫が虎に立ち向かう感じっすね」
「きたない手を使えば、いけそうな気がします」
「色仕掛けは駄目っすよ。なんか死人が出そうで」
「なんで色仕掛けですか。私は男子ですからそんなことはしませんよ」
「えっと、あっはい」
「とりあえず、木剣があるので、ちょっと打ち合ってみますか?軍師様」
とりあえず構えて、軍師に打たせてみた木剣を受けた第七部隊隊長は、息を呑んだ。
ぽこん、と音がしたのだ。
え、木剣ってこんな音するか?
カアン、ガコ、ボゴ、バキ、メキ、ドカッではなく、ぽこん、である。
何度か打ち合ううちに、ぽこん、から、コン、と音が変化したのでほっとした。
「お、上手です!筋がいい!上達してます!軍師様!!」
第七部隊長は、部下を褒めて伸ばすタイプだった。
「軍師様、俺ら槍使いなんで、木槍も持ってみてくださいよ!ちなみにこちらは趙将軍スペシャルで、趙将軍の槍と同じ重量になってます」
「わあ、重いですねえ。すごいすごい」
「趙将軍って、キメポーズとかないもんなあ。関羽将軍なんていつもキメッキメなのに。あんくらいやってくれねえかな」
「趙将軍、無言だしなあ。張飛将軍みたいに、うりゃあ、どりゃああ、って雄叫びも、あんまねえし。叫ばなくてもいいっすけど、名乗りはかっこよくやってほしいな」
「常山の趙子龍だ、みたいなことしか言っておられないですよね、それなりの武将相手限定ですけど。あ、そうだ見てください。趙将軍の真似」
「常山の趙子龍がお相手いたそう!」
と叫んだ軍師がいきなり大技を繰り出したので、第七部隊はびっくりした。
後ろ手にくるっくるくるっとトリッキーに槍を回したかと思うと突然前方を突くやつだ。速度は十分の一以下であろうが、動きの再現性はほぼ完璧である。
後ろ手にくるっくるくるっとトリッキーに槍を回したかと思うと突然前方を突くやつだ。速度は十分の一以下であろうが、動きの再現性はほぼ完璧である。
「うわっ、軍師様、上手い!!」
「ええっ、あの技って、近くにいる俺らでさえ速すぎて何してんのか分からねえのに」
「趙雲様自身も、あれ、何してるのか分からん、って言ってたな」
「乱戦になったら身体が勝手に動くらしいからな」
「人体の構造からして、長い棒状の物がああいう動きをするのでしたら、こうだと思いますよ?ええと、後ろ手に手首をこちら側に返して左手に持ちかえながら指先で引っ掛けて回して、たぶん左手で宙に投げて肩で一旦固定して方向を定めてから右手で受け止めて前に突いているのだと思います」
「軍師様、すごい!」
愛馬に乗って朝駆けをし、爽やかな清々しい気分で戻ってきて城門をくぐった趙雲が見たものは、各自それぞれに思いつく趙子龍のかっこいい名乗りをやってみたり、趙子龍にやって欲しいキメポーズをそれぞれキメッキメにキメてみたり、趙子龍の槍さばき(十分の一速度)を再現したりして、全力な童心にて趙子龍ごっこして遊んでいる部下と軍師の姿だった。
「あ、趙雲様!お帰りなさい」
「あ、将軍、お帰りなさい」
趙雲のことが大好きな彼らは、趙雲の姿を見つけると喜んで口々に叫んで手を振った。
・・・見なかったことにして通り過ぎていいか?
愛馬にきくと、馬はぶるんと尻尾を振って、とことこと軍師に近づいた。
しまった。
趙雲の愛馬は軍師に餌付けされており、軍師のことが大好きなのだった。
「趙雲殿、遊びましょう。ささ、くじを引いてください」
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離れることはそれなりにある。
趙雲は勇猛であるばかりか、関張の両雄には欠ける思慮深さや謙虚さをも持ち合わせていて、遠方での単独の軍務に就くことも、別動隊として行軍することも多い。
再会し、幕舎のなかで愛し合った。
口づけを交わし、離れている間に閉じてしまった奥処を丁寧に拓かれて、はやく欲しいと懇願しても与えられず丹念に奥まで解されて繋がった。
厚手の布でも朝の暁光は遮れない。
薄日が射しはじめる頃に孔明は目を開けた。
強い腕に、背後から抱かれている。彼はまだ眠りの中にいるようで、呼吸は静かで深い。
床の敷き物の上にふたりの衣服が脱ぎ捨ててある。
余裕が無くて、暗がりの中で互いに性急に脱がしあった。
移動用に裾を短く仕立ててある孔明の袍の上に、趙雲の武袍が重なっている。
衣装が、なんだか仲良く寄り添っているみたいだ。
小さく笑うと、背後から抱き締める腕に力がこもった。
「なにか、おかしなことでもありましたか?」
「あなたと再会できたことが、うれしいのです」
夜のうちに汲んでおいた水で洗顔し。
仲良く一夜を過ごしたらしい衣服たちを引き離して二人分に分け、互いに身につけていく。
「冠が見当たらないですが…全く覚えておりません。心当たりは?趙雲殿」
「あなたの冠…は、私が外しました。ええと、あ、ありました」
「私の髪留めも無いな。孔明殿、知りませんか?」
「それは私が外したのでしたね。褥に入ってから、でしたか」
孔明の冠は幕舎の入口に、趙雲の髪留めは簡易な寝床の布の中に転がっていて、それぞれ相手が探し出して手渡した。
「冠が見当たらないですが…全く覚えておりません。心当たりは?趙雲殿」
「あなたの冠…は、私が外しました。ええと、あ、ありました」
「私の髪留めも無いな。孔明殿、知りませんか?」
「それは私が外したのでしたね。褥に入ってから、でしたか」
孔明の冠は幕舎の入口に、趙雲の髪留めは簡易な寝床の布の中に転がっていて、それぞれ相手が探し出して手渡した。
「あ……あなたの匂いがします」
袍から、彼の匂いがする。まるで太陽のような。
「え、汗くさいですか」
「大丈夫ですよ」
そんなに心配そうな顔をしなくても。
そんなに心配そうな顔をしなくても。
たとえ汗の匂いがしていても、それはそれで、いとおしいことだろう。
「私の武袍は、いい匂いがします。あなたの香の匂いだ、孔明殿」
私たちが同じ幕舎から出てきても、注目する者なんていない。
だって同衾好きの陣営だから。
同衾大好きな劉備様に感謝である。
*孔明女装。孫尚香が正史よりの悪役になってます
揚州の孫家から主君、劉備のもとへ嫁いできた孫夫人こと孫尚香に呼びつけられ、奥宮へとやってきた趙雲は、不機嫌だった。
揚州の孫家から主君、劉備のもとへ嫁いできた孫夫人こと孫尚香に呼びつけられ、奥宮へとやってきた趙雲は、不機嫌だった。
戦場では絶大な武威をまとい、蒼銀の鎧が戦場に姿を見せようものなら弱兵であれば逃げ出してしまうほどの威圧を放つが、平時は温和であると評されている。
そういう男が隠しもしない不機嫌な顔でやってきたので、奥宮に仕える女たちの顔は一様に引き攣った。目を伏せ無言で頭を垂れ、通りすぎる長身を見送る。
女傑と称される孫尚香は、趙雲の表情を目にすると内心では臆していたが、高い自尊心から表には出さずに、朗らかな声音で話し掛けた。
「よくきてくれたわ、趙雲」
「は」
あからさまな仏頂面とそっけないにも程がある趙雲の態度に、孫尚香は鼻にしわを寄せて無理やり笑った。
「男なら誰でも奥宮に呼ばれたら大喜びで、そわそわしながらやってくるっていうのに。すごいわね、これだけ女ばかりいる場所に何の関心も無いって顔、いっそ見事だわ。さすが趙子龍というべきかしら」
笑いながらの嫌味に応えはなく、ひややかな視線が寄越されるだけだった。
孫尚香は間違っても気の長い性質ではない。早くも切れた。
「なんなのよ、その態度!」
「貴女が、主公・・劉備様を、敬って接してくださったら、私もこのような態度を取ることはない」
「あなたたちは、みな同じことを言うのね」
「女人であるから、妻であるから、男を敬い、夫に従えと、申し上げているのではありません。貴女は貴女という一人と人として、劉備様という一人の人を敬って接して欲しいのです。劉備様は我らが主君でありかけがいのないお方であり、そうでなくとも、たとえ劉備様が乞食であろうとも、敬意の無い乱暴な態度で接していいというものではないということを、どうかお分かりいただきたい」
この際立って武勇のすぐれた姫は、けして弱きものに横暴に接する性質ではない。
むしろ弱きものを助け、強きに立ち向かう人だ。
ひどく遺憾なことは、現在の彼女が立ち向かっている強き者というのが夫である劉備であるという事だ。
なぜここまでこじれてしまったのか趙雲には理解できないが、劉備の忠実な臣下にとって、揚州の兵を引き連れて並べ侍女にまで武装させて威嚇するという孫尚香の劉備に対する傲慢なふるまいは、とうてい見過ごせるものでも許せるものではなかった。
「・・・分かってるわよ」
尚香の声に苦さが混じった。
趙雲は目を上げてようやく気付いたのだが、今日の尚香は武装束ではなかった。
鮮やかな紅の武装束を纏い、腰に細身の剣と弓を佩いているのが常の姿であるというのに。
真紅の地に花模様の銀刺繍がほどこされた、あでやかな着物を身につけている。
艶のある黒髪はいつもと同じように頭頂で一つにまとめて結い、馬の尾のように背で揺れているのだが、結いの元に赤い花飾りが挿してあるのが、くっきりと整った勝気な顔立ちに華やぎを添えている。
「なにか、云うことは?」
「は?」
「着飾っている女に、云うことは無いの?」
「殿に、言っていただいてください。私からはなにも」
「この―――朴念仁!!」
怒鳴られようと言う事などひとつもない。
「なぜ、私を呼ばれたのか。用がないのなら、退出します」
「わたしが呼んだんじゃないわよ」
尚香は横柄にあごをしゃくった。
はじめて気づいたが、奥には女人がたたずんでいた。
趙雲はあえて目を逸らし容貌を目に入れないようにしたが、背が高く、気品ある女性であるようだった。
尚香より年上であろうが、それだけではなく孫家の姫である尚香よりも高貴で近寄りがたいものがあるばかりか、どこか浮世離れした雰囲気もある。
いったいどこの深窓の姫君か。
考えて趙雲はうんざりとした。
つまるところ、見合いではないのか、これは?
「今日は、祭りなんでしょ。秋の収穫祭だっけ」
「はい」
それは本当だ。主人に身近に使える使用人と警護の兵、街を守る警備隊を除くすべての官吏も将兵も職務は休みとなっていた。
それもあって、奥宮などといういささかの興味も関心もない場所に呼び出されたことが趙雲の不機嫌を煽っていた。
大きな祭りだ。多忙極まりない趙雲の想い人も、職務を休むであろう。いや、休むべきだ。あの人はまったく働き過ぎだから。
連れ出したい。
街は飾り付けがされ、普段はない露店が並び、食べものも物品も、また芸や音曲をなりわいとする者も集まってくると聞く。
きっと興味を持ち、・・・喜ぶのではないか。
少々変装などしていただいて、雑踏にまぎれこめば目立つことはあるまい。
「・・・祭りに、行きたいと思います。もし将軍のほうのご都合にさしつかえがありませんでしたら、伴をお願いできないでしょうか」
流れる水のように静かで奥ゆかしい、この上なく耳に心地よく慕わしい聞き慣れた声音に、趙雲は一瞬すら迷うことなく返答した。
「承知しました」
「本日、ほとんどの将兵は休みだと聞いておりますが。大丈夫ですか」
「ええ。もちろんです」
こちらからお誘いしようと思っていたのだ。
公務であろうとも私事であろうとも、構わない。
声の方に視線を上げると、軍師と目が合った。
なぜか、女装をしている。
というか先程から孫尚香の奥に佇んでいたこの上もなく気品のある姫だとおもっていた人が、軍師だった。
趙雲は一瞬混乱した。
軍師との、見合い、なのか?
私と、軍師が?
孫尚香及びこの世に存在するあらゆる神だとか運命だとかに感謝しそうになったが、・・・いや、そんなうまい話があるわけが無いような気もする。
「・・・びっくりするくらい驚かないわね、趙子龍」
「驚いては、おりますが」
驚いたのは、驚いた。
女装されているということは、娶ってもいいということだろうか、と。
いやだが、そもそも、誰もこの場が見合いだとは言っていない。
「それでは、行ってまいります」
「ちょっ、・・・ほんとうにその姿で行くつもり?」
「約束は守ります」
「・・・分かった、わよ!私も守るわ。今後は劉備様のお部屋では武器は持たないし、侍女を武装させることもやめる」
「ありがとうございます。孫尚香様」
礼を取った軍師は趙雲の横までやってきてから振り返り、尚香に向かって再度の礼をした。
趙雲も退室のための軍礼をして、背を向けた。
「・・・・尚香様も仰っておられましたが、この姿を見ても驚かれないのですね。入室の時から見抜いておられたのでしょうか」
「いえ。お声を聞くまでは、まったく」
どこぞの姫だと思っていたので、見てもいなかった。
「どのような姿をされていようが、軍師殿は、軍師殿ですから。着ているものが何かなど、あまり気になりません」
「・・・あなたの豪胆さには、時々ほんとうに驚きます」
感慨深そうにため息を吐いた軍師から、ことのいきさつを聞いた。
尚香と押し問答になった末の帰結だと。女だから武装してはならぬというのか、いえ女だとか男だとか言うことではなく、では軍師が女の衣装を着てみれば?それで祭りに行ってくれば言う事を聞いてもいい、今後は劉備の室で武装はしないわ、と。
呉侯の妹君である孫尚香の衣装であるのだから元より豪華である上に、奥宮の女たちが寄ってたかって飾ったのだからその出来栄えは秀逸で、どこからみても高貴な婦女にしか見えない。
肌は玉のようにつややかに、切れ長の怜悧な双眸は目尻に刷いた薄紅色の顔料によってやわらかげなものになっている。唇にのせた紅がうるわしく、全体として優婉なことこの上なく、月に住む嫦娥とはこういうものかと人が見たら思うだろう。
このようにきらびやかに着飾って街を歩けば衆目を集めて仕方なかろうが、尚香との約束であれば華やか過ぎる花簪のひとつも外すわけにはいかない。
趙雲のほうは略式の武袍なのだから、少々釣り合わないか。お伴にしか見えないかもしれない。それは構わないし間違ってもいないのだが。
段差のあるところで軍師がふとつまずいた。女性の衣は裾がほっそりとしとやかであるので、すこし歩きづらいのだろう。
「軍師。お手をどうぞ、こちらへ」
しばしの沈黙のあとで差し出された手は、四六時中筆を持つために少々荒れている、まごうことなく軍師の手だった。
そういえば街に出たら軍師と呼ぶわけにはいかない。姓も名も字もまずいか。
女性の姿をした彼をいったい何と呼べばよいのだろうと悩みながら、勤勉さが如実にあらわれた手を取って、いつもの半分ほどの速度でゆったりと、趙雲は歩き出した。
朝は晴天だったのに、昼過ぎからは雨になった。はげしく降り、雷まで鳴っている。
調練を中止した彼は、私の執務室にやってきた。更衣はきちんとしているのに、髪が湿っているのが気になった。暑さがまだまだ残るゆえ風邪を引くなんてことはないだろうけれど。
「昼ごろに雨になると、申し上げましたのに」
洗い立ての布を差し出しても、受け取らない。
「…趙雲殿。髪が濡れておりますので、拭いたほうが」
私が言うと、彼の優艶な瞳が細まった。
乞うような眼差しに、私は一拍の間を置いてから、布で彼の頭部を包み込んだ。金や地位、そういうものを何も欲しがらない人なのだと聞くのに、彼はときどきこういうひどく些細なことを望む。
「あなたは、雨が好きでしょう、軍師殿」
「ええ、昔から」
幼いころから嫌いではなかったと思うが、隆中にいたときははっきり好きだった。雨の日には農を休んで、雨にけぶる風景を眺めて書を読むのが楽しみだった。
「以前とは別の意味で、雨が好きになりそうで、困っています」
もう長く前線の地にいるとは思えない艶のあるきれいな髪を、毛先から拭いていった。なるべくていねいに。
「どうして、ですか、軍師殿」
「分かっておられるでしょうに。趙雲殿」
広間で宴会がはじまっている気配がしている。
雨で調練が中止になったので、昼間から飲むことになったのだろう。
「私も、雨が好きになりそうで。困っています」
「困ることはないでしょうに」
好きだろうと嫌いだろうと雨は降るのだ。
「雨で調練がなくなれば、あなたの傍にいられますから。――将として、誉められたことではないのですが」
ほんとうに困ったというように、彼は苦笑している。
私もまた、ほんとうに困ったというように眉を下げた。
「私もです。雨で調練がなくなれば、あなたが来てくださいますから。―――軍師として褒められたことではありませんね」
部下である部隊長が高い熱を出していると聞いて、様子を見に行った。
病人は基本的に隔離される。人があつまる軍団で病を蔓延させないために。だというのに、人だかりができている。
開け放した出入り口付近にいた副官が、趙雲をみて拱手する。
「なにかあったのか」
頼りがいのある部隊長ではあるが、これほど見舞いが殺到するというのは奇妙だ。
にやりと思わせぶりな笑みを浮かべた副官が、目で室内を指した。
病人は、簡素な牀に寝かされている。熱に浮かされ赤らんだ顔、しかし苦しげというよりはひどくはにかんでいる。
桶の水に浅緑の草が浮かび、清涼な芳香を放っていた。
しろい手が水にしずみ、ひたした布をすくいあげてゆるく絞る。
それで病人の顔をかるくぬぐったあとで額に乗せる。静かでていねいな所作だった。
「いかがでしょうか」
声も静かでていねいであり、問われた病人――趙雲の隊の部隊長、戦ともなれば真っ先に敵の只中に切り込んでいく髭面の猛者が、顔を赤らめもじもじと恥ずかしそうに答えた。
「……すっとします。とてもきもちがいい」
「鎮静の効果がある薬草です。通常は火にくべて焚きますが、暑い時分でしたらこうして水に浸して使うのもよいかとおもいまして」
「なるほど。簡単だが、効果がありそうですな」
側にいた医官が、うなづいた。
「暑気あたりをやわらげるほか、皮膚の病を防ぐにも有用とおもいます。この季節でしたら容易に採取できますし」
「ご慧眼、さすがです。この夏はことさらに暑い。さっそく用いてみましょう」
「では、私はこれで。お大事になさいますように」
素衣に粗布の巾。簡素な出で立ちでありながらえもいわれぬ気品がただよう。兵舎の病室にやってきた新任の軍師に興味津々と取り巻いていた兵たちが、道を開けた。
静やかな白皙は、しかし趙雲をみとめて立ち止まり、というか、やや後ずさりし、目を伏せた。
「……趙将軍。お言いつけに背いてはおりません。兵に付き添ってもらいました」
このあいだ、ひとりで出歩くなときつく叱りつけたばかりであった趙雲は、軍師の態度に微妙な面持ちになりながらも、やはりひと言云わずにはおれなかった。
「病人を隔離するのは、病を広げないための措置です。主公の側近である軍師殿が、近寄ってはいけません。主公や軍師に病がうつったら取り返しがつかない」
きびしくもある正論に、取り巻く兵も含めてしんとなる。
「趙将軍、部隊長殿の熱は暑気あたりにて、うつる病ではありませんから」
取りなすように告げる医官の声に、静かな声が重なった。
「兵舎での病の扱い、看護や衛生のやりようを知っておき、良いように整えることもまた軍師の役目と心得えます。ですが、……主公のご信任厚い主騎であられる趙将軍がそう仰せでしたら、今後は気を付けます」
趙雲といっさい目を合わさず静かに言って礼を取り、趙雲からもっとも遠い通り方を慎重に選ぶように歩を進め、軍師は退室していった。護衛の兵がちらっと趙雲を見て、首をすくめて後を追う。
兵たちがこそこそとざわめいた。
「……え、もう来ねえってことか、軍師様」
「おれも熱を出したらあんなふうに看病していただけるのかっていう幻想を見たんだが」
「お薬を選んでもらって、汗を、こう、拭いてもらって」
「儚い幻想だった…」
「部隊長は果報者だ」
「そうだそうだ」
兵らに口々にいわれた病人は「まことに。そうおもう」と含羞を浮かべる。ひどく赤らんだ顔は熱によるものか、それとも別の情緒によるものか。
「………言い過ぎたか」
ぼつりとこぼれた言葉に、副官は肩をすくめた。
「間違ってはおらんでしょう。熱が出る流行り病は多い。主公やあの軍師殿のように代わりのおらぬ方は、近付かないに越したことはないです」
「主公はまだ頑丈であられるが。……あの方に、なにかあったら」
病室から離れて歩きながら言う将の口調があまりに真剣かつ深刻であったので、副官は将をちらっと見て、今度は首をすくめた。
「そうならぬよう、将軍がお守りすればよいのでは」
「守るとも。だけど、それは、それとして」
「なんです」
「私が熱を出しても、あの方に看病していただけそうにないな…」
副官は目を泳がせる。
「将軍が熱を出して寝込むこと自体、ないでしょう」
「そうだが、しかし」
暑気あたりになんて、なったことはないのだが。
……この先もならないとは限らないじゃないか。