軍師は結んだあとの包帯の余りを切り取ろうとして小刀を持っていたが、あきらめたようにそれを置き、身を魏延にもたせかけた。
諸葛亮は、動けないでいた。
風呂上がりの馬岱はほかほかとゆであがっていて、襟のない簡衣を着て、ざっくりと腕まくりをしている。
なんてことのないいでたちなのに、宮城では見かけない男っぽさを感じて、目のやり場に困る。
こくりと頷くと、本当に刃物を持ち出してきて髪を切られてしまった。
「きれいな髪だね、諸葛亮殿」
切るというよりは削ぐという感じで器用に手を動かしながら、くったくなく彼が言う。
なんとも思わないのだろうか。
こんな近くで、息が触れそうなのに。
「ありがとうございます。・・・・頭が軽くなりました」
濡れた髪は切り落とされても始末に困ることはなく、さっさと片付けてしまった馬岱が諸葛亮の濡れ髪を布でくるんでぽんぽんと布に水分を吸い取らせる仕草をする。
近い。
困る。
夜で、風呂上がりでふたりとも薄い夜着をまとっただけの恰好で、この距離なのだから。
「・・・あなたの髪も、まだ濡れています」
「んー?」
そっと手を伸ばして触れると、茶色のくせ毛はまだ水滴を含んでいた。
「俺の髪は短いから平気だよ」
「と言われても、気になります。武将は身体が資本なのですから。それに・・・・あなたはいつも自分を後回しになさる。あなたは私を大事にしてくださっているのでしょうが・・・私も、あなたが大事なのです」
布を取り上げて馬岱の髪をくるみこむと、さらに顔同士が近くなった。
「諸葛亮殿・・・」
吐息が頬にかかる距離まで近づいて・・・・・頭部からゆっくりとおりてきた馬岱の指が諸葛亮の頬に触れた。
(あ・・・・)
口づけをされる・・・・とおもったのだがくちびる同士は合わされず、鼻先がすこしふれた。
至近でみつめると、漢人とはすこし異なる面立ちがへにゃっとくずれて、笑みの形のままのくちびるがやさしく頬に触れた。諸葛亮がまぶたをおろすと、今度こそくちびる同士が近づく。
触れあわされるだけのものを何回か続けてから、すこしだけ重ねられた。食むように、戯れるように。
心と身体の奥底からこんこんと涌き出たものに、爪先まで満たされていくような心地がする・・・・。
「・・岱・・どの」
「ん、・・・」
名を呼ぶと相手の背がひくっと揺れた気がした。
くちびるが離れてから、諸葛亮は指先を伸ばして相手の顔の輪郭をなぞるようにたどる。
馬岱ははぁっ・・・と息を吐いた。
「なんかさぁ・・・・なんかさぁ、いろいろと反則だよねぇ諸葛亮殿って」
「はい?」
「あたためて、やすませてあげたかっただけなんだよ?俺。信じてくれる?諸葛亮殿」
「・・・これ以上なくあたたまっております・・・が、その、やすむのは・・・もうすこし先でよいかとおもいます・・・」
多分、おそらく、きっと。性欲ではない、これは。
だけど、近づきたい。包みこまれたいし、包みこみたい。
「・・・・私はふだん夜が遅いので。・・・こんな早くからやすめと言われても。困ります」
ほんとうに、困る。
・・・と諸葛亮はおもった。男をさそう方法など四書五経のどこにも書いてないのだ。分かるわけがない。
困ったままで見つめると、口づけをされた。
触れる吐息が熱くて、控えめに唇を開いて侵入してくる舌を迎え入れる。
貴重なものに触るように慎重にそぅっと抱き寄せられて聞こえた相手の心音は、諸葛亮のよりもずっと早く脈打っていた。
落ちてしまったな、と思う。
まったくいい年をしてと思うし、想定外だという焦りもすこしある。
こんなふうになるとは想像していなかった。
こんなふう・・・つまりは一緒にいると心に火が灯るような心地になったり、ほんのすこし触れられると身体に火が灯るような心地になったり。軍務につく相手を目で追ってみたり、そのままいつまでも見ていたくなったりもする。
特別なひとりの人を持つということがこういうものだとは、知らなかった。
こんなにふうにくすぐったくて、心地よくて、気恥ずかしいものだとは。
恋とはするもんじゃない、落ちるものだとは、よく言ったものだ。
以前なら笑いとばしただろうが、いまはまったく笑えない。むしろこんな状態であることが人に知られたら笑われるだろう。腹をかかえて大笑いしそうな知り合いが何人も浮かぶ。
うちにおいでよ、といざなわれた時、すこし困ってしまった。
政務がまだ、みたいなことを言ってみたのだかまったく本心ではなかった。
そういうことをするのかなと、反射的に思ってしまって、自分のその思考に恥じ入ってしまった。
彼はあまりそういうことに熱心ではない。かといって淡白というわけでもなく、とらえどころがない。
私はというと、同じくそちら方面には熱心ではないし、淡白だ・・・と思う。思っていた。いや今でも淡泊だ・・・なはずだ多分、おそらく、きっと。
多分、おそらく、きっと。性欲ではない、これは。
胸の奥底がうずくような感じがして諸葛亮はすこし困った。
そのうずきはみぞおちのほうにもあって、そのあたりがほの熱い気もする。
身体を交わらせなくとも良いのだとは思う。しかし、触れたい・・・と望む気持ちがあることはいなめない。
それこそ良い年をして。しかも男同士であって、しかもしかも諸葛亮が受け役だったりする。
そのうえでふれあいを求めているのだから、途方に暮れるしかない恥ずかしさだ。
彼の屋敷に伴われ、食事をふるまわれて彼自身が薪をくべて沸かしたという風呂を馳走になった。
飄々としてとらえどころないが、馬岱はやさしい。
ただ馬岱のやさしさや献身は幅広く万人に向けられたものではなくて、実はものすごく狭く限られた範囲の対象にのみ発揮する。
人あたりがよくていつも笑っている彼が、実のところたいせつにしているものは、ものすごくわずかだ。
その対象がいまは自分であることが、うれしい気もするし切ないような気もする。
風呂から上がった諸葛亮と交代に、馬岱が風呂を使いに行った。
ほかほかとゆであがった身体を籐の長椅子で休めていると、おどろくほど早い時間で馬岱が風呂から上がってきた。
元から風呂が短いのか、それとも・・・自分とはやくふれあうためにさっさと済ませてきたのか、よく分からない。分からないが恥ずかしい。政務をとるときのような冷静さは戻ってきそうにない。・・・恋人と過ごす時間に冷静さなどいらないのかもしれないけれど。
「髪、乾かす前に切っちゃう?」
にこっと話しかけられてうつむく。動揺してしまったのだ。
馬岱はもちろん武将として過不足のない体躯をしているけれど、際立った体格や容姿をしているわけではない。呉の美周郎や陸伯言、わが陣営でも馬超や趙雲といった武将はずば抜けた容姿をしている。
だけど彼らの華やかで美しい容貌が諸葛亮に感銘を与えることはないし、ましてや動揺なんてしたことはない。
馬岱の笑顔だけなのだ。・・・・・こんなふうに気恥ずかしくて、いたたまれない気持ちになるのは。・・・・それでいてしあわせで心と体に灯りがともるような心地になるのは。