背後にてその主君の室の扉が閉まる音を知覚したとたん、馬超は武袍の襟をゆるめた。
ついでに髪に指をいれ、てきとうに掻き乱す。
櫛目もうるわしくきりりと結われていたせいで、こめかみが引き攣るようだったのだ。
腰に下げた飾り物もいいかげん鬱陶しいのだが、外しても仕舞っておく所がないので下げておくしかない。
(まったく岱のやつ・・・ここまで飾り立てなくてもよかろうに)
主君の御前に伺候するというので、馬岱に念を入れて仕度された。
劉備は服装の格式にうるさい性分ではないし、陣営もまた気さくなものだ。
野放図なのはどうかと思うが、格好など無礼にならぬ程度に整えておれば良いとおもう。
華美な鎧と袍で綺羅とよそおい、西涼の錦だ何だと誉めそやされることを誇らしくおもっていた過去は、遥か遠い。
蜀に下ってからもことあるごと、従兄が冠する錦の異名をおとしめまいと気張る馬岱の気遣いは愛しくもあり、わずらわしくもあった。
「・・・これは馬超将軍殿。将軍御自らわざわざのお運びとは、なにか火急の用でもお有りですか」
機嫌が悪いときに嫌味なほど慇懃な口調になるのは、この軍師の癖のようなものだ。
「用はない」
それを分かっているのかいないのか、馬超の口調は変わらない。
「考えてみろ。俺がお前に用など、ある筈がない」
堅苦しいのは嫌いだと自覚しながら、この城でも群を抜いて堅苦しい男のもとに通ってしまうのは、我ながら解せないことであった。
(そういえば、この男も異名を持っているのだったな)
臥龍、伏龍・・・
天子をも象徴する高貴な神獣にたとえられる心地は、いかほどのものなのか。
「息が詰まるのではないか?」
「・・・なにが、でしょうか」
「なにもかも、だ」
城でいちばん堅苦しいこの場所も。
城でいちばん堅苦しいその立場も。
鎧よりも重そうな、黒い袍も。
「捨てたければ、捨てさせてやるぞ」
「・・・いきなりあらわれたかとおもえば、分からぬことをおっしゃる」
「分からないのか」
「・・・・分かりませんね」
「そうか、分からないのか。では俺の思い違いだな」
捨てたがっているように、見えたのだがな。
軍師はほそい指さきで筆をもてあそび、ふと利き手のくすり指を唇にあてた。この仕草が思い悩むときの軍師の癖ということは、馬超は知らない。
「・・・貴公はいったい何をしにここへ?」
「云わなかったか。用などない。気にするな、もう行く」
訪れたときと同様にぶらりと出てゆく。
その背を物憂げに見詰める視線のあったことを、馬超は知らない。
「孔明」
この部屋の主に呼ばれた。
この男と自分との関係をいいあらわす言葉を捜すのはむつかしい。
むつかしい上にかなりどうでもいいことなので、特に定義はさだめていない。
「孔明」
「・・・孟起。いっておきますが、わたしはまだ起きませんよ」
「ほら、見ろ」
ジャっというのは、たぶん窓を覆う帳が開けられる音であろう。
わたしはふとんの端をしっかりと握り締め、もそもそと亀のごとくその中に潜んだ。――否、潜もうとした。
人のいうことを微塵も聞かない、そして場の空気をよむ度量のない男は、いつもわたしの牙城を安易に、そして容赦なく崩す。
寝ているもののふとんを剥ぎ取るなどという所業はいつだって許されるものではない。職務が休みである朝ならば尚更のこと。
わたしはどんな罵言を放ってもよい立場であった。
だが、洩れた言葉といえば、
「・・・雪・・・・・・」
という唸りめいたつぶやきのみ。
冬に、いやすでに春先という区分であろうが、ともかくいまの時節に雪がふるのは珍しくない。
まして降っているのは、春に相応しい綿雪である。
だがそれは例年ならば、という注釈がつく。
この冬はどういうわけか、雪がひどく少なかったのだ。
「・・・・・・」
如何な感想を述べようかと思案する間もなく、わたしの体はぶるりと震えた。
「寒いのか」
男は何故か嬉々としてその良く鍛えられた腕をわたしに廻してくる。
「なんだ。薄い反応だな」
拍子抜けしたように云う。
「おまえは、雪をみたら真っ先に黙々と足跡をつけてまわるタチかとおもったんだが」
・・・黙々と、ってなんだ。人を根暗みたいに。
「・・・新雪の雪原なら・・・」
そうしてもいい。だが、まだ雪は降り出したばかりのようで、地面をまだらに覆っているだけである。これで足跡などつけに行ったら、沓が泥にまみれるだけであろう。
「それもそうだ。ならば、積もるまでまだ間があるな?」
といって、男はわたしを押し倒した。雪が積もるまでそういうコトをして待つ気であるのか。
都合が良いというか悪いというか、そういえばここは閨であった。
「・・・積もるかどうか・・・」
分からないではないか。春の雪は淡雪という別名があって、凍り凝ごることなく融け消えることでも有名なのだ。
というようなことをわたしはぼそぼそと説明した。
休日の朝に明瞭な思考を持つことはむつかしい。
「積もらなければ、ずっとこうしているか」
それも悪くない。
男は鼻歌でも歌いだしそうな上機嫌で、わたしの帯を解きだした。
結果を云おう。
雪は積もらなかった。
苦しいときは、どうすればよいのか。
誰かに相談…といっても、国家的機密であるし。
わたしときたら、友人もいないし。
わたしが苦しそうな顔してたら、周囲が怯えるし。(国家的危機かと)
全軍の志気にかかわる…し。
しょうがない。
笑っておこう。
「子龍、ちょっと抜けていいか」
「…調練中なのだがな」
「俺はあれのたいていの部分は嫌いだが、あの、苦しいときほど薄ら笑ってるのは、ほんとうに嫌いだな」
「嫌いなのか」
「ああ」
「じゃ、ちょっと行ってくる」
「…ひとつ聞いていいか、馬超」
「なんだ?」
「おまえに何か、メリットはあるのか」
「そんなもんあるか。罵詈雑言は吐くわそこらの竹簡を投げつけてくるわ、ひどいものだ。
…ああ、しかしあるといえばあるな」
「拝聴しようか」
「ああいうときのあとの夜はすごい。あれのみだれようが」
「聞くのじゃなかったな」
「忘れろ」
「おまえがすこし、羨ましい気がするな」
「そうか。安心しろ、俺もだ」
(……)
馬超は眼を閉じたまま、そろりと手をうごかして、衝撃に痛む眉間をなぞった。
わざわざ急所をねらって攻撃してくることもなかろうにとおもう。
むろん、相手に攻撃の意志などある筈はないが…
もし隣で眠っている男が一片でも殺意をもっていれば…いいや殺意というほどではなくても、馬超を害そうという意志が少しでもあれば、馬超にはすぐにそれとわかるはずだ。
わからなくてはおかしい。
乱世という時代によって鍛え抜かれた感覚は、眠っているときでもけして安寧をむさぼっているわけではないのだから…
だから、もし隣の男がその攻撃をわざとやっているのだったら、瞬時に飛び起きていた筈だ。
わざとでないからこそ、馬超はその攻撃をまともにくらってしまう。
馬超は眼を閉じたまま、強烈な肘うちをくらってずきずき痛む眉間を揉みほぐしつつ、嘆息した。
(これほど外面の綺麗な男が、こうまで寝相が悪いというのはどうなのだ…)
馬超の室の寝台は広い。
長身の男ふたりで寝ても、いちおうのところ余裕があった。
しかしながら、そのどちらか…あるいはそのどちらともの寝相が悪い、となると大いなる問題である。
あいにく馬超は寝相が良いほうではなかった。
そして…同衾する軍師が輪をかけて寝汚い人物だったというのは、これはもう悲劇というしかないのだった。
馬超は眼を閉じたまま手を伸ばし、細い肩をさぐりあてて引き寄せた。漁師が網を引くように腕を掴んでたぐりよせ、向かいあわせになるかたちで抱きよせる。
奔放な寝相の軍師は腕をつっぱって嫌がるそぶりをみせ、それでも馬超がますますつよく抱き囲うとその体温にでも安堵したか、やがてことりとおとなしく寝はじめたのだった。
翌朝目覚めた軍師に馬超は、なんだってこんな窮屈な格好で寝ているのかこれじゃゆっくり眠れない…と文句を垂れられるのだが、馬超はあくびしながら面倒くさそうに、
「俺の安眠のためだ」とこたえた。
ゆらりと不気味な影が孔明に迫る。
「…逃げるな。つか、逃げられると思うなよ…」
影はいちおう孔明の情人ということになっている男の声を発した。
情人、という区分は、ぶっちゃけカラダの関係があるいうことだ。
さらに突っこむと、カラダの関係しかないよという意味でもある。
恋をしてれば恋人だろうし、語弊はあるが、愛人という言葉も世の中にはある。
カラダの関係はあるのだが、いまさら恋でもないだろうよという立場。まして愛というものからはなおほど遠い距離感。だから情人なのである。
閑話休題。
影はじりじりと軍師に迫る。
影だけじゃなく実体もともなっている。
ようするにいま、孔明は情人からカラダの関係を求められているところである。
馬超は夜になって、長期の兵訓練から戻ってきた。
ほこりだらけの武衣はこざっぱりした私服に着替えてあり、ヒゲが伸び放題というわけでもないのだが、まとう雰囲気はぎらぎらしている。
ミもフタもない言い方だが、長期の遠征で、溜まっているのであった。
それならば妓館でも遊里でもいって放出してくればよいものを、なぜか知らないがこの男は女好きのくせに、孔明にもそれを求める。
迷惑である。
冷静沈着な諸葛孔明もここにいたって蒼褪めた。
ただでさえ受け役で男の相手をするなぞご免なのに、こんな状態の男の相手をするのはもっとイヤだ。
身の危険を感じる。へたをすると壊されそうだ。そのあたり、馬超の理性など微塵も信用していない軍師はじりじりと後ずさった。
「…下がりなさい、馬超将軍。わたくしはあしたの朝イチに朝議があってそのあとも公式行事が目白押しなのです。あきらめて妓楼にでも行ってください」
「…妓楼か」
「そう、妓楼ですよ、妓楼。あなたの大好きな。――美しい妓女、やわらかい牀台、吟味された酒と肴…。ほぅら、その気になってきた」
孔明は白羽扇を馬超の顔のまえでぐるぐる回した。まるでエセ催眠術師のようだが、彼なりに必死なのである。
「妓楼なら、さっき寄ってきた」
「…なんですって?妓楼で妓女にフラれたからわたしのほうに来たってんですか?それとも妓女を抱いただけではもの足りなくてここに来た?どちらにしてもフザけんなって話ですね」
「逆だ、逆。おまえを抱きたくてしょうがなかったから、わざわざ妓楼に寄って湯を浴びて着替えてきたのだ。いかないでくださいませとすり寄る妓女を振り切ってきたのだからな。だから、ぜったい逃がさん」
妓楼を銭湯がわりにするなとか逃がさんってんな迷惑なとかいろいろ言いたいことはあったが、馬超の本気を感じ取った孔明は、臆面もない行動に出た。つまり、ぱっと背を向けて逃げ出した。
劉備軍という素晴らしく逃げっぷりのよい軍団にはいったおかげで否応なく軍師の逃げ足も鍛えられていたが、この場合は相手が悪い。数歩もいかないうちにどっと襲い掛かられた。
孔明はばたばた羽扇を振り回す。三国無双というゲームだったらビームとかいうものが放たれて馬超はとっくに吹っ飛んでいるところだが、あいにくこの羽扇からはそんなもの出ない。
「逃げるな。こら、いいかげん抵抗するなっ!」
「冗談じゃ有りませんよガンジーじゃあるまいし。窮鼠は猫を噛むし、ライオンに襲われた鹿だってライオンを蹴り飛ばして逃げることがごく稀ではあってもあるというのに、わたしだけ抵抗しちゃいけないという道理があるものですかいえありませんよっ」
軍略家の弁舌というものは多彩である。わかりやすく尚且つ具体的なたとえ話を駆使し、反語まで使う。
しかし、言葉というものは無力な一面をもつのだ。まことかなしいことだが。
絹を裂くような悲鳴があがって、燭台の灯が消えた。
寝台に組み敷かれてなお、軍師はまだ抗っているようだ。
が、ライオンを蹴り飛ばして逃げる鹿。皆無とはいわないがたいへん稀であることも、また非情の事実なのだった。