同性の情人の館で、男の血縁者とばったり出くわすというのは、なかなかに気まずい。
馬岱が馬超とおなじ屋敷に起居している以上、顔を合わせたとしても不思議ではないのだが、いつもまっすぐ馬超の部屋に行っていたせいか、これまで孔明はこの屋敷で彼を見かけたことはなかった。
悪いことに、もう日が高くなろうかという朝方である。
馬岱は、馬超のような男と自分が、夜の一室で夜っぴいて酒を飲んだり他愛ない話をしているだけなどとは思わないだろう。
事実、馬超の部屋で話などほとんどしたことはない。あるのは行為のみである…
ばつが悪いが、ここで顔を伏せて恥らったりしては侮られる。のちのちのために良くなかった。
寝起きにぞんざいに結った為、完璧とはほど遠い結い髪の頭を倣岸に上げ、孔明は笑ってみせた。
「わたくしはこれにていとましますが、貴殿の従兄殿はまだおやすみであられるゆえ、、あとでお起こししていただきたい…」
そのまま行き過ぎるつもりであったが、孔明はつ…と足をとめた。
「あの御仁の睡りは存外に深いと見受けるが…以前からそうなのだろうか?」
「それは軍師殿のほうに殺気がないからです。孟起は生の大半を戦場か、それに近い場所で呼吸してきた漢でありますれば、あなたさまに髪のひとすじほどの殺気があれば、即座に飛び起きましょう。――ためしに、腹でも殴りつけてみては如何ですか」
孔明は実行した。
ある夜更け、腹を殴るなどという手ぬるいことはせず、懐剣を抜いた。
白刃をふりかぶったときである。
褥に眠りこけていた筈の男のすがたは、もはや影もなかった。
いつ抜き放ったのか。のど元に硬く、冷たい刃の質感――
孔明の懐剣がおもちゃにみえる長剣が、のどのくぼみにひたりと押しつけられ。
研ぎ澄まされた刃の青白い凄みは、幾人…いや幾百の生命を吸ってきた為か。
孔明の肌がプツリと切れ、紅い筋がうかびあがった。
深闇に、無言の男の顔…
獣の目だ。
喜びも哀しみも。期待も悲嘆もない無機質な眸子。
馬超は軍師の細い喉もとに剣身を押し当てたまま、軍師の背後にまわった。獣が徘徊するような、剣呑な静けさのなか。
ひとひねりで、懐剣は床に落ちる。
背後から孔明の利き手をねじりあげたまま、馬超は軍師の首に唇をよせ、舌をだして血を吸った。
そして、嘲笑…
血を舌で舐めとられながら嘲われて、孔明の肌が粟立つ。
卒時、背筋を貫くように突き上げた情欲。
孔明の欲情を見抜いたごとく、手首を引き倒され、褥に押しつけられる。
裂くように割られる裾。
「……あ――――っ」
くつろげることなく押し入った雄の肉塊に、孔明はたかく鳴く。
痛みと、―――かつてないほどの、快感…
「…ぁあ…ん…っ」
ズッと音をたててぬかれた異物は、またゆっくりと奥まで打ちつけられる。
「ぁっ、あ…っ」
目を上げると、獣の顔。嘲笑っている…
孔明もまた、微笑んだ。
おさえられていた手首をするりと抜き、男の背にすべらせる。
「もっと。…もっと、突いて…」
甘い声でねだる軍師を見おろし、男は皮肉げに口端をあげる。
艶然と微笑みかえし、孔明はうっとりと目を閉じた。
閨で無防備な男になど用はないのだ。
欲しいのは―――
「あぁ、ん――は……!」
はげしく揺すりたてられて、軍師の思考は溶解した。
寝返りを打ったところ、固いものに額をおもいきりぶつけてしまった。
固いといっても壁などじゃなく、一抹のやわらかみのある固いものなのだ。
それは、同衾した男の、鍛え上げられた肩なのだった。
かなりの勢いでぶつかったのであるが、男がめざめる気配はない。
孔明は不審に思わずにいられない。
何故、この男はこんなにも、自分などの隣で無防備に寝られるのだろうかと。
自分があまりに非力なことを、見下しているのだろうか。
それとも。
自分がこの男を害することが絶対にないと、思っているのだろうか…。
…信頼している?このわたしを…?
この男を我が陣営に取り込むために、あらゆる策をめぐらせたわたしを…
こうして寝ているのさえ、天下に鳴り響く猛将であるこの男を、我が陣に捕らえておくための策かもしれぬというのに…
「宜しいのですか…そのように無防備でいて。
わたしは、…あなたがひどく嫌う、策略家…権謀術数を扱う軍師…なのに」
馬超の髪は、しっとりと細くしなやかな孔明の髪などとは質が異なる。
細いことにはかわりないが、ふわりととらえどころのない軽みをもっている。
孔明は、同衾者の額にかかる髪を丁寧に梳いた。
はたからみれば、愛撫と見えたかもしれない。
「…孔明?もう、朝か」
「…いいえ。夜明けには、いま少し」
男は、かんぜんに起きたわけではなかったのだろう。
そうかと呟くと、また寝入ってしまった。その際、孔明のことをおのが腕の中にしっかりと納めてしまった。
「…もう。動けないではないですか…」
こうされてみると、男の胸とは存外に広いものだ。広く、そして熱い。
孔明は目を閉じた。
目を閉じる以外なかった。
この体勢で、いま出来ることといったら、それしかなかったから。
明日になったら、なにか変わるかもしれない。
たとえば馬超が劉備を裏切るようなことがあったら、自分は躊躇なく彼を討つだろう。
しかし、いまは。眠ってしまおう…
それ以外、出来ることもないのだから……
難しい顔をして難しい書類を整理している軍師・諸葛孔明は、頭のなかでもたいへん難しいことを考えていた。治世のことや近い戦の軍略のことなどである。
と、ふとへんなことを思いついた。
…馬鹿という語も頓馬という語も、”馬”を含んでいる………
はっとした軍師は頭をふって、へんな思いつきを振り払った。
そんなことを考えているヒマは、まったくもってないのだった。
「聞いてくれ、孔明」
憤慨した、という調子で馬超が切り出した。
「馬に乗って市街を通っていたら、投げつけられたのだ」
馬超の大きな手のひらから、ころん、と転がりでたのは、おおぶりの蜜柑。
濃いだいだい色でつやつやしていて、まさに食べごろだ。
「ふうん…果物をね…」
孔明は柳のように流麗な曲線をえがいた眉の片方をひょいとあげ、指先で蜜柑を突っついた。
「投げたのは女性じゃありませんでしたか」
「よくわかったな。人波にまぎれて逃げる下裾が赤かった」
「…ふぅん」
「信じられん。武将にものを投げつけるなど、斬り殺されても文句はいえぬ行為だぞ?それをあえてするとは、劉備軍とは、それほど市民のうらみをかっていたのか」
馬超は心配そうに眉をよせた。
蜀の民に不安や不満がくすぶっているとすれば、その矢面に立つのは孔明ということになる。
無骨な男なりに心配しているのだが、孔明は鼻先で笑い捨てた。
「余計な心配ですよ、馬孟起。わが殿は無辜の民のうらみをかうようなかたではありません。原因はむしろ貴殿のほう…、どこぞで女性のうらみをかっているのではありませぬか?自重なされませ」
嫌味たっぷり慇懃に言い置いて孔明は席を立った。
女性が好いた男性にむかって果物を投げる、という男女の求愛の風習が実は漢人にはあるのだが、教えてやる気にならなかった。
「おい、孔明」
憤懣やるかたない馬超の声に呼び止められて、孔明はしぶしぶ振りかえった。
ぽん、といたってやる気なくなにげなく、馬超が孔明にくだんの蜜柑を放り投げてよこした。
「…」
「やる」
ぶらりと大きな体を揺らし孔明の脇を通って馬超が出て行ったあと、投果の他意はまったくないまま投げられたのだろう果物を手に持って、孔明は毒づいた。
「どうしろってんですか、こんなもの…」
そのとき諸葛孔明は絶対絶命だった。
彼は刺客に囲まれていた。前だけではなく横にも後ろにも武器をもったあやしの者がいる。
脇の下を汗がつたう。懐剣をにぎった手にも汗がにじんだ。
軍師を囲んでじりじりと間合いをつめていた刺客がいっせいに動いた。
孔明は半眼に目をほそめ、懐剣を鞘ばしらせた。
そのとき、馬のひずめが地を蹴る力強い地鳴りが響いた。まるでかみなりのようだった。
きらめく長剣。常人がつかうものよりよほど長い刃が空を切る。
孔明は息を吐いた。
「孔明。無事か」
またたきを数度するくらいの間に敵を打ち果たした武将の手が孔明の頬にふれた。
「ええ…」
弁舌家の孔明も、こうなるとなめらかに舌がうごかない。
「…孟起、どうお礼を申し上げたらいいのか…」
「ん?気にしなくていいぞ。か弱い婦女子を守るのが武人の務めだと、亡き父上はいつも言」
「…誰がか弱い婦女子ですかっ」
孔明は握ったままで使わずにすんでいた懐剣をふりあげた。