「肩が凝りました」
と、情人が言った。
証明するかのように、首を左右に折り曲げてため息を吐くのだが、その意は馬超にはさっぱり伝わらない。
「肩が・・・なんだと?」
「肩こりですよ・・・知らないのですか」
「知らぬ」
知らぬものは知らぬと偉そうに胸を張る情人に、知略三国に冠絶する軍師であるところの諸葛孔明は呆れたように肩をすくめる。
馬超は、この軍師を私邸へと拉致してきていた。
日が暮れたのを見計らって軍府に押し入り、強奪してきたのだ。
とくに意味は無い。
近ごろ、逢瀬を持っていない。それではいかん、と思ったのだった。
そして実際、馬超は肩こりというものを知らなかった。
知らないものは知らないのだから分かるように説明してくれれば良いものを、軍師はぷいと横を向いた。
旦那様、と控えめな家人の声がかかる。
酒とともにご馳走を運び入れてきたのだが、主人と客人の間のいささか不穏な空気を感じ取っての進言だった。
「長い時間同じ姿勢で机に向う文官様がよくなる症状ですよ・・・肩や首が張って痛んだり違和感があったりするのです。病とは申しませんが、ひどい肩こりは辛いものです」
「ほう」
ひそひそと耳にささやきかけられる言葉に馬超は目を見張る。
文官によくある症状だと聞いて納得した。
「なるほど、分かった。文官と親しくなる機会がこれまでなかったので、知らなかったのだ」
馬超の生家は武門の家である上、土地柄、文官というものは少なかった。
同時に可笑しく、馬超は朗らかに笑った。
「よくもこの俺が、文官の親玉、といったようなお前と、親しくなったものだ」
「親しくした覚えは、ありませんが」
空気がぴきりと凍りつく。
馬超は笑みを引き攣らせたが、孔明はしれりと横を向いている。
家人は亀のように首をすくめ、けして目を上げぬようにしずしずと皿やら酒瓶やらを卓に並べて、すみやかに退室していった。
孔明の機嫌が悪いのには訳がある。
「あとで馬良に、肩を揉んでもらう約束だったのに――」
卓につき、きれいに並べられた料理をつつきながら、陰にこもった声で怨じている。
肩こりの時には、他人に肩を揉んでもらうのがひどく気持ちよいということだった。
あれか、と馬超は見当をつける。
武術の鍛錬で筋を痛めたときなどに、人にほぐしてもらうのが心地よいのと同じか。
馬超は他人に触れらるのが嫌いなので、自身にさせたことはないが、それならば見たこともあるし理解できる。
なんでも馬良は肩揉みの上手い男で、その妙手はすでに達人の領域らしい。
あれがな、と馬超は馬良の顔を思い浮かべる。
すこし面長の、わりと端正な顔立ちの男である。見るからに温和で理知的でもあるのだが、どうしたことか眉が白く、それが才気あふるる顔に一種おかしみを加えていて、なかなか好感の持たれる顔だ。
馬良は荊州の統治の補佐を受け持っており、ここ益州にはしばしば来ているものの、やはり持ち場は荊州の方で、だからさいきん職務の忙しいせいで肩こりがはなはだしい孔明でも、肩をもんでくれとは言いがたい。
そこを曲げて頼んでようやく得た約束を、突然あらわれた馬超にだいなしにされた、というわけなのだ。その恨みは肩の重さの分だけ深い。
馬超は肩をすくめた。
「――知らなかったのだ、仕方あるまい」
「・・・・」
じと目でねめつけられて、だん、と酒杯を置く。
「だいたいな、他の男に肩など触らせるな」
「では、あなたが肩を揉んでくれるとでも?」
皿に残っていた蒸した鶏をぼそぼそと咀嚼した孔明が箸を置き、じろりと目を向けてくる。
切るような眼差しに、馬超は口ごもった。
「俺に、肩を揉めと――・・・!?」
「いいえ。あなたが私の肩こりを解消できるなぞ、これっぽっちも思っていません。ええ、毛の先ほどの期待もしておりませんとも」
「うぬ」
怨念と負の断定に満ち溢れた視線に馬超は激昂した。
「よくも言うたな」
「言いましたとも。事実でありましょう」
「あ、あの」
将と軍師のやり取りに分け入ったのは、皿を下げにきた家人である。
「・・・味は、お気に召されたでしょうか」
この状況で料理の出来を聞くとはいっそ見上げた度胸である、と怒りを忘れて馬超は感心し、軍師もすこしは怨嗟を潜めた。
「ええ。良い味でした。腕の良い料理人に気の効く給仕と、まことよい家人が揃っておられる・・・馬将軍には勿体ないことと感服いたしました」
事実として料理の味は良かった。滋養に優れた食材を薄味で調理したところなぞ、まさしく孔明の好みに叶っている。
酒も涼やかな飲み口の上物であった・・・というところまで考えて初めて、馬超が自分を饗応するためにとくに命じてあつらえさせたのであろうか、と孔明は気づいた。
とすれば、この倣岸な男にして、最大限の気づかいである。
「酒も料理も、私のために・・・?」
つぶやくと、今度は馬超の方が憤懣やるかたない、という様子でふんと横を向く。
そういえば久々の逢瀬である・・・ということも、孔明はようやく思い至った。
すこし雰囲気が良くなったところで、空いた皿を片付け終えた家人が、頭を下げた。
「旦那様、軍師様、湯殿の仕度が整っておりますれば、どうぞ湯を召されませ」
「―――」
馬超は無意識に顔をしかめる。
風呂は好きではないのである。
というか、ぬるい湯に浸かって喜ぶのは軟弱な漢人の風習として蔑んでいた。剽悍な羌人は潔く、清水で沐浴するのだ。
俺は要らん、と言いかけて所、いつの間にか背の後ろに回っていた家人がひそやかにささやいた。
「温浴は肩こりに効きまする。軍師様のご機嫌麗しくあい変わられますことに相違ありませぬ」
「・・・・・・・」
湯、と聞いてはやくも頬をゆるませる情人をみやって、馬超は腕を組んだ。
「・・・何故、一緒に入るのです」
もうもうと上がる湯気の中で向けられたうろんげな眼差しに、馬超は不機嫌に声を荒げた。
「知るものか。一人ずつでは熱い湯がもったいない、二人で入るのが宜しゅう御座います、と言うのだから、仕方あるまい」
もう知るか、という気分だった。
久方ぶりの逢瀬というに孔明の機嫌は悪いときては、用意させたとびきりの酒も美味くは感じなかった。それも肩が凝ったとかいうわけの分からん理由である。色気もへったくれもない。
完全に不貞腐れた馬超は、しぶきを蹴立てて先に湯船に入った。
湯殿全体をに溢れる熱気がまた疎ましい。熱い湯など好きではないのだ。湯気で髪が張り付くのがなおさらに不快であり、馬超は眉間に皺を寄せた。
おまけに、
「・・・なんだ、これは」
風呂には、ぷかぷか白い物体が浮いていた。筋が通っているところは樹の葉っぱに似ているが、色は真っ白だ。
「花びら?」
しずしずと湯にはいってきて「あぁ・・・この為に生きてる」と深い深い息を吐いていた孔明も、それに気づいて指を伸ばす。花びらだけではなく、花そのものも浮いていた。
「薔薇・・・ですか。白い薔薇ばかりとはまた風流な」
「なんだと?」
「薔薇を知らないのですか?」
まさか、とかなりの驚きを含んだ眼差しに、馬超の不機嫌はとどまるところなく増大する。
「もういい」
この不愉快きわまりない空間から出ようと身体を起こしかけたとき、すい、と情人が近寄ってきた。
「この樹は南方のものですから、知らないのも道理かもしれません」
やさしげな口調に、つい馬超は問い返した。
「樹に咲く花なのか」
「ええ。棘のある細い枝を茂らせる木です。花は蕾のうちに摘んで干したものを茶に入れますし、実も食用になりますから、有用な植物ではありますが、それにも増して花の美しさと香りが抜きん出ています」
ついと花卉を指で摘み上げた孔明は、香りを試さんと花に顔を寄せた。花びらが多く重なる白い花だ。潔癖な白さがなにかに似ている、と思った次の瞬間に馬超はつぶやいた。
「おまえに似た花だ」
え?と振り返るのを、引き寄せた。
湯の中であるせいか、それほど力を込めずとも痩身はゆらりと揺らいで、腕の中におさまる。
と、同時に花香が漂った。
たとえば桂花のように風に乗る薫りではない、よほど近くで嗅がなくては分からぬひそかな、それでいて涼しくも甘やかな匂いである。
馬超の口が笑みを刷いた。
「香までおまえに似ている。木には棘があると言ったな。ますますそっくりだ」
「言ってくれますね・・・」
優婉な眉を引き攣らせるのを笑って、抱き寄せる。
情人の邸に連れ込まれてなお肩こりだ何だと仏頂面を炸裂させる色気のない堅物だが、当人の容姿はまことにうるわしい。
湯にあたためられて上気した肌膚の、さながら花びらのようにやわらかげな優しさは、可愛げの無い性格を補ってあまりある。
黒い髪は湿り気を含んでしっとりと重たげで、触れれば指に絡みついた。髪からはかすかな墨香とともに、孔明自身が焚きつけた香のくゆりもほのかに漂っている。
馬超は武器をふるう以外の瑣末時にはほとんど使われぬ指先で、黒々とした髪を梳き、漂ってきた花びらを黒髪にまつろわせて愉しんだ。
「おまえに、似合う――」
髪に口付けたところまでは、覚えている。それ以降、馬超の意識は途切れた。
目を覚ますと己の寝台で、繊麗な容貌が覗き込んでいた。
「・・・気がつきましたか」
「俺は、――なにがあった?」
意味ありげな流し目で此の方を伺っていた眼差しが急に笑みを含み、軍師はぷっと吹き出した。
「のぼせたのですよ、あなたは。あまり熱い湯に入ることは無いんですって?」
「のぼせ・・・」
湯に浸かる習慣のない馬超には、むろんのぼせた経験も無い。
よく分からぬが、ともかく風呂で意識が遠のいたことは確かなのだろう。
「おまえが、運んだのか――?」
「まさか。あなたが自分で歩きましたよ。熱い、暑いと真っ赤になってわめきながらそれでも夜着をきちんと着たところは、さすがに育ちが良いと感心しました」
孔明はくすくす笑っている。
「機嫌が、なおったのか」
「え?・・・ええ、まあ。美味しい料理と酒と、花を浮かべた風呂まで馳走になって、仏頂面はしていられません」
苦笑する顔も、うなじで纏められた湿り気を帯びた髪も、美しい。
きしりときしみを鳴らして、寝台の端に孔明が腰掛けた。
「このままぐっすり安眠できれば、最高なのですけど―――」
「そんなわけにはいくか」
馬超は腕を伸ばし、細身をぐいと引き寄せた。平衡をうしなってなだれ落ちてくる肢体を受け止め、体躯を入れ替えて寝台に押し付ける。
「目を覚ます前に、さっさと寝てしまうのでした」
「俺の寝顔に見惚れていたか」
「・・・!」
さもおかしいことを言われたというように孔明が笑い出す。屈託なく笑っているのを組み敷いて馬超は口角を上げた。
「客間に逃げ込んで眠ってといたしても、目が覚めた瞬間に襲いに行っておっただろうな。湯殿にいるおまえはうつくしかった―――俺はもう熱い湯などご免だがな」
「花を――ありがとうございます」
「家の者に言え。俺が命じたわけではない」
「そうですね・・・」
組み敷いた身体の、首の付け根に口づけた。
湯と、花の匂いがする。
「馬超殿・・・」
「うん?」
喉のくぼみを舐めてから、馬超は顔を上げた。
「寝顔に見惚れてたんじゃないですよ。尊大で偉そうなあなたが、赤い顔でうんうん唸っているのが可笑しかったのです」
「この―――」
あまりな物言いに、歯噛みした馬超はぐいと夜着の胸もとを広げた。
「安眠が遠くなったぞ、孔明」
くすりと笑った孔明が腕を伸ばしてくる。
「嘘です。心配で見ていたのです・・・優しくしてください、馬超殿」
細腕に頭部を囲まれて、花の香りに包まれた。
薔薇風呂です・・・ええ薔薇風呂ですとも。耽美?なにそれ食べたら美味しいですか。
なんで薔薇風呂で肩こりかな・・・なんでそこでのぼせるかな・・・
「孔明!」
年下の恋人が、飛び込んできた。
「人前では軍師と呼びなさい」
というと、はっとしたように目を見開いて、「・・・軍師殿」と意外に端正な拱手をしたあと、首をかしげた。腑に落ちない、というように。
「誰もいないのだが」
「予行練習ですよ」
「?」と書いた顔。孔明はかたりと筆を置いた。
「なんの用でしょう」
馬超はふっと、真顔になった。
「風が変わったな」
孔明は目を伏せる。振り向くと、そこは壁だった。蜀の脳である丞相府の執務の室には、機密を守るため窓がない。もとのように目線を戻すと、馬超も壁を見ていた。
「風が変わった。空の位置も違う」
「空が高くなったということですか」
「色も違う」
じんましんが出るくらい苦手だというカビ臭い書物の匂いが立ち込める丞相府に、彼はこうしてやってくる。
ひどく些細な事象を、伝えるために。
「天帝の座が動きますか」
「なに?」
「天の座が、朱雀から、白虎に移りましたか」
「・・・謎掛けなのか」
「季節が移ることを別の言い方で言っただけです。この場合は、夏から、秋へ」
「ほう?」
よく分からぬと言いたげな長身を手招くと、分からないという顔をしたまま彼は素直に身をかがめ、孔明はその髪に手を伸ばす。黄沙の色をした髪は、硬そうに見えて実はやわらかい。
「白虎は西方の棲む風の神。獰猛で気高く、孤独な獣です」
髪を弄られて一瞬驚いた顔をした馬超は、目を閉じてなすがままにまかせている。
目尻が鋭くて荒削りな顔立ちは、男らしくて精悍で、でも目を閉じるとほんのちょっとだけ幼い。
「孟起。この書簡を書き終えたら、すこし休息したいと思います。風を、見に行きましょうか」
馬超が目を開けた。ひどく嬉しそうに口端を上げ、孔明の唇の横に口づけた。
「馬を用意してくる!待っておれ!」
といって、止める間もなく飛び出していく。
孔明はちょっと目を見開いた。
(庭を散歩、というくらいに思っていたのですが)
馬となると。どこまで行くことになるのやら・・・
筆を取り、書簡の続きを記しだす。
しばらく、青い空を見ていない。
流れる雲、吹き抜ける風、色変わる空、移ろう季節・・・
私はそろそろ、彼にありがとうと言ったほうがいいのだろうか。
礼を言ったら、彼はきょとんとした顔をするような気がして、孔明は薄く微笑んだ。
「俺は、おまえのつめたい表情がすきではないな」
「へえ。そうですか」
「かといってわらった顔も、どうだかな。わらおうとしてわらっている冷笑など、見たくもない」
「見なければよいでしょう」
「分かった、見ない」
と言って、顔を近づけた。何をするいまは仕事中だこの慮外者などという罵言を聞きながら強引に引き寄せて口づける。
「怒った顔は、まあ、好きだな」
「・・・・あなた、」
「なんだ」
「・・・無遠慮にひとの領域を侵すのはやめなさい。わたしのなにを知っているというのです」
「殆どなにも知らないな。だが、おまえが冷たい表情を浮かべたくて浮かべているのではないことは知っているぞ。無表情も冷笑も、おまえの本質ではあるまい」
彼はすこし笑った。見事な冷笑だった。
「わたしの本質が、あなたに分かるとでも?」
俺はすこし黙って、「いいや。分からないな」と答える。
「分かるわけないでしょうね」と勝ち誇ったように彼が言う。
本当は、分かる、と答えようかとおもった。
閨で、夜ときどき、不安そうに人肌を求める。
夢の中で、なにかに怯えてすり寄ってくる。
意識のないときのおまえは、俺にすがってくることもあるものを。
多分、俺は不機嫌な顔になっている。睨みつけているように見えたのかもしれない。笑んでいた彼はふといぶかしげな表情をし、此の方を伺うように黙り込む。
仏頂面のまま、俺はおもむろに手の平で彼の口を押さえて拘束し、足で扉を蹴り開けて外に出、口笛で馬を呼んだ。
あっけに取られていたらしい彼が我に返って暴れ始めたが問答無用で馬上に引きずり上げる。
この国でもっとも多忙な軍師を拉致する先は決めていないが、どこに行こうが、思う様なじられるだろう。
それでもいいと、思うのだ。
うすぐらい執務の室でうすらわらっているよりは。
空の下で怒っているほうが、まだいいと、思うのだ。
諸葛孔明が立っている。
新春の香気を一身に集めたような、匂やかな立ち姿なのだった。
扉を開けて飛び込んだ馬超は一目見て、ぽかんと口を開けた。
「―――、・・・・やけに、めかしこんでいるな?」
昼下がりの執務室でのことだ。
執務室に入るときは声を掛けてからにして下さいとか、扉を足で開けてはいけませんとか、顔を合わせたらまず挨拶をしてから用件を切り出すのが作法であるとか(その日もう既に会っているのだったら会釈でもよいけれど、しかし目上の人ならばそういう場合であってもきちんと拱手をすること)などなど、いつもならば出会い頭にお説教の涼風が吹き通るのだが、この日の軍師は、黒すぎるほど黒い双眸をすこし細めただけだった。
「この袍ですか。蜀錦の官工場の職人長が、私にと献上してきました。試作品で、まだ市場には出回ってない貴重なものです」
綾の織物は重厚にして潔癖な白、裾の端には目立たないふうに、精緻な刺繍で白梅を描き出している。
花の文様なんて普段は手に取らないが、季節柄にいかにもふさわしく思い、袖を通す気になったのだ。
腕を上げて袖を揺らすたび、歩を進めて裾をさばくたび、真新しい絹が凛としなうのが心地よい。
「・・・織り方に、新しい方法を取り入れたようですね。横糸の間隔をこれまでより狭めたので、その分重々しく仕上がるとか。どっしりした生地なもので、白の無地ではいかめしいから刺繍を入れて仕上げたと言っておりました。私も良い出来映えとは思いましたが、貴方に誉めていただけるのは・・・嬉しいです」
軍師の微笑は午後の日差しよりも清冽である。馬超は驚きの表情は引っ込めたが、苦々しげに口を歪め、
「誉めたわけでは――ないのだが」
気まずげに目を逸らしてしまった。分かりやすい反応に、孔明はゆるく苦笑する。
「誉めたのではありませんでしたか。・・・貴方のお気に召さなかったのならば、残念ですね」
「いや――気に入らないというわけではない。・・・よく、似合う、とは思うのだが――」
らしくなく言葉を濁してしまう馬超に、軍師はちらりと視線を送った。
なにが、気に入らない?
執務室にはいってきた時は、普通だった。やけにめかしこんでいる、と言った時も、純粋に驚いているだけのようだった。
しかし、何をそんなに驚くことがある?
色・・・・却下。自分の着ている長袍はいつも白だ。
模様・・・・・多分、違う。
派手な色合いで見ておれないとか、品のない模様だというのなら分かるが、白地に梅の文様ではそんなことはない筈だ。
花模様といっても大々的に描かれているわけではなく、艶をおさえた銀糸を控えめに使った縫い取りなのだ。一見しては分からず、光が当たった時だけきらきら浮かび上がるという模様だ。近寄らなければ目に留まらず、ちょっと見たところはただの品のいい白袍に見える。
着方が間違っている・・・それもない。文官の長袍の着方がそもそも分かっているとは思えない。
似合っていない・・・・・いや。先ほど「似合う」と言った。もの凄く気まずそうに、だったが。嘘を言う人ではない。世辞とも無縁だ。
つまり彼は、似合うとは思っているのだ。
軍師はほそく息を吐く。
諸葛孔明に解けない謎など、ないものと思っていた。いいや、実はたくさんあるのだが、それでもこの難解さはどうだろう。
「教えてはいただけませんか」
「な、なにを」
「貴方の不機嫌の理由です。私には分からない」
「それは―――」
「・・・言いにくいですか。ならば無理には聞きません。―――茶でも煎れますか」
踵を返した孔明は、一歩も行かないうちに動きを止めた。
肩に、ぬくもりを感じる。武人らしい大きな手が、両肩に掴んでいた。
この人の体温は、とても高いと、もう何度も抱いた感慨をもう一度再確認する。高い体温だ。戸惑ってしまうほど、熱い手だ、と。
「その模様―――梅、というものだな?」
「・・・ええ。よく覚えていましたね」
「軍師が俺に教えたのだ。樹に羽扇をかざして、あれが梅というものだ、と」
「ええ。昨年の、・・時期はもう少し後でしたね。かなり咲いておりましたから。今年はまだ見ておりませんが、もうじき咲き始めでしょう」
「・・・咲いている」
「もう、ですか。それは早い・・・」
「枝の先に少し。馬を出そうとして、気付いた」
孔明は目を伏せて忍び笑った。
「・・・また、城の中庭を馬で横切ったのですか。それも花園を?庭師にいつか報復されなければよいのですが・・」
「馬が、立ち止まったのだ。俺はまったく気付かなかった。引いても動かぬから敵でもいるのかと思って辺りを見回すと、良い匂いがして、気付いた」
「馬がさきに気付いたと言うのですか」
「そうだ。俺は呆気に取られたが、ともかく貴殿に知らせたが良かろうと思い飛んできた。しかし、――このザマだ」
「もしかして馬は置き去りですか」
「あれは利口だから、城を出て勝手に走るなり厩舎に戻るなり、今頃好きにしているだろう。それにしてもたいした違いだった。俺は敵襲かと殺気だって辺りを睨みまわした。あれのほうが、よほど雅を心得ている。・・・それにだ、多分、まだ誰も気付いていないだろうから、教えてやろうと勇んでやってきてみれば、」
若い将は言いにくそうにしていたが、ぼそりと呟く。
「―――袍が、」
「梅の文様だった。先を越されたとでも思いましたか」
「違う。そんなことではない」
小さく笑った孔明は裾を払って振り向いた。絹がさらりと良い音をたてる。黒い眸と灰緑の眸が正面から向き合って、馬超は少しく慌てた。この軍師の黒眸は黒過ぎ、そして深すぎる。
「ではなぜ・・・機嫌を損ねたのですか」
「――――」
馬超は口ごもったが、頬骨をすこし赤らめて、ぶっきらぼうに吐き捨てる。
「お、俺はあの樹の花が軍師に似合うと、思ったのだ。だから、急いでやってきたのに。ほかの奴もそう思っていたというのが、・・・悔しいぞ。職人頭だと?着て欲しいと持って来ただと?それほど似合う衣を贈るとは、そいつは軍師のことが好きなのに決まっている」
「・・・・・」
今度は孔明が口ごもる。目をそらしてやおら調度品を数えたりしていたが、執務室の調度などもう嫌というほど熟知していた。卓に装飾された彫刻などを目で追う。
「・・・いいえ。そんなことはありません。何度か、公務で顔を合わせたことがあるだけですので」
「充分だろう。俺が軍師を好きになったのは、初対面から数えて3度目のときだ」
「・・・・・」
孔明は一瞬、真剣な顔で目を閉じた。
・・・3度目って、いつ?
初対面は覚えている。次は、ええ?廊下ですれ違ったのは数に入るのか。軍議の席で端と端に(孔明は軍師だから壇上にいたし、馬超は新参であるせいかいちばん後ろにいた)いたのは?
なまじ記憶力がすぐれているおかげで、次から次へと疑惑の場面が浮かんで消える。
しかし、思い出せない。彼がそう言い切るからには、よほど劇的な何かがあった筈だが。
諸葛孔明にも解けない謎が、また増えた。
なにか腹立たしく、なにか腹立たしくない。
「・・・馬超殿」
「うん?」
「・・・・・・梅を、観に行きますか。その積もりで来られたのでしょう」
「あ、ああ・・・」
外に出るために扉を開けた。とりあえず、回廊までは出る。風が冷たくてとても寒い。屋外への一歩を踏み出すのは勇気のいる選択だった。
馬超が、言いにくそうに言った。
「ぐ、軍師。今日は寒い。朝、地面が凍っていた」
「え、ええ・・・それがなにか」
「凍っていたのが溶けて、道が悪い」
「だから?」
「だから―――手を繋ぐか」
「・・・・・・・・・・・」
孔明は咄嗟に地面のほうを見た。馬超はもとより、空のあらぬほうに目をやっている。
二人はしばし無言で立ちすくんだ。
凛々とした日差しの中どこからか、咲き初めた梅香が漂った。
成都の朝は、すこし遅いのかもしれない。
東に、峻険な山があるからだ。
山並みの稜線が金色に縁どられることから、朝がはじまる。
陽が登るまえから、あたりはしらじらと薄明るい。
馬超の朝はそれなりに早い。
しらじらとなるまえから、たいてい目を覚ましている。
寝台で目を開けた。
朝は嫌いではないが、不思議ではある。
夜明けの気配は不思議だ。張りつめたものと、ぼんやりしたものが交じり合っている。
目が覚めるということもまた、すこし不思議だ。
まだ生きていることが、なんとなく不思議な気がする。
左側にぬくもりがあった。
これがここにあるときは、いつも、左側にある。
利き手の右は空けてある。窓と扉の位置からして、侵入者があるとしたら右からだ。剣も、右に置いてある。
ともかくも起きあがろうとして、起きにくいことに気付く。
うつ伏せ気味に横向きに寝た者が左の袖の大部分を敷きこんで、ぐっすり眠っている。
たぶん、少しの力ではどかないだろう。
そして、少し以上の力ではたやすくどけられるだろう。
「孔明」
返事はなかったが、あることを期待していたわけではなかった。
別に、目を覚まさせようとしたわけではない。
むしろ、何故呼んだのか分からない。
思えばこれも、不思議な存在ではある。
馬超はこれに触れることを、許されている。何故許されているのか分からない。
聞けば、答えが返ってくるのかもしれないが、聞きそびれたままだ。
実は、本人以外には聞いたことがある。蒼銀の鎧の黒髪の武将には、尋ねてみたのだ。
『あの人は、誰とでも寝るわけではないよな』
絶句、された。
『何故、俺と寝るのだろう』
腹に、拳を入れられた。微塵もカケラも容赦なく。大体、顔でなく腹だというところが既に容赦ない。
不思議だ。
考えているうちに夜が明けてきた。
同衾の相手はこの国でもっとも多忙な人物であるので、起こしたほうが良かろう。
「孔明」
起きる気配はない。
すこし身じろいだだけだ。
「孔明」
どうしたものかと考えたがよい考えは浮かばず、
「孔明。――俺は、もう行くぞ」
寝入っている身体の下から、敷き込まていた左袖を引き抜く――引き抜こうとしたが、果たせなかった。
骨の細い頤がゆっくりと息を吐く。濃い睫毛が震えて、まぶたが開く。
「・・もう、朝ですか」
呼んでも揺すっても起きない孔明は、馬超が寝台を離れようとすると、目を覚ます。
不思議だ。
ああ、もう朝だぞと答えてやりながら、馬超は思う。
餓鬼のころは、不思議なことが沢山あった。
長じるにつれ不思議は減ったが、その分、不思議の度合いが深い、ような気がする。