調練場から少しはなれた水場で、趙雲は顔と頭に水を浴びた。
水がそろそろ冷たい。空は高く、澄んでいる。
どこからか甘い匂いが薫ってきて、探すまでもなく井戸の向こう側に木犀の樹があるのが見つかった。
趙雲はぶるっと身体を震わせる。
「お疲れ様です」
背後から軽やかな声がして、ふわりと乾いた布が降ってくる。考えるより前に掴み取って振り返ると、予想に違わぬ美しい顔が微笑んでいた。
「お一人ですか?」
浮かんだ考えを振り切って、趙雲は渋面をつくってみせた。
「少し前までは。今は誰より頼りになる主騎と合流したから、危険はない」
「屁理屈だけはお得意ですね」
白皙の容貌が、わざとらしく顔をしかめてみせた。
「なんて言いようだ。手公のもとに参上しておったのだが、窓から貴兄が見えて、水場に向っておるくせに布一枚も持参しておらぬ。風邪を引いては気の毒と思い、わざわざ出向いてきたのに」
「布なら、持っておりますよ」
ふところにおさめたそれを取り出す。
「・・これ、すでに匂ってないか?」
「調練中に、汗を拭きましたから」
「悪いことを言わぬから、新しいほうを使うとよいぞ、趙子龍殿。貴兄ほどの男前ならば汗くさいのも魅力であろうが」
へらず口に肩をすくめたが、せっかくの好意であるし、どのみち布はもう濡れてしまっていたから、遠慮なく使うことにした。
つるべを落としてもう一杯水を汲み、顔をすすぐ。
「・・といいつつ、わたしは貴兄の汗の匂いは嫌いではない。汗だの埃だの泥だのにまみれていようと、貴兄は潔く強くて男らしい」
後ろ手に手を組んで飄々と立った彼が、そんなことを言い出した。
「・・・卑怯な方だ」
「誉めたのになんて言い草だ。わたしのどこが卑怯だって?」
「俺が濡れていて、あなたに触れない時に限って、そんなことを言い出されるところが」
「触りたいのか?城内だぞ」
「抱きしめて俺を感じさせたい。あなたが嫌いではないと云った俺の匂いをあなたに移して、あなたの匂いを俺に移したい」
目を見開いて一瞬動きを止めた彼が、くすくす笑い出す。
「おかしいな、主公に伺ったところ、趙子龍は真面目で穏やかで清廉で実に忍耐強く我慢のきく男だということだったのに。わたしの前で貴兄は時々まるで聞き分けのない駄々っ子のようだ」
「軍師殿」
一歩近寄ると、彼は一歩下がった。
片目をつむって、悪戯っぽく微笑んでみせる。
「駄目。先に身体を拭いてから。といってもそのあとも駄目だけど。今は真っ昼間でここは城内のそれも屋外でその上、わたしはまだ政務がたくさん残っているから。ほら、早く拭くといい。さっき水を浴びたあとぶるっと身体を震わせていただろう?頑健を誇るのはいいけど、粗末にするのはいただけない」
云われたとおり趙雲は髪を拭き、顔をぬぐった。
ひと雫も残らないように入念に水滴をぬぐいとって、面白そうにその様を見ている軍師に歩を進める。
「ひとつ、教えましょうか」
「なにを?」
軍師が目を輝かせる。好奇心がとくべつに強いのか知識欲が異常に旺盛なのか、知るということに関して、この軍師は貪欲である。
趙雲が声をひそめると、軍師も聞き耳を立てる。
「さっき、俺が身体を震わせた理由について」
「寒かったから、だろう?この季節、わたしならもう外での水浴びは遠慮したいな」
「寒かったではないのです」
「うん?」
軍師がきょとんとして、身を寄せてきた。趙雲はますます声を低めた。
「木犀が匂ってきて」
「・・・木犀。ああ、城内あちこちに咲いてるけど・・・それが?」
「何か、思い出しませんか?」
「え?」
しばらくいぶかしげに考えていた軍師は、何かを思いついたらしく、ぱっと顔を上げた。
「・・・・・・・―――――――!!」
見る見るうちに赤くなる。
「・・・まさか」
「ええ。思い出してしまいまして・・・・あなたとの夜のことを」
趙雲は抜け抜けと、言い放った。
趙雲とこの軍師は、恋人同士である。趙雲のほうから惚れこみ、大人げないほど攻めて攻めて攻め尽くして落とした。恋人同士であるから、閨なんか共にしたりもする。
閨を共にすると、ごにょごにょなんてこともしたりする。そこまでこぎつけるまでにはまた趙雲の涙ぐましい努力があったわけだが、それは割愛するにしろ、ごにょごにょする際に男同士であるのだからして、補助するものが必要である。
必ずぜったいに必要なわけではないが、そっち方面は奥手の軍師に傷も痛みも与えるわけにはいかないのだから、必要なのだ。
趙雲の場合それに香油をつかっており、べつに決めているわけではないが、荊州ではどこにでもある桂花(木犀)の匂いのを当初から使っている。
だから趙雲は木犀の香りをかぐと、すったもんだあったさいしょに閨から、少しは馴れてきた今日この頃の閨のことまでが走馬灯のように、脳裏をめぐってしまうわけだ。
耳まで赤くなった軍師の様子を見る限り、彼も思い至ったようである。
思い至るように誘導した趙雲は本懐を果たせて満足だったが、真っ昼間の野外で閨をほのめかされた潔癖な軍師は、恥ずかしさに卒倒しそうな顔つきをして固まっている。
「まだ、政務はしばらく終わらないのですね?」
趙雲が云うと、赤い顔のままでぎくしゃくとうなづく。
いとしい。
抱きしめてしまいたかったが、彼が言うように今は真昼間でここは城内しかも屋外である。
「俺も、まだ軍務がありますが」
一歩近づく。彼はもう避けたりはしなかったが、消え入らんばかりに恥らっている。
弁が立って強気な反面、こういう方面にはてんで初心なところも、惹かれてやまない部分ではある。
「終わったら、夜、伺っていいですか?」
夜、というところをさして協調したわけではないが、彼はまた一段と赤くなった。
返事を待たずして、趙雲は井戸の向こう側の樹木に向った。
小さな星に似た橙色の小花をたわわにつけた一枝を折り取って、彼に差し出す。
「・・・・・」
ためらいがちに白い手を差し伸べてくるのを、するりとかわし、淡い碧色の巾に包まれた結髪の、根元のところに挿した。
「・・・花が薫るたびに、あなたが俺を思い出すように」
趙雲は笑った。
美貌ではあっても、花の似合う可愛らしい顔立ちではないかと思っていた。それは間違いで、よく似合う。花に愛されているように。
「これでも不公平なくらいです。俺はいつもあなたのことを考えない時はないんですから」
真昼間でここは城内しかも屋外でその上、ふたりともこのあとも職務がある。
今はこれだけ、と趙雲は、花を挿した軍師の髪にかすめるだけの口づけを落とした。
真夜中にちかい時刻だった。
灯かりをともしていても照らす範囲は限られ、部屋のあちこちに、灯では追い払いきれない闇がわだかまっている。
ときおり、かたん、という音が闇を揺らした。
部屋は質素そのもので、家具も調度品も、実用本位で選ばれているのが一目で分かる簡素なものだ。
「――申し上げます」
印章に手を伸ばそうとした時、扉の外に控えめな気配が立った。
「趙将軍様が、ご帰還なされました。これより丞相府にお越しになるとのことでございます」
伸ばしかけた手が震えた。
権力の象徴である印章を、取り落とすわけにはいかない。孔明は伸ばした手を返し、胸の前で握り締めた。
「お通ししてください」
言ってから今度こそ印章を取り上げて、作り終わった書に押印する。
ああ、こんなに、簡単に。
印は権力の証である。署名が入り印が押された書簡は、蜀漢内において正式な命令書として通用する。
こんなに簡単に、軍令が出されていく。この指示によって、何人の兵が死んでいくことになるのだろう。
そして、どんなに有能で戦い慣れた将軍でも、丞相の命令に逆らえない。命令に従わなかった場合は軍令違反で罰せられ、悪くすると反逆罪となってしまう。
将軍自身が、これは危ないと、過去の経験や勘などから、危険である、と判断した場合であっても、孔明が渡した命令書にやれと書いてあれば、やるしかない。おそろしいことだ。人の命を握るということは。まして、・・・愛しい人の、命を・・・
具足がこすりあわされて鳴る低い金属音とともに、規則正しい足音が近づいて、扉がひらく。
「丞相」
扉を開けて、拱手する。いかほど強張った顔でやってくるかと思っていた。だが鋭く引き締まった精悍な容貌は、孔明の予想から大きく外れて、微笑んでいた。
「趙子龍、帰城つかまつった。こたびの戦ではさしたる戦功を上げること叶いませなんだが、成都への帰還叶い、丞相閣下のお顔をふたたび見ることができたのは幸甚に存じ――」
「・・・子龍・・!」
孔明は椅子からすべりおり、趙雲が皆までいわないうちにその身体に取りすがった。
「孔明。ちょっと待て」
趙雲は笑って、後ろ手に扉を閉めた。
溺れかけた猫のように必死にすがりつく痩身を一度ぎゅっと抱きしめてから、顎に手をかけて顔を上げさせようとする。かたくなに顔をそむけていたが、
「顔をみせてくれ」と、言われて少しだけ上げた。
「すこし痩せたか。また寝ておらぬし、食ってもおらんようだな。おまえは俺の言うことなどひとつも聞かぬ」
――なにを言っている?わたしが痩せた?そんなことはどうでもいい。どうして、責めない。どうして・・・・
孔明は内心で絶叫しながら無言で、ますますきつくしがみつく。指先ががたがた震えた。趙雲は今度は何も言わず、落ち着かせるように黒衣の背をなでていた。
「・・・無事に帰らぬかと思いました」
孔明がぼつりとつぶやいたのは、丞相府の執務室から移動し、私室に引き上げてからのことだ。城内であっても私室は寝台をそなえ、心きいた従者によって不自由なく整えられている。
窓をあけて風を通そうとしていた趙雲は、振り向いた。
黒衣を着た孔明は、強張った表情をしていた。それでいて心細そうな、泣きそうな。
おそらく苦悩しているだろう、錯乱せんばかりに、と陣中で思っていたが、予想は当たっていた。その予想のために趙雲は、報告ならば明朝でよかったのに関わらず、今夜のうちにやってきたのだ。
「無事に帰ってくれれば、何も望まない、と思っていた。責められても仕方ないと覚悟していた。でも、帰ってきたあなたは、笑っている。・・・なぜ?」
肩が震えている。重々しい織り方をした長袍。鎧よりも重そうに、肩に食い込んでいる。
考えもせずに趙雲は答えた。
「無事なのは、皆の助けがあったからだが、まあ、今回の俺の役目は無事であることに尽きるのだろうと、思ったのでな。無事であることに全力を傾けた。責められても仕方ない、とおまえは言うが、何をどう責めればいい?おまえは兵を思い、民を思い、蜀の国のためを思って全智をしぼって策を立てた。それのどこを責めればいい」
「・・・全力を尽くしたからそれで何もかもが許される、というほど、わたしの責務は軽くありません。子龍どの。わたしは・・・先陣のあなたを囮(おとり)につかったのに。少しでも間違えば、あなたの軍は全滅してもおかしくなかった。あなたには責める資格はじゅうぶんにあります。なぜこんな仕打ちを、と声を大にして、わたしを罵るといい」
「こんな仕打ち」
おかしな事を言われた、というように趙雲は笑った。そんな趙雲の様子のほうこそ、孔明にはおかしな事のように思える。
こたびの戦で孔明の出した策は、先鋒の趙雲がまず囮となって魏軍の主力部隊を引きつけ、手薄になった魏国の領土に蜀軍主力部隊が攻め入る、というものだった。むろん、もっとも危険なのは魏の大兵力に少数の部隊でぶつかる趙雲であったが、彼はよくその任務をまっとうしてくれた。
兵力の差があるので、「少しでも間違えば、あなたの軍は全滅してもおかしくなかった」という孔明の言葉は正しい。それは趙雲にもよくわかっていた。趙雲は兵力を失うことを徹底的に避け、一兵でも生きて帰すことだけを考えた。結果として、魏の主力軍と戦ったのしては、おどろくほど少ない損傷で撤兵し、成都に戻ってきた。
それで、戦に勝ったかというと、そうではなかった。かんじんの魏の領土に攻め込んだ蜀軍のほうが、敗北したのだ。
先帝である劉備が死に、それより先に関羽張飛が死に、そのあとには馬超黄忠も死んでいた。あとを継ぐべき大器の将軍が、育っていない。それに、やはり魏軍との兵力の差は圧倒的だった。
「蜀の国力をかけて戦ったいくさに敗北した。これはわたしの責です。その責は負わなければならないし、負うつもりです。でもわたしは――あなたが大切なのに。蜀の国を思えば、先陣を任せられるのはあなたしかいない。でも、・・・わたしはあなたを愛している。それなのにあなたを死地に送り込んだ。薄っぺらい、軍令書を1通出しただけで。心が・・・ちぎれそうです」
「俺を先陣に送り込んだ。それが”こんな仕打ち”なのか、孔明?」
血を吐くように叫んだ孔明に対し、趙雲は静かに聞いた。返答はなく、孔明は震える手で顔を覆った。
「困ったな・・・」
趙雲は、すこしも困っていない表情で腕を組んだ。その表情のままで、寝台にすわる黒衣のとなりに、腰かける。
「おまえは責めて欲しいのだろうがな・・・俺は、すこしも責める気にならん」
どうして、とつぶやく気力もない。孔明はただ悄然と首を振った。
こわかった。全知をしぼったといえど、万全な策ではなかった。魏との国力の差を考えれば、危うい賭けになるのは仕方ないが、責められて当然であるし、責めて欲しかった。だのに帰ってきた趙雲は、笑っていた――
「理由を聞かねばおまえは納得しないだろうから、言うがな・・・しかしこんなことは言うまでもないことだぞ、孔明」
がしゃりと具足を鳴らして寝台に腰掛けた趙雲は、とくに気負ったふうもなく言った。
「ひとつには、先陣で、敵の主力とぶつかる任務というのは、武人にとって誇りでこそあれ、こんな仕打ちをと怒る対象ではない。ふたつには、俺は蜀国の将であり、蜀に武人としての全てを預けている。蜀の命令で戦うのは、俺の誇りだ。だからそれが蜀のためになる軍務ならば、どのような軍令を受けようとも不満はない」
力説ではなく、どちらかというと軽い語り口だった。しかし言葉の持つ力強さが、闇を払拭するようだった。
「最後にみっつめは、・・・あまり大きな声では言えぬが、俺はおまえを愛している。だからおまえの策で動くのは嬉しいことだ。最も危ない軍務を与えられる己を、誇りに思う」
趙雲は立ち上がって、具足に手を掛けた。
胸をおおう大鎧をはずし、肩甲と手甲をはずして床に置く。最後に剣をはずして、寝台に立てかけ、崩れ落ちそうに嘆いている痩身の肩に手を置いた。
「孔明。忘れたのか。どこまでも一緒に戦っていく、と約束しただろう。先鋒を命じたからといって、俺におまえを責めよ、というのは、俺に対する侮辱だ。武人としても、同志としても。・・愛人としてもな」
さいごだけ趙雲は、すこし面映そうに言った。侮辱だ、と言ったときまでは凛々しく真顔でいたものを、いや、最後のところを言ったときも真顔でいたのだが、言い終わった途端、顔をしかめた。
「あぁ、なにを言わせる。いい年をして妻帯もしておらん男に、愛だのと、言わせるな」
趙雲の言葉は胸を打った。いいがたい感情に胸が熱くなる。希望は見えない。だけど向う先は見える。趙雲の苦笑が聞こえた。
「その長袍、鎧のように重く見える。孔明。剥いでもいいか」
孔明はうなづく。唇を噛んで、こくり、と、子供のように。
「抱いても、いいか?野営続きのなりだが」
孔明はしばらく眉を寄せていたが、それにもうなづいた。言葉が出てこない。やさしい、と思う。抱きしめて欲しいのだと口に出せないのだと分かっていて、こんなふうに言ってくれる。
声もなくひと筋涙を流した孔明を、趙雲は抱きしめて、口づけた。
「子龍殿、あまり私を甘やかすな」
「は?」
非常に顔の良い主騎が振り向いたので、孔明はちょっと目を逸らす。
「そこで驚かなくても。言ったとおりの意味なのだ。貴兄はずいぶん私を、甘やかすから」
ちゃぽんと、水が跳ねた。
孔明が足を動かすたびに波紋が生まれて、さざなみが立つ。
「俺のどこが――俺は、いつ軍師を甘やかしておりますか?」
孔明の方が絶句する。
「今まさに、甘やかされていると思うのだが・・・」
久しぶりに護衛に付いてもらった。
趙雲の本分は兵を率いて戦陣に立つ武将であるから、孔明の護衛をさせておくのが勿体なく、このところ共に公務をこなすことが減っていた。
馬に乗り連れ立って城外に出てみると、降り注ぐのは真夏の陽光、立ち込める暑気。
普段は執務室にこもりきりである孔明には耐え難い。
それでも口にも表情にも出さず、淡々と豪族との交渉事を済ませた。
まだ夕刻まで間があるので、帰ってもうひと仕事、と内心暑さにくらくらしながら云った。
にじんだ汗を見た趙雲が目を細め・・・少しだけ寄り道しましょうかと、連れてきてくれたのが、この川辺だったというわけだ。
山から流れ込むせせらぎは澄んで、涼しい風が吹き通る。
豪族と会った孔明は、衣冠を調えている。水辺に立って水面を撫でる風に当たるだけで充分に涼んでいたのだが、趙雲は馬から布を降ろしてさっさと孔明が座る場所を整えてくれた。
人の通りにくい場所であるのが、また良かった。
誰も見てないから良いでしょう、軍師、ときっぱりと言い切られて孔明は、沓を脱ぎ捨てる気になったのだ。
爪先を水に入れると、背に涼気が通り抜けていくようだった。瞬時に汗が引き、体に篭っていた熱が引いていく。普段あまり外に出ない孔明には、たいへんな贅沢だった。
「冷たい。ああ、気持ちいい・・・」
孔明が涼む間にも趙雲は馬に水を飲ませ、また竹筒をもって上流の浅瀬まで行き、綺麗で冷たい水を汲んできて渡してくれる。だけど孔明がどんなに勧めても、隣で一緒にくつろいではくれないのだ。
「なんというか、・・・理想的な主騎だなぁ、貴兄は」
「ええ?」
趙雲はまた、面食らったような顔をした。
「そこは、驚くところかな?」
孔明としては、大きな声ではいえないが、趙雲とは実はその、恋人同士であったりするものだから、ちょっとくらい共にくつろいでも良いのではないかな、と思ったりするわけだ。
「ああ・・・いえ。もしかして軍師、俺が隣に座らないのは、護衛の任務があるからだ、と思っておられますね?」
「違うのか。・・・では、まさか、その」
孔明は口ごもり、不安げに眉を寄せた。
「―――私の隣に来たくないから?」
孔明の様子に、趙雲が笑い出す。
「違いますよ。よくもそんなことを考え付かれるものだ。俺は恋人として、そんなに不安にさせておりますか」
ひとしきり笑って、笑みを含んだまま腕を組んだ。
「軍師は衣冠を付けておられる。似合うとは思いますが、暑そうだとも思います」
「うん。実のところ、とても暑いけど。それで?」
「傍に居るとその重そうな冠など脱がしてしまって、重ねた長袍を乱して、よからぬことをしたくなる。だから、一緒にくつろげないんです。守るべき人にこのように不埒な考えを持つとは―――実際、俺はとんでもない護衛かもしれません」
「――――」
聡明な軍師が身じろぐ。だけど足を水にひたしている状態では、大きく動けない。
趙雲は素早く身をかがめると、冠を留める紐が結ばれた孔明の喉を指でなぞり、声をひそめた。
「素足など、出させるんじゃなかったな。俺以外の者の目にふれたらと思うとたまらない。誰か人が来たら、斬ってしまいそうです」
「子龍殿・・」
これ以上聞いていられないという表情で、軍師が呼ばわる。
「も、・・もう、戻ろうかな」
あわてて素足を引き上げて、ぱたぱた水を振り落とた。
「御足を拭いて差し上げましょうか?」
「絶対、嫌だ。こんな場所で欲情などしたら、絶交してやる」
「それは困ります」
ばたばたと孔明が立ち上がる。しかし長袍というやつは裾が長い。焦った挙句沓に爪先を引っ掛けた孔明は悲鳴を上げてすっ転びかけ――待ってましたとばかりに腕を広げた趙雲に抱きとめられた。
趙雲は少なからずむっとした。
そこまで力を込めて否定しなくてもよいだろう。
「軍師は俺と恋人同士だと人に知れるのは、そんなにお嫌ですか」
「嫌だ!あなたと恋人同士だと知れるのも嫌だが、体格を考慮したら私が受けだということは一目瞭然じゃないか。そんなの、屈辱だ!」
「・・・ははあ」
ものすごく切羽詰った力説に、さすがの趙雲も鼻白む。
しかし聞き捨てならない部分があった。
「・・・軍師は、俺を受けるのが嫌なんですか?」
趙雲の声には、やや危険な響きがある。
「当たり前に嫌だっ!!」
「ふうん」
非常に、危険をはらんだ「ふうん」だった。
「・・・あ、いや」
一般的に穏健派だと思われている趙雲は実は過激な男だと、孔明は知っている。身をもって知っている。
このままでは、「ほんとに嫌かどうか、身体に聞いてみましょうか」なんていう展開にならないとも限らない。「なんならこの場で」とか言い出すかもしれない。
趙雲が一歩踏み出す。孔明は、後退すると見せかけて事実後退しかけたのだが、踏みとどまった。こうなれば先手必勝、攻めはすなわち守りである。孔明はがばっと一歩前に踏み出し、武人の首に抱きついた。
「・・・私は男だから、我が身に男を受け入れるのに内心忸怩たる思いがあるのは、否めぬ。だけど、――」
「だけど、なんですか」
軍師に抱きつかれたまま、武人は平坦に問う。
軍師は、息を吸った。そして吐いた。
「だけど、―――私は、あなたを拒んだことが、ないだろう?」
それで、判れ。
趙雲も息を吸った。そして吐いた。
「・・・判ってますよ、軍師」
反則技なんだか正攻法なんだかよく分からない戦法で、恋人同士は和解した。
視察から戻ってきた軍師は、なかなかにご機嫌うるわしかった。
あまり上機嫌なので、趙雲は穏やかに微笑んでイヤミを言った。
「軍師殿。俺に黙って出かけた視察は、さぞ愉しかったとみえますね」
「ん?ああ、そうなのだよ、子龍殿」
通じなかったイヤミは、乾いた風に吸い込まれて消える。軍師はふわりと微笑んだ。
まことに晴れやかな、晩秋の美しい青空のひろがる日のことだった。
「良いものを見せようか」
晴れやかな様子で立ち上がった軍師は、細い指を帯に伸ばし、なんと長袍を脱ぎはじめる。
「……軍師殿のストリップですか。それは確かに良い眼福ですが…」
半分は呆然、半分は唖然を誤魔化すための呟きは、しゅるりと袍を落とす音にまぎれて軍師将軍には届かない。
あくまで表層は鉄面皮、しかし穏やかどころではない内心の動揺を隠すため趙雲はむっつりと腕を組んだ。
この軍師の行動ときたらなんと突拍子もない。いつ誰が入ってくるか分からぬのに、何をするつもりか。
軍師の長袍は黒い。それはどうしても重厚な趣きを与える。
それがはらりとすべりおちた。
その下は、晴天―――
空色というのがふさわしいうららかな薄青の綾絹を軍師は纏っている。
「蜀錦の官工場で、初夏に採れた藍がいよいよ建ったとか。奇麗だろう?」
生の藍は初々しい染めが得られるが、いかんせん濃い青はえられない。そこで灰汁を足して発酵させるのだが、藍が熟成されて染めができる状態になることを藍が建つと云う。
「実は…」
趙雲が気がつくと、ほど近くに軍師がいた。
自身が着ているのより少し濃い色の、やはり青色の絹布を持って。まだ着物に縫製していない布地である。
「…青がとてもよく似合う人がいる、と言ったら、もう一反くれたのが――」
息がかかるくらい近くで、軍師が微笑む。意味ありげな上目遣いが、まこと艶麗かつ悪戯っぽい。趙雲は見かけあくまで端然と、内心のみで口をへの字に曲げた。
「俺には上等すぎますよ。こんななよなよした上品な絹。どうやって着たらいいか分からない」
孔明は布地をひらひらさせた。
「私的な外出着にでも仕立てればいいんじゃないか?あなたは顔がいいから似合うだろう。花街でもてるぞ、きっと」
この軍師はしばしば趙雲に対して、ひと言多い。
挑発されているのかとおもうほど。
花街で、のくだりが気に入らない趙雲は一瞬だけ顔をしかめ、すぐにしれりと言い返した。
「そうなると軍師とペアルックになるわけですね。仕立てあがったらお揃いで花街を歩きますか」
「ペアルッ―――」
破壊的な言葉に、軍師は絶句した。ざまあみろだと趙雲は溜飲をさげた。
どうもこの人といると、俺は大人げなくなるな…と内心で首をすくめていると、軍師は血相を変えて青い布を後ろに隠す。
「やめ。却下!んな恥ずかしい真似はできぬ。だいたいそんなことをして、私たちのただならぬ関係が知られたらなんとする」
「――おおげさな。たかが揃いの色の服を着てるくらいで」
「いいや。花街の女というのはえてして勘がいいものだ。バレるに決まっている!」
「別にいいじゃないですか。ほんとうに恋人同士なんですから」
「ほんとうに恋人同士だから嫌なんじゃないかっ!!」
...続く