離れることはそれなりにある。
趙雲は勇猛であるばかりか、関張の両雄には欠ける思慮深さや謙虚さをも持ち合わせていて、遠方での単独の軍務に就くことも、別動隊として行軍することも多い。
再会し、幕舎のなかで愛し合った。
口づけを交わし、離れている間に閉じてしまった奥処を丁寧に拓かれて、はやく欲しいと懇願しても与えられず丹念に奥まで解されて繋がった。
厚手の布でも朝の暁光は遮れない。
薄日が射しはじめる頃に孔明は目を開けた。
強い腕に、背後から抱かれている。彼はまだ眠りの中にいるようで、呼吸は静かで深い。
床の敷き物の上にふたりの衣服が脱ぎ捨ててある。
余裕が無くて、暗がりの中で互いに性急に脱がしあった。
移動用に裾を短く仕立ててある孔明の袍の上に、趙雲の武袍が重なっている。
衣装が、なんだか仲良く寄り添っているみたいだ。
小さく笑うと、背後から抱き締める腕に力がこもった。
「なにか、おかしなことでもありましたか?」
「あなたと再会できたことが、うれしいのです」
夜のうちに汲んでおいた水で洗顔し。
仲良く一夜を過ごしたらしい衣服たちを引き離して二人分に分け、互いに身につけていく。
「冠が見当たらないですが…全く覚えておりません。心当たりは?趙雲殿」
「あなたの冠…は、私が外しました。ええと、あ、ありました」
「私の髪留めも無いな。孔明殿、知りませんか?」
「それは私が外したのでしたね。褥に入ってから、でしたか」
孔明の冠は幕舎の入口に、趙雲の髪留めは簡易な寝床の布の中に転がっていて、それぞれ相手が探し出して手渡した。
「冠が見当たらないですが…全く覚えておりません。心当たりは?趙雲殿」
「あなたの冠…は、私が外しました。ええと、あ、ありました」
「私の髪留めも無いな。孔明殿、知りませんか?」
「それは私が外したのでしたね。褥に入ってから、でしたか」
孔明の冠は幕舎の入口に、趙雲の髪留めは簡易な寝床の布の中に転がっていて、それぞれ相手が探し出して手渡した。
「あ……あなたの匂いがします」
袍から、彼の匂いがする。まるで太陽のような。
「え、汗くさいですか」
「大丈夫ですよ」
そんなに心配そうな顔をしなくても。
そんなに心配そうな顔をしなくても。
たとえ汗の匂いがしていても、それはそれで、いとおしいことだろう。
「私の武袍は、いい匂いがします。あなたの香の匂いだ、孔明殿」
私たちが同じ幕舎から出てきても、注目する者なんていない。
だって同衾好きの陣営だから。
同衾大好きな劉備様に感謝である。
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*孔明女装。孫尚香が正史よりの悪役になってます
揚州の孫家から主君、劉備のもとへ嫁いできた孫夫人こと孫尚香に呼びつけられ、奥宮へとやってきた趙雲は、不機嫌だった。
揚州の孫家から主君、劉備のもとへ嫁いできた孫夫人こと孫尚香に呼びつけられ、奥宮へとやってきた趙雲は、不機嫌だった。
戦場では絶大な武威をまとい、蒼銀の鎧が戦場に姿を見せようものなら弱兵であれば逃げ出してしまうほどの威圧を放つが、平時は温和であると評されている。
そういう男が隠しもしない不機嫌な顔でやってきたので、奥宮に仕える女たちの顔は一様に引き攣った。目を伏せ無言で頭を垂れ、通りすぎる長身を見送る。
女傑と称される孫尚香は、趙雲の表情を目にすると内心では臆していたが、高い自尊心から表には出さずに、朗らかな声音で話し掛けた。
「よくきてくれたわ、趙雲」
「は」
あからさまな仏頂面とそっけないにも程がある趙雲の態度に、孫尚香は鼻にしわを寄せて無理やり笑った。
「男なら誰でも奥宮に呼ばれたら大喜びで、そわそわしながらやってくるっていうのに。すごいわね、これだけ女ばかりいる場所に何の関心も無いって顔、いっそ見事だわ。さすが趙子龍というべきかしら」
笑いながらの嫌味に応えはなく、ひややかな視線が寄越されるだけだった。
孫尚香は間違っても気の長い性質ではない。早くも切れた。
「なんなのよ、その態度!」
「貴女が、主公・・劉備様を、敬って接してくださったら、私もこのような態度を取ることはない」
「あなたたちは、みな同じことを言うのね」
「女人であるから、妻であるから、男を敬い、夫に従えと、申し上げているのではありません。貴女は貴女という一人と人として、劉備様という一人の人を敬って接して欲しいのです。劉備様は我らが主君でありかけがいのないお方であり、そうでなくとも、たとえ劉備様が乞食であろうとも、敬意の無い乱暴な態度で接していいというものではないということを、どうかお分かりいただきたい」
この際立って武勇のすぐれた姫は、けして弱きものに横暴に接する性質ではない。
むしろ弱きものを助け、強きに立ち向かう人だ。
ひどく遺憾なことは、現在の彼女が立ち向かっている強き者というのが夫である劉備であるという事だ。
なぜここまでこじれてしまったのか趙雲には理解できないが、劉備の忠実な臣下にとって、揚州の兵を引き連れて並べ侍女にまで武装させて威嚇するという孫尚香の劉備に対する傲慢なふるまいは、とうてい見過ごせるものでも許せるものではなかった。
「・・・分かってるわよ」
尚香の声に苦さが混じった。
趙雲は目を上げてようやく気付いたのだが、今日の尚香は武装束ではなかった。
鮮やかな紅の武装束を纏い、腰に細身の剣と弓を佩いているのが常の姿であるというのに。
真紅の地に花模様の銀刺繍がほどこされた、あでやかな着物を身につけている。
艶のある黒髪はいつもと同じように頭頂で一つにまとめて結い、馬の尾のように背で揺れているのだが、結いの元に赤い花飾りが挿してあるのが、くっきりと整った勝気な顔立ちに華やぎを添えている。
「なにか、云うことは?」
「は?」
「着飾っている女に、云うことは無いの?」
「殿に、言っていただいてください。私からはなにも」
「この―――朴念仁!!」
怒鳴られようと言う事などひとつもない。
「なぜ、私を呼ばれたのか。用がないのなら、退出します」
「わたしが呼んだんじゃないわよ」
尚香は横柄にあごをしゃくった。
はじめて気づいたが、奥には女人がたたずんでいた。
趙雲はあえて目を逸らし容貌を目に入れないようにしたが、背が高く、気品ある女性であるようだった。
尚香より年上であろうが、それだけではなく孫家の姫である尚香よりも高貴で近寄りがたいものがあるばかりか、どこか浮世離れした雰囲気もある。
いったいどこの深窓の姫君か。
考えて趙雲はうんざりとした。
つまるところ、見合いではないのか、これは?
「今日は、祭りなんでしょ。秋の収穫祭だっけ」
「はい」
それは本当だ。主人に身近に使える使用人と警護の兵、街を守る警備隊を除くすべての官吏も将兵も職務は休みとなっていた。
それもあって、奥宮などといういささかの興味も関心もない場所に呼び出されたことが趙雲の不機嫌を煽っていた。
大きな祭りだ。多忙極まりない趙雲の想い人も、職務を休むであろう。いや、休むべきだ。あの人はまったく働き過ぎだから。
連れ出したい。
街は飾り付けがされ、普段はない露店が並び、食べものも物品も、また芸や音曲をなりわいとする者も集まってくると聞く。
きっと興味を持ち、・・・喜ぶのではないか。
少々変装などしていただいて、雑踏にまぎれこめば目立つことはあるまい。
「・・・祭りに、行きたいと思います。もし将軍のほうのご都合にさしつかえがありませんでしたら、伴をお願いできないでしょうか」
流れる水のように静かで奥ゆかしい、この上なく耳に心地よく慕わしい聞き慣れた声音に、趙雲は一瞬すら迷うことなく返答した。
「承知しました」
「本日、ほとんどの将兵は休みだと聞いておりますが。大丈夫ですか」
「ええ。もちろんです」
こちらからお誘いしようと思っていたのだ。
公務であろうとも私事であろうとも、構わない。
声の方に視線を上げると、軍師と目が合った。
なぜか、女装をしている。
というか先程から孫尚香の奥に佇んでいたこの上もなく気品のある姫だとおもっていた人が、軍師だった。
趙雲は一瞬混乱した。
軍師との、見合い、なのか?
私と、軍師が?
孫尚香及びこの世に存在するあらゆる神だとか運命だとかに感謝しそうになったが、・・・いや、そんなうまい話があるわけが無いような気もする。
「・・・びっくりするくらい驚かないわね、趙子龍」
「驚いては、おりますが」
驚いたのは、驚いた。
女装されているということは、娶ってもいいということだろうか、と。
いやだが、そもそも、誰もこの場が見合いだとは言っていない。
「それでは、行ってまいります」
「ちょっ、・・・ほんとうにその姿で行くつもり?」
「約束は守ります」
「・・・分かった、わよ!私も守るわ。今後は劉備様のお部屋では武器は持たないし、侍女を武装させることもやめる」
「ありがとうございます。孫尚香様」
礼を取った軍師は趙雲の横までやってきてから振り返り、尚香に向かって再度の礼をした。
趙雲も退室のための軍礼をして、背を向けた。
「・・・・尚香様も仰っておられましたが、この姿を見ても驚かれないのですね。入室の時から見抜いておられたのでしょうか」
「いえ。お声を聞くまでは、まったく」
どこぞの姫だと思っていたので、見てもいなかった。
「どのような姿をされていようが、軍師殿は、軍師殿ですから。着ているものが何かなど、あまり気になりません」
「・・・あなたの豪胆さには、時々ほんとうに驚きます」
感慨深そうにため息を吐いた軍師から、ことのいきさつを聞いた。
尚香と押し問答になった末の帰結だと。女だから武装してはならぬというのか、いえ女だとか男だとか言うことではなく、では軍師が女の衣装を着てみれば?それで祭りに行ってくれば言う事を聞いてもいい、今後は劉備の室で武装はしないわ、と。
呉侯の妹君である孫尚香の衣装であるのだから元より豪華である上に、奥宮の女たちが寄ってたかって飾ったのだからその出来栄えは秀逸で、どこからみても高貴な婦女にしか見えない。
肌は玉のようにつややかに、切れ長の怜悧な双眸は目尻に刷いた薄紅色の顔料によってやわらかげなものになっている。唇にのせた紅がうるわしく、全体として優婉なことこの上なく、月に住む嫦娥とはこういうものかと人が見たら思うだろう。
このようにきらびやかに着飾って街を歩けば衆目を集めて仕方なかろうが、尚香との約束であれば華やか過ぎる花簪のひとつも外すわけにはいかない。
趙雲のほうは略式の武袍なのだから、少々釣り合わないか。お伴にしか見えないかもしれない。それは構わないし間違ってもいないのだが。
段差のあるところで軍師がふとつまずいた。女性の衣は裾がほっそりとしとやかであるので、すこし歩きづらいのだろう。
「軍師。お手をどうぞ、こちらへ」
しばしの沈黙のあとで差し出された手は、四六時中筆を持つために少々荒れている、まごうことなく軍師の手だった。
そういえば街に出たら軍師と呼ぶわけにはいかない。姓も名も字もまずいか。
女性の姿をした彼をいったい何と呼べばよいのだろうと悩みながら、勤勉さが如実にあらわれた手を取って、いつもの半分ほどの速度でゆったりと、趙雲は歩き出した。
朝は晴天だったのに、昼過ぎからは雨になった。はげしく降り、雷まで鳴っている。
調練を中止した彼は、私の執務室にやってきた。更衣はきちんとしているのに、髪が湿っているのが気になった。暑さがまだまだ残るゆえ風邪を引くなんてことはないだろうけれど。
「昼ごろに雨になると、申し上げましたのに」
洗い立ての布を差し出しても、受け取らない。
「…趙雲殿。髪が濡れておりますので、拭いたほうが」
私が言うと、彼の優艶な瞳が細まった。
乞うような眼差しに、私は一拍の間を置いてから、布で彼の頭部を包み込んだ。金や地位、そういうものを何も欲しがらない人なのだと聞くのに、彼はときどきこういうひどく些細なことを望む。
「あなたは、雨が好きでしょう、軍師殿」
「ええ、昔から」
幼いころから嫌いではなかったと思うが、隆中にいたときははっきり好きだった。雨の日には農を休んで、雨にけぶる風景を眺めて書を読むのが楽しみだった。
「以前とは別の意味で、雨が好きになりそうで、困っています」
もう長く前線の地にいるとは思えない艶のあるきれいな髪を、毛先から拭いていった。なるべくていねいに。
「どうして、ですか、軍師殿」
「分かっておられるでしょうに。趙雲殿」
広間で宴会がはじまっている気配がしている。
雨で調練が中止になったので、昼間から飲むことになったのだろう。
「私も、雨が好きになりそうで。困っています」
「困ることはないでしょうに」
好きだろうと嫌いだろうと雨は降るのだ。
「雨で調練がなくなれば、あなたの傍にいられますから。――将として、誉められたことではないのですが」
ほんとうに困ったというように、彼は苦笑している。
私もまた、ほんとうに困ったというように眉を下げた。
「私もです。雨で調練がなくなれば、あなたが来てくださいますから。―――軍師として褒められたことではありませんね」
部下である部隊長が高い熱を出していると聞いて、様子を見に行った。
病人は基本的に隔離される。人があつまる軍団で病を蔓延させないために。だというのに、人だかりができている。
開け放した出入り口付近にいた副官が、趙雲をみて拱手する。
「なにかあったのか」
頼りがいのある部隊長ではあるが、これほど見舞いが殺到するというのは奇妙だ。
にやりと思わせぶりな笑みを浮かべた副官が、目で室内を指した。
病人は、簡素な牀に寝かされている。熱に浮かされ赤らんだ顔、しかし苦しげというよりはひどくはにかんでいる。
桶の水に浅緑の草が浮かび、清涼な芳香を放っていた。
しろい手が水にしずみ、ひたした布をすくいあげてゆるく絞る。
それで病人の顔をかるくぬぐったあとで額に乗せる。静かでていねいな所作だった。
「いかがでしょうか」
声も静かでていねいであり、問われた病人――趙雲の隊の部隊長、戦ともなれば真っ先に敵の只中に切り込んでいく髭面の猛者が、顔を赤らめもじもじと恥ずかしそうに答えた。
「……すっとします。とてもきもちがいい」
「鎮静の効果がある薬草です。通常は火にくべて焚きますが、暑い時分でしたらこうして水に浸して使うのもよいかとおもいまして」
「なるほど。簡単だが、効果がありそうですな」
側にいた医官が、うなづいた。
「暑気あたりをやわらげるほか、皮膚の病を防ぐにも有用とおもいます。この季節でしたら容易に採取できますし」
「ご慧眼、さすがです。この夏はことさらに暑い。さっそく用いてみましょう」
「では、私はこれで。お大事になさいますように」
素衣に粗布の巾。簡素な出で立ちでありながらえもいわれぬ気品がただよう。兵舎の病室にやってきた新任の軍師に興味津々と取り巻いていた兵たちが、道を開けた。
静やかな白皙は、しかし趙雲をみとめて立ち止まり、というか、やや後ずさりし、目を伏せた。
「……趙将軍。お言いつけに背いてはおりません。兵に付き添ってもらいました」
このあいだ、ひとりで出歩くなときつく叱りつけたばかりであった趙雲は、軍師の態度に微妙な面持ちになりながらも、やはりひと言云わずにはおれなかった。
「病人を隔離するのは、病を広げないための措置です。主公の側近である軍師殿が、近寄ってはいけません。主公や軍師に病がうつったら取り返しがつかない」
きびしくもある正論に、取り巻く兵も含めてしんとなる。
「趙将軍、部隊長殿の熱は暑気あたりにて、うつる病ではありませんから」
取りなすように告げる医官の声に、静かな声が重なった。
「兵舎での病の扱い、看護や衛生のやりようを知っておき、良いように整えることもまた軍師の役目と心得えます。ですが、……主公のご信任厚い主騎であられる趙将軍がそう仰せでしたら、今後は気を付けます」
趙雲といっさい目を合わさず静かに言って礼を取り、趙雲からもっとも遠い通り方を慎重に選ぶように歩を進め、軍師は退室していった。護衛の兵がちらっと趙雲を見て、首をすくめて後を追う。
兵たちがこそこそとざわめいた。
「……え、もう来ねえってことか、軍師様」
「おれも熱を出したらあんなふうに看病していただけるのかっていう幻想を見たんだが」
「お薬を選んでもらって、汗を、こう、拭いてもらって」
「儚い幻想だった…」
「部隊長は果報者だ」
「そうだそうだ」
兵らに口々にいわれた病人は「まことに。そうおもう」と含羞を浮かべる。ひどく赤らんだ顔は熱によるものか、それとも別の情緒によるものか。
「………言い過ぎたか」
ぼつりとこぼれた言葉に、副官は肩をすくめた。
「間違ってはおらんでしょう。熱が出る流行り病は多い。主公やあの軍師殿のように代わりのおらぬ方は、近付かないに越したことはないです」
「主公はまだ頑丈であられるが。……あの方に、なにかあったら」
病室から離れて歩きながら言う将の口調があまりに真剣かつ深刻であったので、副官は将をちらっと見て、今度は首をすくめた。
「そうならぬよう、将軍がお守りすればよいのでは」
「守るとも。だけど、それは、それとして」
「なんです」
「私が熱を出しても、あの方に看病していただけそうにないな…」
副官は目を泳がせる。
「将軍が熱を出して寝込むこと自体、ないでしょう」
「そうだが、しかし」
暑気あたりになんて、なったことはないのだが。
……この先もならないとは限らないじゃないか。
*できてない趙孔
別動隊として行軍していた趙雲は、夜になって本隊と合流した。
湖のほとりに野営の支度を終えた頃には、既に夜更けになっていた。
せっかく水辺であるなら水浴をするかと、昼間に到着していた本隊の兵に声をかける。
水はどうか、危険なところはないか。
「澄んできれいな水です。昼に到着した我らも水浴びしましたが、危険はありませんでした。ただ―――」
「なにかあったのか」
「主公が、軍師殿になにかしきりに怒鳴っておられまして―――張飛将軍が、主公をなだめておられました」
「原因は?」
「お声までは聞こえませんで、分かりません。主公がなにかお叱りになったようで、軍師殿は、気落ちなさった様子に見えました」
「趙将軍!」
その時、軍師付きの護衛兵が血相をかえてやってきた。
「軍師様が、湖に入られました」
「こんな夜にか」
まったくあの人は、と目をすわらせた趙雲の前に膝をつく兵の顔色が悪い。
「水浴をなさると仰せなのですが、――衣を着たまま水に入られまして、ご様子が」
「ご様子が、なんだ?」
「‥‥まるで入水されるようで、その」
趙雲の周りで固唾をのんでいた兵たちが、一斉に口を開く。
「入水って。自死なされようとされてるってことか?」
「あの軍師殿が?」
「いや、ねえだろ」
「ねえな」
「朝餉の材料探してる、とかじゃねえのか」
「なんか実験をされてるとか」
月夜である。
水に入った軍師の姿が月光にぼぅっと浮かんでいる。
彼は胸の半ばまでを水に浸して、湖の中心に向かってゆっくりと歩いているようだった。ときおり、空を見上げる。白い衣を着たままである。
夜中の、山の中の、湖の中で、である。異様な光景ではあった。
「な、なにをなさっておられるのか」
「ほんとうに入水…」
「主公のお叱りを、苦にされておられるのか」
「お助けしたほうが」
行軍中は軍師は劉備本隊付きゆえ、軍師についている護衛兵も劉備の兵卒である。軍師の奇行に慣れていない彼らはいちようにうろたえていた。
入水自殺――あの軍師が。内心、鼻で笑った趙雲は衣を脱ぎ捨てて下履きになり、急ぐでもなく水に入った。
「………軍師」
声をかけると、ぱっと顔が上がった。
「趙将軍。合流されたとは聞いておりましたが、ご無事でなによりです」
声音は尋常のものだ。
「なにを、されておられる」
「水浴ですよ。護衛にも、そう言いました」
趙雲の表情を見た軍師が、首をかしげる。
「なぜこのような夜中に」
「人目につかないほうがよかろうと思いまして。主公も人に見せるなと仰せでしたし」
「…主公が?」
「ええ…話すと少々長くなりますが、聞きますか」
「聞きましょう」
手に持った手拭いをざぶりと水をつけ、濡れたそれで身体をぬぐって悠々と汗と汚れを落としながら、趙雲は軍師に問うた。
聞いたとしても絶対にろくな理由ではないなという確信があったが、聞かないわけにもいかなかったのだ。
聞いたとしても絶対にろくな理由ではないなという確信があったが、聞かないわけにもいかなかったのだ。
「昼間、この場所に到着した時、炎天下の行軍で汗だくだったのです。そこにきれいな水をたたえた湖があったものですから皆、大喜びで。ことに主公はお喜びになられ――いきなり衣を脱ぎ、『ひゃ~~っっほう』と雄叫びを上げて崖の上から湖に飛びこまれたのです」
「……主公……」
趙雲は目をすわらせる。
未知の湖に率先して飛び込んだだと。崖の上から…なんと危険なことを。主公、あとで説教だ。
「主公に続いて張飛殿が『あにじゃあぁぁ』と叫ばれ飛び込まれまして。その後も『劉備様ぁ』『ひゃあ~っほう』と兵卒らが次々と飛び込んでお祭り騒ぎになりかけたところ―――関羽殿が静かにざぶざぶと水に入られました。その雄々しくも威厳あふれるご様子に、兵卒らがはっと息を呑み―――関羽隊の皆さんが粛々と儀式のように厳かに入水されるよし、これは『ひゃっほう』派はもう時代遅れ、これからはざぶざぶ派の時代到来か……という空気が濃厚に流れましたところで、さて私も清らかな水で汗を流そうと衣を脱ぎかけたところ、泳いでおられた主公が、ぎょっと目をむかれて『待て、孔明!!お前は脱ぐな!!脱ぐな!!!脱ぐな!!よいか、脱ぐな!!!絶対に脱ぐな!!!』―――と5回も脱ぐなと怒鳴られまして。いささか啞然とした私が、『…何故でしょうか、主公』と問うたところ主公は『いや、なんかマズイだろ、いやなんか、おいまずいよな趙雲、いや趙雲は別動隊だった、よけいまずい』と錯乱気味になられ、張飛殿がみかねて『兄者、あの貧弱鶏ガラ野郎にも脱ぐ権利くらいあるだろ』と取りなしてくださったのですが。たいそう疎外感に打ちのめされました、私は…。武将の方々にくらべれば貧弱でしょうが、隠しておかなければいけないほどでしょうか。趙将軍は、どう思われます?主公は水から上がられたあと小声で『おまえは趙雲以外の者の前では脱ぐな、孔明』と仰せでしたが、趙雲殿、脱いでもよいでしょうか。衣を着て水に入ると重くて」
3秒ほど沈黙した趙雲は、
「兵卒が見ておりますので、脱がないでください、軍師」
と言った。