夕暮れから始まった夜間行軍訓練をつつがなく終わらせた趙雲は、武装を解き、ゆったりとした足取りで軍師の私室へ向かった。
諸葛亮は、板張の床に丸い毛糸編みを敷いた上に端座して、書を読んでいる。
諸葛亮は別の書を読みはじめる。
かすかな音を立てて髪の束が落下した。月光にも似た白いうなじに絹色のような黒い髪が落ちかかる様は、はっと息を呑むほど鮮烈な光景だった。
横顔は沈静に整っていて、静謐さをたたえている。
背を向けて長衣を脱ぎ捨てて単衣になり、簡単な寝支度を整えてみても反応がないので、仕方なく趙雲は手直にあった兵法書を紐解いた。
読み終えた竹簡を巻き終えて卓に積み上げると、諸葛亮はちいさく息をついた。
時に思うことだが、この人が書に目を落とす様は、好もしい。
何事にも真剣に取り組み、真摯にやり通す性分が、こんな時にも現れているようで。
書を読む横顔は、いつに増してきりりとしており、見惚れた諸葛亮は目を細めた。
・・おや・・
諸葛亮は膝で進み、武将の結いに指先を伸ばした。
軍装の時は金具でかたく留められているが、寝支度をしてきたのであろう、ゆるくまとめただけの結いは簡単にほどくことができた。
唐突に。なんの脈絡も前置きもなく。
驚きに諸葛亮は目を見張った。
解かれた髪をまさぐられ、ますます逃げ場のないような感覚にとらわれる。
「あ、・・」
とさりと床に押し倒されて、目を見張るうちに明かりが消された。
秘密にしてもらえますか、と頼むと、良いでしょう、見舞客が押しかけてもお困りでしょうから、という返答だった。
「孔明殿・・!」
お説教が身に染み入る。薬草を煎じる医師が笑いに肩を震わせている。もっと言うてやりなされ、将軍。
さあ、お休みに、と背を押されるようにされて、寝台へ。褥の中に押し込められる。
「ああ、暑い。身体の芯から熱い。なのに背筋はぞくぞくと寒いのだ」
「汗をお拭きいたしましょう」
「軍師。そろそろ戻られよ」
「風邪がうつったら、どうするのです」
えっと。
「もう、寝る。おまえらもう行け」
「ふふふ、新作の薬の効き目は抜群のようですね」
寝たんじゃない。おまえらが仲良しすぎて当てられたんだ。
しかし、身体が軽くなったのは確かだ。
お題配布元:Nameless様 http://blaze.ifdef.jp/
建安13年。長江・赤壁にて孫権・劉備の連合軍は曹操と対峙し、火計により撃破。
南屏山拝風台にて東南の風を祈祷したとされる軍師諸葛亮は、追っ手を逃れ、劉備軍に帰陣していた。
「孔明が、目覚めないのだ、趙雲」
主君に問われて、趙雲はその精悍な眉をひそめた。
「はぁ・・?」
精根が尽き果てたのか、軍師は昏睡のような深い眠りにおちていて、目覚めないのだという。
仮の陣地である。急ぎ、移動する必要があった。
「耳元でメシだぞ!!~って叫んだら、飛び起きるんじぇねえのか」
「無理だろ、お前じゃあるまいし」
張飛の提案を劉備があっさりと却下する。
「枕元に、軍師の好物でも置いたらどうか」
見事なひげをしごきながら関羽が提案する。劉備は手を打った。
「好物か。ふぅむ、良いかもなあ」
好物を置いたら目覚めるって、どこの幼児だ。趙雲は内心であきれた。しかしながら一方で、あの変わり者の軍師なら、そういうこともありそうだという気もする。
「孔明の好きなものか。ふぅむ、そうだなあ、本と、菓子と、・・・あっ、」
なぜか、劉備と張飛と関羽が、趙雲を振り返った。
「・・なんです、主公?」
そんな期待を篭めた目で見られても。戦場に、本や菓子なんて持ち込んでいるはずもない。
劉備に背を押されて、趙雲は、軍師の天幕へと押し込まれた。
軍師はうすぐらいなかに横たわっていた。
ぴくとも身じろがず、人形のように。
近寄って、膝をつき、のぞきこむ。
(・・痩せたな)
そっと、手を伸ばした。
頬に触れる。
「起きてください、軍師」
ひたいにも、触れた。こめかみにも。そしてもう一度、頬に。
「あいにく本も、菓子もありませんが。あなたを待っているものがおります」
ゆるやかにまぶたが震えた。
ゆっくりと、うるわしい黒眸があらわれる。
諸葛亮は、やわらかく微笑した。まるで花がほころぶように。もう人形にはみえない。
「・・・おはようございます、趙将軍。朝、目が覚めてさいしょに見るのがあなたの顔だなんて、なんてよい一日のはじまりなんでしょう」
趙雲は、ふっと息を吐いて、立ち上がり、冷静に突っ込んだ。
「いまは夜です、軍師」
天幕の外で劉備が腹を抱えて笑っていた。
「心配して損したぞ、孔明。元気じゃないか」
「目が覚めたなら、ようござった」
ゆったりと構える関羽。
「愛の力すげえ」「本と菓子に勝ったぞ将軍」
兵卒がさわぐ。
軍師が、幕舎から出てきた。うーんと伸びをしている。
「食事を」
「ひさしぶりに、聞きました、将軍のそのせりふ」
くすくすと軍師が微笑する。長江をふきぬける風より軽やかに。
惹きあうように近づいて。
こつん、と額同士が触れあった。
「おかえりなさい、軍師」
「ただいまもどりました、将軍」