昼間は光に照らされ人が行き交う場所が闇に沈むのは、毎日のことながらどこか非日常の感がある。
朧に霞んだ下弦の月の下、ひとり酒を汲む。
強い酒は、張飛に押し付けられた。手っ取り早く酔え、酔って忘れろということなのだろう。
劉備への誹謗を繰り返す豪族をひそかに斬った。人殺しが軍人の仕事とはいえ、暗殺のようなやりようはさすがに後味が悪い。
鬱屈した心境で呑むせいか杯を重ねても一向に酔いも眠気もやってこないまま、酒を詰めた甕は軽くなってゆく。
次で最後の一杯か。ゆらりと甕を揺らしたところで、きしきしと板張りの廊下が鳴る音がした。
「将軍」
「軍師?・・・どうされた」
「眠れませんか?」
「ということも、ないが」
間違っても繊細な性質ではない。寝ようと思えば、眠れるのだろう。
無言で、酒の甕を奪われた。飲みたいのかと思うが、そういう様子でもない。
甕を振って残りの量を確かめるそぶりをした彼は考えるように首をかしげ、なにか知らぬが再びちゃぷちゃぷと音が立つまで酒甕を振った。
酌をするように甕を差し向けてくるので、杯を差し出して受ける。
計ったようにちょうど一杯分注ぎきって、甕は空になった。
「呑み干されたら、床に就くのが宜しいでしょう」
彼が手に持って来て、今は床に置かれている小さな明かりが、彼の秀麗な容貌を浮かび上がらせていた。朱赤の炎が揺らめいて、白い貌が桜花のような色に染まって見える。
天には霞む半月。
陰鬱な酒だったはずが、春宵に月と花をめでる美酒に変わったようだった。
―――いや。違う。
実際に、味が違う。先ほどまでとは。
「なにを、入れた。軍師」
「それではこれで。良い夢を。趙将軍」
睨んで問いつめた途端に、趙雲が酒を含む様を頬杖をついてじぃっと見ていた軍師が、立ち上がって背を向けた。
夜風に揺れる白い裾と袖を見て、彼が夜着姿であることに気付く。
夜闇の中でひとり酒を汲む自分を案じ、わざわざ寝床から起き出してきたのだろうか。
空になった杯と甕とを残したまま趙雲は立ち上がり、すぐそこである自室に戻った。
着けていた簡素な武装を外して閨房に横たわる。頭を褥につけた途端、眠気に襲われ意識が落ちた。
目を開けるともう朝だった。
あれほど飲んだ酒はまるで残っておらず、妙にさっぱりとした目覚めである。
気分同様に天気まで上々。麗らかな暁光が降り注ぎ、爽やかな涼風が吹き抜ける朝だった。
井戸で水を汲んで洗顔し身支度を整えてから、思いついて、再び井戸でもう一人分の水を汲んだ。
「軍師」
清水を張った桶を手に押し掛けると、彼は眠そうにしながら、ごそごそと身を起こした。
「・・・将軍。如何されました。」
「一服盛って頂いた礼に参りました」
「どのような夢を、ご覧になりましたか」
夢?
そういえば、昨夜も「良い夢を」と言っていたか。
「春夢茸という茸なのです。春の夜の夢幻のように麗しい夢を見る上に目覚めも良く、たいそう滋養に優れたものとの効用書きにあったのですが。さて、その通りのものでしたか?」
「そのようなあやしげな茸を、俺に試されたのか」
趙雲は顔をしかめた。
その口ぶりでは、軍師自身は口にしておるまい。
「ご自身で試されたら如何か」
責める口調に、身支度を整える軍師の花びらのような色味の唇が微笑を含んだ。
「私は起きている間、夢をいつも描いておりますので。寝て夢を見る必要がないのです」
「それは、―――」
言い負かされたようで悔しいが。
確かに、まあ。
敗北を重ね逃亡を続ける弱小の軍の長である劉備のために、二州を治め一国を建てて北の曹軍に抗おうなどという夢物語を、一体誰が考えつくだろうか。
まして実行に移そうなどという者は。
彼しか、おるまい。
趙雲の汲んだ水で洗顔し、髪を結って衣装を整えた軍師は、身をひるがえして外に出た。扉の外にて、ゆっくりと振り返る。
「で、夢は見ましたか。効用書き通りのような?」
「確かめて、何とされるのです」
「特には、何も。気になっただけです。珍しいもののようですので、次はたやすく入手できないでしょうけど」
「・・・そうですね。夢は、見ましたが」
簡素な巾で包んだだけの髪、同じほどに簡素な、粗衣といってもよい白無地の長袍の袖に、春の風が戯れるように絡んで靡く。
夜の明かりに映えて濃艶な花のように見えた容貌が、朝日に照らされて静かに凪いでいる。その横顔を見ながら趙雲は考えた。
貴方の、夢を見た。
そう、事実を述べたら。
この顔は、どう変わるのだろうか、と。
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