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YoruHika 三国志女性向けサイト 諸葛孔明偏愛主義
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外へと一歩を踏み出すと雨に包まれた。今日は冠をつけていない。重い袍も着ていない。それだけで身は軽やかでどこにでも行けそうな気がした。
どこにでも――
ふふ、と喉もとに笑みがわだかまった。
どこにも行けようはずがないというのに。どこにゆくというのだろう。
髪にも顔にも雨滴が落ちかかる。
このまま。降りやまなければ。降って降って降って天地が崩れるほどに降り続けば。この世から争いはなくなるのだろうか。
臥した龍、と呼ばれていたことがあった。雲を得れば天に昇るのだと。
龍は天に昇ってなにをするのだろう。慈雨を降らせて人を生かす?
そう―――ひとを生かす龍になりたかった。だのに私はあまたの兵を死地におくりこむ。

目から雫がこぼれた。つぎからつぎへと、ぼろぼろと。のどから嗚咽が漏れる。

無慈悲な天にうつむいてぼろぼろと目から雫をこぼしていると、ふうわりと何かがかぶさった。慣れた匂い。そして気配。

「どこかに―――」
「うん?」
「どこかに、私が行ってしまいたいといえば。あなたはどうなさいますか」
「おまえが真に望むのならば、どこへなりと共にゆく」

慣れた気配に抱き締められた。慣れた匂い、体温。具足の硬さですら。
優しく強い抱擁を受ける。遠巻きにあった護衛の気配も今はない。雨降りしきる天と地のあわいにふたりだけ在るような都合の良い錯覚がした。

目を伏せるとまだ涙がはらはらとこぼれ落ちた。

「子龍。あなたがいなくなったら私はもう泣くことすらできないという気がします」

言い終わらないうちに、武将の肩衣にすっぽりと包みこまれて抱き上げられた。布に包まれたまま無骨で美しい肩の筋肉の上に顔を乗せ、一人分の重みなど苦にもならぬという確かな歩みに身をまかせて止まらない雫に濡れている目を閉じた。
昼間は光に照らされ人が行き交う場所が闇に沈むのは、毎日のことながらどこか非日常の感がある。
朧に霞んだ下弦の月の下、ひとり酒を汲む。
強い酒は、張飛に押し付けられた。手っ取り早く酔え、酔って忘れろということなのだろう。

劉備への誹謗を繰り返す豪族をひそかに斬った。人殺しが軍人の仕事とはいえ、暗殺のようなやりようはさすがに後味が悪い。

鬱屈した心境で呑むせいか杯を重ねても一向に酔いも眠気もやってこないまま、酒を詰めた甕は軽くなってゆく。
次で最後の一杯か。ゆらりと甕を揺らしたところで、きしきしと板張りの廊下が鳴る音がした。

「将軍」
「軍師?・・・どうされた」
「眠れませんか?」
「ということも、ないが」

間違っても繊細な性質ではない。寝ようと思えば、眠れるのだろう。

無言で、酒の甕を奪われた。飲みたいのかと思うが、そういう様子でもない。
甕を振って残りの量を確かめるそぶりをした彼は考えるように首をかしげ、なにか知らぬが再びちゃぷちゃぷと音が立つまで酒甕を振った。

酌をするように甕を差し向けてくるので、杯を差し出して受ける。
計ったようにちょうど一杯分注ぎきって、甕は空になった。

「呑み干されたら、床に就くのが宜しいでしょう」

彼が手に持って来て、今は床に置かれている小さな明かりが、彼の秀麗な容貌を浮かび上がらせていた。朱赤の炎が揺らめいて、白い貌が桜花のような色に染まって見える。
天には霞む半月。
陰鬱な酒だったはずが、春宵に月と花をめでる美酒に変わったようだった。

―――いや。違う。
実際に、味が違う。先ほどまでとは。

「なにを、入れた。軍師」

「それではこれで。良い夢を。趙将軍」

睨んで問いつめた途端に、趙雲が酒を含む様を頬杖をついてじぃっと見ていた軍師が、立ち上がって背を向けた。
夜風に揺れる白い裾と袖を見て、彼が夜着姿であることに気付く。
夜闇の中でひとり酒を汲む自分を案じ、わざわざ寝床から起き出してきたのだろうか。


空になった杯と甕とを残したまま趙雲は立ち上がり、すぐそこである自室に戻った。
着けていた簡素な武装を外して閨房に横たわる。頭を褥につけた途端、眠気に襲われ意識が落ちた。




目を開けるともう朝だった。
あれほど飲んだ酒はまるで残っておらず、妙にさっぱりとした目覚めである。
気分同様に天気まで上々。麗らかな暁光が降り注ぎ、爽やかな涼風が吹き抜ける朝だった。

井戸で水を汲んで洗顔し身支度を整えてから、思いついて、再び井戸でもう一人分の水を汲んだ。


「軍師」

清水を張った桶を手に押し掛けると、彼は眠そうにしながら、ごそごそと身を起こした。

「・・・将軍。如何されました。」
「一服盛って頂いた礼に参りました」
「どのような夢を、ご覧になりましたか」

夢?
そういえば、昨夜も「良い夢を」と言っていたか。

「春夢茸という茸なのです。春の夜の夢幻のように麗しい夢を見る上に目覚めも良く、たいそう滋養に優れたものとの効用書きにあったのですが。さて、その通りのものでしたか?」

「そのようなあやしげな茸を、俺に試されたのか」

趙雲は顔をしかめた。
その口ぶりでは、軍師自身は口にしておるまい。

「ご自身で試されたら如何か」

責める口調に、身支度を整える軍師の花びらのような色味の唇が微笑を含んだ。

「私は起きている間、夢をいつも描いておりますので。寝て夢を見る必要がないのです」

「それは、―――」

言い負かされたようで悔しいが。
確かに、まあ。

敗北を重ね逃亡を続ける弱小の軍の長である劉備のために、二州を治め一国を建てて北の曹軍に抗おうなどという夢物語を、一体誰が考えつくだろうか。
まして実行に移そうなどという者は。
彼しか、おるまい。



趙雲の汲んだ水で洗顔し、髪を結って衣装を整えた軍師は、身をひるがえして外に出た。扉の外にて、ゆっくりと振り返る。

「で、夢は見ましたか。効用書き通りのような?」
「確かめて、何とされるのです」
「特には、何も。気になっただけです。珍しいもののようですので、次はたやすく入手できないでしょうけど」

「・・・そうですね。夢は、見ましたが」

簡素な巾で包んだだけの髪、同じほどに簡素な、粗衣といってもよい白無地の長袍の袖に、春の風が戯れるように絡んで靡く。

夜の明かりに映えて濃艶な花のように見えた容貌が、朝日に照らされて静かに凪いでいる。その横顔を見ながら趙雲は考えた。


貴方の、夢を見た。


そう、事実を述べたら。
この顔は、どう変わるのだろうか、と。

*藍色趙孔


「猫が布団に入ってきたら、ああ冬になったなあと思いますね」
「そうそう。で、入ってこなくなったら、ああ春が来たなあと思う」
「違いない」

昼間、文官が話していた。猫を飼い慈しんでいる者同士の、ほのぼのとして他愛ない会話だった。





夜になって趙雲の寝室を訪れていた孔明は、昼間に聞いた話を思い出したので、語り聞かせた。

「という話を聞いたのですが」
「そうか」
「‥‥‥‥‥」
「‥‥‥‥?」

会話が途切れる。
孔明がその話を持ち出した意図が、趙雲には分らなかった。
この世に二つとあるまいと思われる叡智を宿した、宝珠のように黒い双眸がまじまじと己を見上げてくる意味も。

明日以降の予定とか、そういう事を話していた。
趙雲は、後日調練で行う陣形の詳細を綿密に確認し、軍で使う弓矢の補給の数量と入手経路を打ち合わせ、新たな形態の馬具についての騎馬兵たちの要望を伝え、豪族との交渉事への伴を頼まれて必ず随行することを約束した。


そこへ突然に。―――猫?
冬になると、布団に入ってくる。
春になると、布団に入ってこなくなる。

「だから、なんだ?孔明」

「あたたかくなりましたね」
「そうだな」


桜が咲き、桃が咲いて、散った。殺風景な城塞の周辺でも菜花や連翹が鮮やかな色合いで風に揺れ、山野を歩けば 月季花、茉莉花が芳香を漂わせている。
時節は、春の中の春。

あたたかくなった。
だから、なんなのだ。



孔明はじっと、情人を見る。
夜の居室にいながらどうして、趙雲は具足を解かないのか。
夜の居室に二人でいながらどうして、軍務の話ばかりするのか。
・・・抱擁も、睦言もないのは、どうしてなのか。

ずっと後に、趙雲の武勇を崇拝してつけられた軍内での異名が虎威将軍というのだが、この頃から趙雲の武勇は虎みたいだと劉備は吹聴していた。

「そういえば虎って、猫の仲間でした」

虎と猫を比べるのはどうかと思うが。
二人きりで夜の居室にいながら、寝所に向かう気配が無いのはどうしてなのかと考えて、思いついたのがそれだった。


「あたたかくなると、同じ布団に入るのは、迷惑ですか?子龍殿」


趙雲は口を開きかけて、つぐんだ。そして再び開いて、しぶしぶ白状した。
「逆だ」

冬の間は、同じ布団を分け合い身を寄せ合って寒さをしのいだ。
躰を交わらせて情を通じる夜は勿論のこと、そうでない夜も、執務と軍務に冷えた躰をあたため合って共寝した。

「逆、といいますと?」
「同じ褥に入れば、欲しくなって、抑えが効かぬ」

冬と、同じように出来る気がしない。
春は動物にとって発情の季節ではあるのだが。
よい年をして。欲しい、と思う気がどうにも止まらず体内を駆け巡る。
身を寄せ合うだけでは足らぬ。深く、触れたい。欲しい。清廉な白い肢体を暴きたい。欲望が鎌首をもたげる。
疼くような、慕情。湧いて出る色欲。

春情―――とは、よく言ったものだ。

「それは、」
軍師の玉を磨いたように整った白面の目尻が朱に染まる。
座っていたのが、立ち上がった。趙雲の具足に手を伸ばし、帷子を留める金具に細い指がかかった。だが慣れぬ繊手で重く堅い留め金を外すに至らず、彼は恨めしそうに、上目遣いに趙雲を見た。

「慕情を、抱いているのは自分だけと思っておられるのですか」

孔明、と唇だけでその美しい字を呼ぶと、すい、と顔が近づけられる。
淡く唇に触れる感触がした。

「あなたをおもう気持ちに季節は、ありません。けれど、春情とは、よく言ったものです。‥‥あなたが、欲しい。子龍殿」

「明日は、豪族との交渉ではなかったのか?」
「明後日、です」
「明日は?」
「雲を読んだところ、朝からどしゃぶりの雨。将兵らの調練は中止、文官の視察も中止、――と、なるような気がします」

「それを、早く言え」
「子龍殿は、軍務の難しい話ばかりされておりましたので。同衾したくないのかと」

逆だ。

具足の留め金に手を掛ける。孔明がしても外れなかったそれをあっさりと外し、帷子を脱ぎ手甲を落とし。
寄り添い、口付けながら、趙雲は軍師の髪の束ねを解いた。



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