視察から戻ってきた軍師は、なかなかにご機嫌うるわしかった。
あまり上機嫌なので、趙雲は穏やかに微笑んでイヤミを言った。
「軍師殿。俺に黙って出かけた視察は、さぞ愉しかったとみえますね」
「ん?ああ、そうなのだよ、子龍殿」
通じなかったイヤミは、乾いた風に吸い込まれて消える。軍師はふわりと微笑んだ。
まことに晴れやかな、晩秋の美しい青空のひろがる日のことだった。
「良いものを見せようか」
晴れやかな様子で立ち上がった軍師は、細い指を帯に伸ばし、なんと長袍を脱ぎはじめる。
「……軍師殿のストリップですか。それは確かに良い眼福ですが…」
半分は呆然、半分は唖然を誤魔化すための呟きは、しゅるりと袍を落とす音にまぎれて軍師将軍には届かない。
あくまで表層は鉄面皮、しかし穏やかどころではない内心の動揺を隠すため趙雲はむっつりと腕を組んだ。
この軍師の行動ときたらなんと突拍子もない。いつ誰が入ってくるか分からぬのに、何をするつもりか。
軍師の長袍は黒い。それはどうしても重厚な趣きを与える。
それがはらりとすべりおちた。
その下は、晴天―――
空色というのがふさわしいうららかな薄青の綾絹を軍師は纏っている。
「蜀錦の官工場で、初夏に採れた藍がいよいよ建ったとか。奇麗だろう?」
生の藍は初々しい染めが得られるが、いかんせん濃い青はえられない。そこで灰汁を足して発酵させるのだが、藍が熟成されて染めができる状態になることを藍が建つと云う。
「実は…」
趙雲が気がつくと、ほど近くに軍師がいた。
自身が着ているのより少し濃い色の、やはり青色の絹布を持って。まだ着物に縫製していない布地である。
「…青がとてもよく似合う人がいる、と言ったら、もう一反くれたのが――」
息がかかるくらい近くで、軍師が微笑む。意味ありげな上目遣いが、まこと艶麗かつ悪戯っぽい。趙雲は見かけあくまで端然と、内心のみで口をへの字に曲げた。
「俺には上等すぎますよ。こんななよなよした上品な絹。どうやって着たらいいか分からない」
孔明は布地をひらひらさせた。
「私的な外出着にでも仕立てればいいんじゃないか?あなたは顔がいいから似合うだろう。花街でもてるぞ、きっと」
この軍師はしばしば趙雲に対して、ひと言多い。
挑発されているのかとおもうほど。
花街で、のくだりが気に入らない趙雲は一瞬だけ顔をしかめ、すぐにしれりと言い返した。
「そうなると軍師とペアルックになるわけですね。仕立てあがったらお揃いで花街を歩きますか」
「ペアルッ―――」
破壊的な言葉に、軍師は絶句した。ざまあみろだと趙雲は溜飲をさげた。
どうもこの人といると、俺は大人げなくなるな…と内心で首をすくめていると、軍師は血相を変えて青い布を後ろに隠す。
「やめ。却下!んな恥ずかしい真似はできぬ。だいたいそんなことをして、私たちのただならぬ関係が知られたらなんとする」
「――おおげさな。たかが揃いの色の服を着てるくらいで」
「いいや。花街の女というのはえてして勘がいいものだ。バレるに決まっている!」
「別にいいじゃないですか。ほんとうに恋人同士なんですから」
「ほんとうに恋人同士だから嫌なんじゃないかっ!!」
...続く
ゆらりと不気味な影が孔明に迫る。
「…逃げるな。つか、逃げられると思うなよ…」
影はいちおう孔明の情人ということになっている男の声を発した。
情人、という区分は、ぶっちゃけカラダの関係があるいうことだ。
さらに突っこむと、カラダの関係しかないよという意味でもある。
恋をしてれば恋人だろうし、語弊はあるが、愛人という言葉も世の中にはある。
カラダの関係はあるのだが、いまさら恋でもないだろうよという立場。まして愛というものからはなおほど遠い距離感。だから情人なのである。
閑話休題。
影はじりじりと軍師に迫る。
影だけじゃなく実体もともなっている。
ようするにいま、孔明は情人からカラダの関係を求められているところである。
馬超は夜になって、長期の兵訓練から戻ってきた。
ほこりだらけの武衣はこざっぱりした私服に着替えてあり、ヒゲが伸び放題というわけでもないのだが、まとう雰囲気はぎらぎらしている。
ミもフタもない言い方だが、長期の遠征で、溜まっているのであった。
それならば妓館でも遊里でもいって放出してくればよいものを、なぜか知らないがこの男は女好きのくせに、孔明にもそれを求める。
迷惑である。
冷静沈着な諸葛孔明もここにいたって蒼褪めた。
ただでさえ受け役で男の相手をするなぞご免なのに、こんな状態の男の相手をするのはもっとイヤだ。
身の危険を感じる。へたをすると壊されそうだ。そのあたり、馬超の理性など微塵も信用していない軍師はじりじりと後ずさった。
「…下がりなさい、馬超将軍。わたくしはあしたの朝イチに朝議があってそのあとも公式行事が目白押しなのです。あきらめて妓楼にでも行ってください」
「…妓楼か」
「そう、妓楼ですよ、妓楼。あなたの大好きな。――美しい妓女、やわらかい牀台、吟味された酒と肴…。ほぅら、その気になってきた」
孔明は白羽扇を馬超の顔のまえでぐるぐる回した。まるでエセ催眠術師のようだが、彼なりに必死なのである。
「妓楼なら、さっき寄ってきた」
「…なんですって?妓楼で妓女にフラれたからわたしのほうに来たってんですか?それとも妓女を抱いただけではもの足りなくてここに来た?どちらにしてもフザけんなって話ですね」
「逆だ、逆。おまえを抱きたくてしょうがなかったから、わざわざ妓楼に寄って湯を浴びて着替えてきたのだ。いかないでくださいませとすり寄る妓女を振り切ってきたのだからな。だから、ぜったい逃がさん」
妓楼を銭湯がわりにするなとか逃がさんってんな迷惑なとかいろいろ言いたいことはあったが、馬超の本気を感じ取った孔明は、臆面もない行動に出た。つまり、ぱっと背を向けて逃げ出した。
劉備軍という素晴らしく逃げっぷりのよい軍団にはいったおかげで否応なく軍師の逃げ足も鍛えられていたが、この場合は相手が悪い。数歩もいかないうちにどっと襲い掛かられた。
孔明はばたばた羽扇を振り回す。三国無双というゲームだったらビームとかいうものが放たれて馬超はとっくに吹っ飛んでいるところだが、あいにくこの羽扇からはそんなもの出ない。
「逃げるな。こら、いいかげん抵抗するなっ!」
「冗談じゃ有りませんよガンジーじゃあるまいし。窮鼠は猫を噛むし、ライオンに襲われた鹿だってライオンを蹴り飛ばして逃げることがごく稀ではあってもあるというのに、わたしだけ抵抗しちゃいけないという道理があるものですかいえありませんよっ」
軍略家の弁舌というものは多彩である。わかりやすく尚且つ具体的なたとえ話を駆使し、反語まで使う。
しかし、言葉というものは無力な一面をもつのだ。まことかなしいことだが。
絹を裂くような悲鳴があがって、燭台の灯が消えた。
寝台に組み敷かれてなお、軍師はまだ抗っているようだ。
が、ライオンを蹴り飛ばして逃げる鹿。皆無とはいわないがたいへん稀であることも、また非情の事実なのだった。
風はさやさやと木立をゆらして、木漏れ日が部屋にしのびこむ。
ひだまりと化した執務室。
軍師はふわぁぁと大あくび。
筆の音が、ぱったりやんだ。
これだからこの軍師は目がはなせないのだ…
ふうとため息を吐いたのは、灰銀の鎧をまとった偉丈夫。
こんな機密が詰まった部屋で、のんびりうたたねをする人がいるだろうか。
見れば、彼がかさねた両手の下に敷いているのも、重要でなくはない書類のようなのだが…
機密はなにも部屋に山と積まれた書類だけではない。
もっとも重要で価値の高いものは、すこやかな顔で眠りこむご本人だ。
「そんな顔で寝ていられると、起こせないな…」
つぶやきを感知したのだろうか、軍師は繊細な睫毛を震わせ…ふたたび眠りに落ちた。
趙雲は音をたてないように扉に行き、こっそり錠をおろした。
まえに同じことをしたときは、秘め事のためだった、が…
「大丈夫。目を覚まされるまで、お守りいたします」
そんなやすらいだ顔で眠っていられては、手は出せない…から。
同性の情人の館で、男の血縁者とばったり出くわすというのは、なかなかに気まずい。
馬岱が馬超とおなじ屋敷に起居している以上、顔を合わせたとしても不思議ではないのだが、いつもまっすぐ馬超の部屋に行っていたせいか、これまで孔明はこの屋敷で彼を見かけたことはなかった。
悪いことに、もう日が高くなろうかという朝方である。
馬岱は、馬超のような男と自分が、夜の一室で夜っぴいて酒を飲んだり他愛ない話をしているだけなどとは思わないだろう。
事実、馬超の部屋で話などほとんどしたことはない。あるのは行為のみである…
ばつが悪いが、ここで顔を伏せて恥らったりしては侮られる。のちのちのために良くなかった。
寝起きにぞんざいに結った為、完璧とはほど遠い結い髪の頭を倣岸に上げ、孔明は笑ってみせた。
「わたくしはこれにていとましますが、貴殿の従兄殿はまだおやすみであられるゆえ、、あとでお起こししていただきたい…」
そのまま行き過ぎるつもりであったが、孔明はつ…と足をとめた。
「あの御仁の睡りは存外に深いと見受けるが…以前からそうなのだろうか?」
「それは軍師殿のほうに殺気がないからです。孟起は生の大半を戦場か、それに近い場所で呼吸してきた漢でありますれば、あなたさまに髪のひとすじほどの殺気があれば、即座に飛び起きましょう。――ためしに、腹でも殴りつけてみては如何ですか」
孔明は実行した。
ある夜更け、腹を殴るなどという手ぬるいことはせず、懐剣を抜いた。
白刃をふりかぶったときである。
褥に眠りこけていた筈の男のすがたは、もはや影もなかった。
いつ抜き放ったのか。のど元に硬く、冷たい刃の質感――
孔明の懐剣がおもちゃにみえる長剣が、のどのくぼみにひたりと押しつけられ。
研ぎ澄まされた刃の青白い凄みは、幾人…いや幾百の生命を吸ってきた為か。
孔明の肌がプツリと切れ、紅い筋がうかびあがった。
深闇に、無言の男の顔…
獣の目だ。
喜びも哀しみも。期待も悲嘆もない無機質な眸子。
馬超は軍師の細い喉もとに剣身を押し当てたまま、軍師の背後にまわった。獣が徘徊するような、剣呑な静けさのなか。
ひとひねりで、懐剣は床に落ちる。
背後から孔明の利き手をねじりあげたまま、馬超は軍師の首に唇をよせ、舌をだして血を吸った。
そして、嘲笑…
血を舌で舐めとられながら嘲われて、孔明の肌が粟立つ。
卒時、背筋を貫くように突き上げた情欲。
孔明の欲情を見抜いたごとく、手首を引き倒され、褥に押しつけられる。
裂くように割られる裾。
「……あ――――っ」
くつろげることなく押し入った雄の肉塊に、孔明はたかく鳴く。
痛みと、―――かつてないほどの、快感…
「…ぁあ…ん…っ」
ズッと音をたててぬかれた異物は、またゆっくりと奥まで打ちつけられる。
「ぁっ、あ…っ」
目を上げると、獣の顔。嘲笑っている…
孔明もまた、微笑んだ。
おさえられていた手首をするりと抜き、男の背にすべらせる。
「もっと。…もっと、突いて…」
甘い声でねだる軍師を見おろし、男は皮肉げに口端をあげる。
艶然と微笑みかえし、孔明はうっとりと目を閉じた。
閨で無防備な男になど用はないのだ。
欲しいのは―――
「あぁ、ん――は……!」
はげしく揺すりたてられて、軍師の思考は溶解した。
寝返りを打ったところ、固いものに額をおもいきりぶつけてしまった。
固いといっても壁などじゃなく、一抹のやわらかみのある固いものなのだ。
それは、同衾した男の、鍛え上げられた肩なのだった。
かなりの勢いでぶつかったのであるが、男がめざめる気配はない。
孔明は不審に思わずにいられない。
何故、この男はこんなにも、自分などの隣で無防備に寝られるのだろうかと。
自分があまりに非力なことを、見下しているのだろうか。
それとも。
自分がこの男を害することが絶対にないと、思っているのだろうか…。
…信頼している?このわたしを…?
この男を我が陣営に取り込むために、あらゆる策をめぐらせたわたしを…
こうして寝ているのさえ、天下に鳴り響く猛将であるこの男を、我が陣に捕らえておくための策かもしれぬというのに…
「宜しいのですか…そのように無防備でいて。
わたしは、…あなたがひどく嫌う、策略家…権謀術数を扱う軍師…なのに」
馬超の髪は、しっとりと細くしなやかな孔明の髪などとは質が異なる。
細いことにはかわりないが、ふわりととらえどころのない軽みをもっている。
孔明は、同衾者の額にかかる髪を丁寧に梳いた。
はたからみれば、愛撫と見えたかもしれない。
「…孔明?もう、朝か」
「…いいえ。夜明けには、いま少し」
男は、かんぜんに起きたわけではなかったのだろう。
そうかと呟くと、また寝入ってしまった。その際、孔明のことをおのが腕の中にしっかりと納めてしまった。
「…もう。動けないではないですか…」
こうされてみると、男の胸とは存外に広いものだ。広く、そして熱い。
孔明は目を閉じた。
目を閉じる以外なかった。
この体勢で、いま出来ることといったら、それしかなかったから。
明日になったら、なにか変わるかもしれない。
たとえば馬超が劉備を裏切るようなことがあったら、自分は躊躇なく彼を討つだろう。
しかし、いまは。眠ってしまおう…
それ以外、出来ることもないのだから……