朝から曇りはじめ、昼から雨になり、夕方にはさらりと晴れた。
夕暮れ時の丞相府には、多くの文官が一日の報告をしに詰めかける。
府内の奥室にしつらえた巨大な執務机から立ち上がり、官吏たちから書簡を受け取り、渡し、報告を受け、もたらされる情報に対する処理方法を穏やかにも立て板に水の怜悧さでやり取りする諸葛亮は、窓の外に烈しい馬蹄の響きを聞いた。
文官たちが「遠雷ですか、もう一雨くるのかな・・・・」とのんきにつぶやくのに対して、室の隅に控えていた護衛武官が、さっと諸葛亮の前に立つ。
「軍馬です。城の内庭を駆けるからにはお味方とは思いますが・・・・念のためお下がりください」
「軍馬が・・・?なんでしょう」
文官たちがざわついた。
敵襲だとは思わなかったので、諸葛亮は構えもせず、指示を出し続ける。
すこし疑問にはおもった。
庭は池もあり岩もあり木々が茂っている。いわば障害物だらけだ。それをこうも烈しく駆けることができるものだろうか・・・?
宮城から丞相府に続く回廊あたりで、馬は止まったようだった。
かわりにひどく狼狽した気配が廊下に広がる。
数十人もいる文官が、潮が引くかのように二手に分かれて道ができて、空白の道筋をたどって姿を現したのは、劉軍でもっとも新参の武将だった。
護衛武官も道を開け、畏怖を込めた拱手をとる。
扉を蹴破るほどの勢いで入ってきた長身は、礼をとる文官武官には目もくれず、一直線に歩を進めた。
「軍師殿・・・・!」
諸葛亮はすっと軽く頭を下げて礼を取った。
「・・・・・馬超殿、どう」
言いたいことは多々あった。丞相府の前庭に馬を入れたことに文句も言いたかったし、なにか急いでいるようだが何の用かも問わねばならなかった。
しかしどれも言えないまま、いきなり両肩を掴まれた。
並み居る文官たちが凍りつく。
「一緒に来てくれ!・・・・・いや、来ていただきたい。・・・・頼む」
息がかかるほど至近でうなるように叫ばれて、諸葛亮は二度ほど瞬いた。
西涼の漢とは許しを得ず人の身体に触れるという風習を持っているのだろうか、と思う。
この人の従弟も、初対面でいきなり触れてきたのだ、なんの気負いもなく身体に、そして・・・・心にも。
「どちらに?」
「邸だ―――寝かしつけてきたが、起きだしておるかもしれん」
「・・・・・・」
意味不明だ。
諸葛亮は目を伏せ、そして上げて文官たちに一礼した。
絶滅危惧種のパンダを見るようであった文官たちが目を覚ましたように、ぎくしゃくと答礼し、書簡を抱えておずおずと退室していった。
「・・・茶でも喫されますか、馬超殿。事情をお伺いしましょう。それとも、それも待てませんか?」
「う・・・・いや、いただこう」
この人と従弟は、あまり似ていない。見かけも、おそらく性情も。
だと思うのに、諸葛亮の肩から手を放した西の将は、
「・・・細いな。ちゃんと食っておるのか、軍師殿」
と、従弟とまったく同じことを言った。
諸葛亮は鼎に水を注ぎ、炭を熾し、茶葉を用意した。
湯が沸き立ち、あたりを湿しながらたちのぼる湯気の合間を縫うように、指先で茶葉を練りながら湯に投入する。
茶匙は使わない。指先で茶葉の乾きを確かめるほうが好きなのだ―――。
煮えた茶を柄杓で掬い、振り返ると、将はぽかんとしていた。
「・・・・いかがなさいました?」
不審におもい声をかけると、将はさっと顔をつくろうも、なぜだか赤くなった。
「い、いや。驚いた。あまりにうるわしいので、・・・・」
「・・・それはどうもありがとうございます」
茶はちかごろになって流行りはじめたもので、作法を身につけているものは少ない。
酒よりもむしろ好きで、凝り性なのもあって茶にはかなり嵌まっている。所作を誉められることもあるが、ここまであからさまに言われると、面映い。
世辞とは無縁の人だと分かるだけに、余計に。
釉薬のうつくしい茶碗に茶を注ぎ、向かい合う。
「それで、いかがなさいました」
「ああ、岱がな、――――」
「、――――・・・・」
数瞬、手を止めた諸葛亮に気づかず、言いにくそうに馬超が言う。
「馬から・・・・・落ちてな」
ほんとうに気まずそうに言われても、ぴんとこなかった。
将が怪我を負ったのなら、必ず諸葛亮のところに知らせがくるが、そんなことは聞いていない。
「落馬・・・なさった、と・・・?それは、・・・・お怪我は?」
「ない。あるものか!しかし――岱が馬から落ちるなど、ありえん。へらへら笑っておったが、なにか病でも得たのではないかと――」
口をへの字に結び、渋面をつくる将に、諸葛亮はだまって茶のお代わりを注いだ。
「医師には見せたのですか」
「ああ。岱は嫌がったがな」
「医師の見立てはいかがだったのです」
「特にはなにも。すこし疲れがたまっておるのではないですか、しばらく静養なさったら、なぞとぬかした」
諸葛亮は立ち上がった。
「話を聞いていても、よく分かりせん。参りましょうか。案内をしていただけますか」
馬超も椅子を蹴立てて立ち上がった。
「無論だ、軍師殿。来てくださるとは有難い。すぐに参ろう!」
馬の用意を申し付けようとした諸葛亮は、肩を抱かれて口をつぐんだ。
馬超はうやうやしく、それでいて強引に諸葛亮を回廊の端まで導くと、そこにいた自分の馬に放り上げ、すぐに自らも飛び乗って手綱を取った。
「・・・馬超殿、側仕えの者に出かけると伝えなければ、・・・」
言いかけて諸葛亮は口を閉じた。
ごく無造作に馬は全力で走り出していた。黙らなければ舌を噛むほどの勢いで。
馬岱は自邸の寝台でごろごろしていた。
「若ってば、心配し過ぎなんだよね~~」
馬から落ちた。
ふぅ・・・と身体から力が抜けて、気が付くとべしゃっと落ちていた。
受身も取らなかったから頭から地面に突っ込んだのだが、頭を強打するなんてこともなかったし、怪我もしてない。
馬超にとっては西涼の男ともあろうものが・・!と驚天動地の大事件なのだが、馬岱にとってはなんてことない。へっちゃらだ。
ただ馬超にとっては馬岱が落馬するなんて、それも止まった馬から落ちるなんて、すわ重病かと大騒ぎだったのだ。
自邸に強制送還され、寝台に寝かしつけられ医者が呼ばれ―――あげく絶対安静を言い渡された。
「寝ておれよ。起きだしたら、ただではおかん」と本気の形相ですごまれたので、仕方なく寝ているのだが――
あ~~たいくつ~――――って、あ。若だ。
がばっと身体を起こした馬岱は、「あ、俺寝てなきゃいけないんだったっけ」とぼやいて、ぼふっと寝台に沈む。
怒涛のような、雷鳴のような力強い馬蹄の響き、馬超にしか出せない音が、近づいてくる。
起きたら怒られるから寝たふりしてよ、いやまて、馬超はやけに急いでいる。
馬岱を心配して、馬を飛ばして帰ってきたのかもしれない。
とすれば、「若、俺、もう大丈夫だよ~~」とか言って手を振ってみるか。
門で馬がいなないたかと思うと、ドカドカと足音が一直線に馬岱の部屋にやってきた。
「おかえり、若~~、俺もう大丈夫だ、よ・・・・え・・・・」
ふざけた笑みとともにひらひらと振られていた馬岱の手が、ぴたりと止まる。
馬超は1人ではなかった。高雅な白衣の長身の人は、部屋に入ると立ってるのも辛いとばかりにふらふらとよろめき、「う」とうめいて口を押さえた。
「若ぁ・・・・!何してんの、この国でいちばん忙しい諸葛亮殿がなんでここにいるの・・・!?」
「な、何を言うか、無理に連れてきたわけではないわ」
「じゃあなんで諸葛亮殿、こんなによれよれになってるの」
「お、俺は何も。いつもの通り、・・・いや、いつもより少し馬を駆けさせたかもしれぬが」
「若の普通は普通じゃないんだよ。いいからさ、若、家宰に言いつけてなんか食べ物と飲み物用意させてきて!俺も食べるから、3人分ね!」
「わ、分かった」
脱兎のごとく出て行く馬超を見送って、馬岱はばたんと寝台に倒れた。
怒鳴ったからか、ちょっとくらくらする。
仰向けに転がって目の上に手のひらを当てた。
「・・・ごめんね、諸葛亮殿。若が強引に連れてきちゃったんでしょ」
「無理やり・・・ではありませんが。馬があれほど速く走るものだとは・・・知りませんでしたね」
「・・・・・もしかして、若、諸葛亮殿を自分の馬に乗せたの?」
「はい」
「そう・・・・・・・・・・・」
馬岱は目を開いた。
「ふうん・・・・・そっか」
「鏡を借りてよろしいですか」
「うん、もちろん」
諸葛亮が馬岱の寝ている寝台の脇を通り過ぎたとき、その歩みが起こす風が、馬岱の前髪を揺らした。
乱れた髪を直す諸葛亮の後姿を、寝転がったまま馬岱は見ていた。
自分の部屋で髪を直す人を、寝台から見ているのは少し奇妙な感覚だった。
まるで、情事のあとみたいだ―――・・・
普段は自分がうつるだけの鏡。外に出る前、帽子をかぶる数秒間だけ馬岱はその鏡に自分を写す。
馬岱は目を閉じる。しなやかな気配が寝台に近づいた。
「具合は、いかがですか」
「若は、なんて言ってあなたを連れてきたの」
「落馬したので、重病だと」
「若ってば何でそんなかっこ悪いことばらすかなぁ」
馬岱が手の動きで椅子を勧めると、諸葛亮は白衣をさらりと揺らしてそこに座った。
「病の気配は、ないのですか」
「うん、全然。ちょっとぼーーとしてたら落ちてただけ。怪我もしてないよ」
「なにか気にかかることでも?」
「ないない。逆だよ」
「逆、といいますと?」
「ん―――・・・・別に」
馬岱は目を開けて、また閉じて、開けて、天井を見ながら言った。
「なんかさ・・・・蜀って居心地が良くて。気が抜けるんだよね・・・」
「おや」
低く、諸葛亮が笑った。
心に沁みるような静かな笑みだ。馬岱はらしくなく、つきりと胸が痛くなる。
「―――ねえ諸葛亮殿、若を、お願い」
「・・・・・・」
諸葛亮が黙ってしまった。
「あなたの望みは、ないのですか・・・・?」
「だから、それが俺の望み。若を宜しく。若は劉備殿と蜀に、正義を預けることに決めた。若は絶対に裏切らない。・・・蜀と魏が手を結ぶなんて事にならない限りね」
諸葛亮は息を吸い込み、2、3秒目を閉じた。
ゆっくり目を開けると、寂しげな声で言った。
「その望み、叶えましょう・・・。私の名にかけてお誓いいたします。馬超殿の蜀での地位、処遇・・・その全てを古参の将となんら変わることなく、いえ、それ以上に取り計らいます」
「――――うん、ありがとう、諸葛亮殿!」
にこりと笑った馬岱が布団を蹴っ飛ばして起き上がった。
そのさまを諸葛亮はじっと見ている。
そこに馬超が戻ってきた。
「岱っ!起きるな、こら!」
「若ぁ、もう治ったって。ほら医者だって病じゃないって言ってたしね。ねえ、ごはん食べようよ、夕飯までまだかかりそう?」
「いや、すぐできるそうだが・・・しかし、西の料理だぞ、俺たちがいつも食っているものだからな」
ちらりと気がかりそうに馬超は諸葛亮に目をやったが、馬岱は従兄の背を叩いて笑った。
「いいんじゃない、西涼料理、諸葛亮殿に食べてもらおう。気に入るかもしれないし、駄目でも珍しいから話のタネになるでしょ、ね、諸葛亮殿」
「うむ――、よろしいか、軍師殿」
馬超と馬岱が振り向くと、諸葛亮は聞いていなかったらしく、視線を斜め下に向けて何事か考えていた。
馬超は戸惑うが、馬岱は大きく笑う。
「ねえ、諸葛亮殿。どう、食べてみたいでしょ、本場の西涼料理」
諸葛亮は静かに視線を上げると、かすかに頷いた。
「じゃあ、食堂に行こう。大丈夫、きっと気に入るからさ。俺、四川料理のほうが駄目だったよ。普段好き嫌いはあんまりないんだけどね、あの辛さはちょっとびっくりしたなぁ」
「ああ、あれはひどいな」
にぎやかに出て行くのに取り残されていると、戻ってきたのは馬超だった。
「軍師殿――?」
目を上げると、目尻の切れ上がった精悍な顔が、面映そうに笑んでいた。
「礼を言う。岱が元気になったようだ。何か言ってくださったのだろう」
「いえ――・・・・」
「ゆっくりしていかれよ。酒も用意させておるゆえ」
「・・・・はい。ありがとうございます」
広い背について、室を出ると、もうひとつの背はとうにいなくなっていた。
回廊の先から、料理の匂いが漂ってくる。肉が主体なのだろうか、嗅ぎなれない匂いも混じっていたが、総じて良い匂いだと思えた。
そちらに向かって歩を進めかけて、諸葛亮は立ち止まった。
空に向かってつぶやく。
・・・・・・あなた自身の望みは、・・・ないのですか・・・?
梅につづいて桜が咲き散り、道々の端に小花が咲き乱れる様相になった。
寒さもやわらぎ、うららかに晴れた昼下がり。
主君付きの侍従が訪れたのは、窓の外のどかに鳥がさえずりかわす午後だった。
「庭園の桃花が盛りゆえ、皆で花見をしようと殿の仰せでございます。皆さまにお知らせして回っておりますので、諸葛軍師さまもぜひお越しください」
諸葛亮はかすかな笑みを浮かべて首肯する。
「知らせてくれてありがとう。ただいま軍の編成の書簡をつくっておりますので、私にかまわずどうぞ先に始めてくださいと、お伝えください」
「かしこまりました」
しばらくして幾人かの文官が顔をのぞかせた。
「殿の花見の宴がはじまったようですよ。よい天気でございますし、お出ましになられてはどうですか」
「ちょうど新しい法律のまとめにはいったところです。後で行きますから、其方たちは行ってらっしゃい」
「よろしいのですか、それではお先に・・・軍師様もどうかいらしてください」
午後の遅い時間になり女官が訪れる。
「殿はなにも仰いませんが、きっと軍師様に顔を見せて欲しいと思っていらっしゃいますわ」
「おそれおおいことですね・・・・・・ただ近隣の村落から訴訟がでております。急ぎ裁いてやらねばなりません」
「ではそちらが終わられましたら、ぜひお越しくださいませ」
夕暮れ近くに、酒がはいって赤い顔をした武将らがやってきた。
「なんだ軍師殿、参られんのか。職務もあろうが、桃花が咲くのは年に一度のこと。殿に縁の深い花でもある。すこしは顔を見せられよ」
「そうそう、参りましょうよ軍師様」
「折角のお誘いで恐縮ですが・・・・河川の様子の報告がただいま入りまして。目を通し処置してから参りますので、おのおのがた、どうぞ私におかまいなく、楽しんでください」
日が暮れて、暗くなった。もう花は見えない。庭園での花見は広間に座を移して酒宴になったようだ。
主だった文官、武官はそちらに出席し、侍従や侍女たちも給仕に忙しい。酒宴に出ない身分の官吏たちも上司らが昼過ぎから不在とあっては、早く仕事仕舞いをして帰ったようだ。
自らの手で明かりを灯した諸葛亮は、税の徴収に関する覚書に目を通していたが、窓がこつりと音を立ててふと顔を上げた。
「こんばんは、諸葛亮殿」
飄々とした笑顔に出会う。
「・・・・・こんばんは」
「入ってもいいかな?」
「・・・・・・・」
返事をまたずに、将が窓を超える。上背もありけして華奢ではないのに猫のように音を立てずに、ひょいと室の床に足をつけた。
「なんで諸葛亮殿は来ないのって聞いたけど、劉備殿も張飛殿も趙雲殿も答えてくれなかったよ。忙しいの、諸葛亮殿?俺、手伝おうか」
馬岱の申し出に、諸葛亮は視線を書簡に戻して微笑した。
「お申し出はありがたいのですが、手伝いは結構ですよ・・・。まだ酒宴は続いておりましょう。どうぞ楽しんでください」
「ここにいちゃだめ、諸葛亮殿?」
「・・・・・・・かまいませんが。お構いはできませんよ」
「うん。はい諸葛亮殿の分。俺勝手に飲んでるから、構わなくていいよ」
馬岱は腰につけていた瓢箪から平たい盃に酒を注いでことりと置いた。白いにごり酒に、桃の花が一輪浮かんでいる。
諸葛亮の脳裏にさぁっと風が吹き、満開の桃花が揺れた。淡い紅色の花弁が澄み切った青空に映え、花をつけた枝の先からは瑞々しい青葉が茂りはじめていて―
「・・・忙しいというより、小心なのでしょうね、私は」
「ふうん。小心なんだ、諸葛亮殿」
諸葛亮は今日昼過ぎから片付けた書簡の山を見た。そして手にしている書に目を落とす。
「やはり怖いものですよ。これなどは税に関する書ですが―――書いてあることは数字の羅列ですが、税金というものは民の心血・・・・殿の領地の民、ひとりひとりの人生そのものです」
「うん」
「軍の編成にしても、領主や将は数千、数万の単位で考えますが、それは人の集まりです。軍を預かるということは、数千、数万の命を預かるということ―――。河川にしても、この先の季節の長雨で川が溢れれば、どれほどの民の生命と財が脅かされることかと―――そう思いますと、私は止まるわけにはいかない、と思うのです」
「ぅん―――・・・・」
馬岱は卓に頬杖をついて足を組んだ。
馬岱は武将だ。幾千、時には幾万の将兵の生命を預かる。
だけど―――馬岱は兵のひとりひとりの生と死を思いやったことはない。
馬岱の大切なもの、心に掛けるものは、昔からとても少ない。
「ぁ――・・・・・」
俺、ちょっと、この人のこと好きかもしんない
ああぁどうしよう若、ごめん。
「まあ、覚悟して望んだ地位と職務でありますので――・・・」
馬岱の内心に突然わきあがった煩悶など知らぬ諸葛亮は、ごく平素な顔つきで書をたたみ、別の書簡を手繰り寄せる。
そのまま書簡に没頭し、筆をとり硯を引き寄せて書きものを始めた。
またたくまに見事な筆跡が真新しい書を埋めてゆく。するすると筆が遅滞なく動いて書が仕上がっていくさまは手品のようだ。
夜も更けるまでさらに十数巻の書を処理して、やっと諸葛亮が筆を置いた。
さすがに少し疲労した様子で髪をかきあげて立ち上がり、馬岱のいる卓に近寄ると、置かれたままだった一輪の花が浮かんだ酒盃をすっと取り上げ、香りをかいだのち音もなく飲みくだす。
「ちょっと、花を見てきます」
盃を置いて扉へ向かう背にもちろん馬岱は付いていく。
外に出ると広間でまだ続いている酒宴のにぎわいが風に乗って届いた。諸葛亮はそちらには向かわず、回廊から庭へと降りる。
桃花の林は庭園の奥だ。池のほとりをぐるりと囲む小路に沿うように植えられている。
昼間そこにいた馬岱はもちろんそこに行くまでの道を覚えていたが、半歩先を歩む諸葛亮も迷いはない。
おぼろに霞んだ月明かり。
夜目が利く馬岱にとっても、こんな暗がりで花見が楽しめるとは思えない。
ところが目当ての場所にたどりついて、うなる。
ひとつの明かりが・・・ひときわ見事な満開の花をつけた樹に提灯がぶらさがり、花を照らしていたのだ。
それでいて、夜の花見を楽しむような人影はない。気配もない。
まるで夜更けに、誰かが花を見に来ると分かっていたような仕掛け。
「愛されてるね、諸葛亮殿」
「ええ。――――幸せなことですね・・・・」
「俺も、あなたが好きだよ、諸葛亮殿」
「・・・・・・・」
応えはなく、花を見上げた横顔にはらりと花びらが落ちかかる。
昼見ると濃い桃色であった花弁は、ほのかな明かりのもとではやわらかい白だった。
散る花弁の横切るその横顔を、たぶん俺一生忘れないんだろうなぁと、馬岱は思った
暴風と雨で、調練は惨々たるものだった。
涼州、ひいては西域の馬は、果ての見えない、砂礫と草原の大地を駆ける。
ぬかるんだ泥土を這いずるようにできていないのだ。
落馬した者なんて悲惨だ。
どっちが頭でどっちが顔かも区別できないほど泥まみれになる。
落馬は自業自得というものだが、泥に脚を取られ、馬が骨を折る恐れがある。
調練は予定前に、終了とした。
落馬はしなかったが、泥まみれにはかわりなく、馬の世話をしたらどうしようもなくなって、頭から井戸水を浴びた。
衣は変えたが、寒い。
濡らした髪のまま、ふらりと歩き出す
あたたかい場所と考え、その場所が浮かんだのだ。
「諸葛亮殿、あたためてよ」
「・・・・・・」
桜花のころを迎えて寒さはやわらいできたとはいえ、こんな嵐にも似た風雨の日は足元からしんしん冷える。
北向きの部屋は春といってもまだ薄ら寒く、予想通り、炉に火が焚かれていた。
巨大な執務机に書簡を積み上げた諸葛亮は、黙々と動かしていた筆を止めた。
まじまじと見られている。
なぜだか分からないが、諸葛亮がこんなふうに無言で、馬岱を見ることはよくある。
「このような日に調練をなさったのですか」
「うん、予定通りに。調練の日取りを決めてるのは諸葛亮殿なんじゃないの。昨日は張飛殿と関平殿、関索殿、今日は俺と若と趙雲殿の軍」
「それはその通りですが。趙雲殿からは早々に風雨のため中止する旨の知らせがありましたので」
「え、早く言ってよぉ――あーあ、おかげで若も俺も馬もずぶ濡れ。趙雲殿ずるいなぁ」
「そういうわけではありませんよ」
諸葛亮は立ち上がり、す、と袖を払うと鉄盆の上にあつらえてある鼎に向かった。
「風雨で被害が出た折には早急に軍を動かし、民を救わねばなりません。趙雲殿の隊は手分けして川や村落を見回っていただいております。趙雲殿ご本人は城で指揮を取っておられますが」
「もしかして、茶?茶を煮るの諸葛亮殿」
「ほかの方法で温まりたいのでしたら、よそへどうぞ」
「まさか。諸葛亮殿の茶は好きだよ。茶を煮る諸葛亮殿もね」
「・・・・・・」
炉の上に鉄輪をめぐらし鼎を据え、水を注ぐ。椅子の背に行儀悪く頬杖をついて身を乗り出した。水が煮えて熱湯になるまで見ていようと思ったのだ。
だけど視界がふさがった。
頭の上に乾いた布―――と、ためいき。
「・・・さっさとお拭きなさい」
「ありがとう、諸葛亮殿」
外は雨。もっといえば、暴風雨だ。
室の中は、煮え始めた湯から立ち昇る湯気とで、あたたかい。
がしがしと頭を拭いていると視線を感じた。
「見張ってなくても、俺、書簡に水飛ばしたりしないよ?」
「襟足をさきに拭かないと、冷えるのではありませんか」
「ん、」
馬岱は椅子に座っていて諸葛亮は立っていて。伸ばされた手を反射的に掴んだ。
冷たいくらいに整った顔が近づいて止まり、二度、瞬いた。
時が止まったような、錯覚。
こぽこぽと湯が煮える音に遮られるまでの、数瞬。
するりと手を抜き取り、誰にも出来ないだろうゆっくりとした首の振り方で後ろ髪を払って、茶の用意をし始めた痩身を布越しに眺める。
馬岱は怠惰な猫のように背を丸めて椅子に腰掛けて茶が出てくるのを待った。
だらりと手を下げてのんびりとくつろいでいるように見せかけて、やっぱり、お茶以外のあたため方のがよかったなあと思いながら。
::性描写があります。閲覧ご注意ください::
「声を、殺さないで下さい」
真顔でそんなことを言われたのは、閨房の中。
私はたくさん、それはたくさん、この人のわがままを叶えてきた。
この人はわがままだ。
主公が聞いたら「ええ?子龍がわがままだって?」とびっくりして「なにをいうか孔明、あれほど我慢強い男もおらんぞ」と笑うのかもしれないけれど。
いいや。
子龍はわがままだ。
私にこんな要求をする所が、わがままでなくて、なんなのだろう。
「そんな」
私は目を潤ませる。
これがまた異常だ。天下に大計を描く智者、「あぁ軍師様は神仙のようだ」とまで文官にささやかれるこの諸葛孔明が、閨で目を潤ませて、己の上でわがままを炸裂させる男を見詰めるなんて。
「・・・そんな」
声に含まれるのが非難ではなく哀願だという時点でもう駄目だ。なにか間違っている。
子龍の手管によって私の中心は勃ち上がり、はしたなくも蜜を滲ませている。
ああ、もう達く、と背をそらしたところだったのだ、彼が手を止めて冒頭のせりふを言ってのけたのは。
「子、龍」
「なぜ、声を出すまいとするのです。俺に、聞かせたくないとでも?」
非難に満ちた声で子龍が云う。
非難、されなくてはいけないのだろうか。非難したいのはむしろこちらのほうだ。
「き・・・聞かせたくありません」
この慮外者と罵ってやってもよかったのに、出たのは蚊の鳴くような細い声だ。
もう達する、というところまで嬲られた身で、どう反撃せよと。
でも、聞かせたくない。男に身体を触られて、声を殺すな・・つまりは喘ぎ声を出せなんていう要求をしてくるほうが恥知らずだ。
だが、私の言葉に子龍は眉を上げた
。
「そうなのですか」
と。
納得して畏れ敬う「そうなのですか」ではなくて、非難と無理解に満ちた「そうなのですか」だった。
子龍は、口を覆っていた私の手を取った。声を漏らさまいと噛んでいたので、指が赤く腫れている、また唾液で濡れてもいるその指に、子龍は唇を寄せた。あたたかい唇に触れられて、「あ」と声が洩れる。
どうしたらいいか分からなくて固まっている私をちらりと見て、子龍は舌をそっと出した。なんてことない愛撫なのに、背が引き攣った。声が洩れそうになるのを、唇を噛んで必死でとどめる。
そんな私を見ていた子龍は、不満そうに口端を下げ――
「・・・え・・っ!?」
私の両腕をとらえてねじり上げると、手際よく後ろ手に縛り上げてしまった。
「な――」
やわらかい布を使っているので痛くはない。けど、・・・
「あ・・」
横向きに寝かされて背後から抱きしめてくる体温に安堵を感じたのは一瞬だけで、片方の手は膝のあたりからゆっくりと上へと滑り、片方の手のひらは胸元にのびて、ふくらみのない稜線をたどって朱尖へと行き着き、そこで不穏な動きをしはじめた。
「ふぅ・・ぁ」
噛み締めていた唇がゆるまりそうになり、また噛み締める。
脚の内側をなでていたほうの手がふ・・と離れ、わなないている唇を撫で、それから口に入り込んでくる。
指先が舌に触れると感じてしまい、濡れた息がこぼれた。
指を口に含ませたまま、子龍の手が胸を愛撫する。指の腹でゆるくこすって赤らんだところを、つまんで転がして。
「ぁふ・・ん・・っ」
下肢では達する寸前に放られた中心が、震えて蜜をしたたらせているのが分かる。しとどに濡れた中心が敷布にこすれるのが、みだらな刺激となって襲いかかった。
指が舌に絡むたびに、切ない疼きが腰にはしる。抜き取られたときにはもう、唇がわなないて口が閉じられなかった。
たっぷりと唾液をからめて指が、そのまま下肢に向う。
濡れそぼった指で後口をくすぐるように撫でられると、びくりと身体が跳ねた。
過剰な反応に耳元で低い笑い声がしたかとおもうと、其処に指がもぐりこんでくる。
「あ、あ・・・!」
両手を後ろで縛められているせいで平衡を失った身体をそっと引き寄せて、子龍が指を動かしはじめた。
瞬間、異物感に総毛だつ。この感触にはどうしても慣れることができない。
「ぁ、ぁ・・いや」
「軍師・・力を抜いて」
「ふ・・く・・あああ」
「すごい締め付けだ・・・感じますか?」
「き、気持ち悪いです・・・」
指が、ぴたっと止まった。男らしい眉宇が険悪に曇ったのも見てとれた。
だ、だけど・・・
女人ではないのだから、快に濡れるでもない其処を指が這い回る感覚の恐ろしさは、筆舌に尽くしがたい。子龍だってそれを考慮して、いつもはうんと優しくしてくれるのに。
「・・・気持ち、悪い。そう・・・ですか」
「っ」
足を大きく割り広げられて広い手に中心をからめ取られたかと思うと、そのまま強引な動きで上下に擦られた。一方で、長く節だった指が、窮屈な肉壁を掻き分けるように押し入ってくる。
「ぁ、あ・・・っ!」
ぎしりと寝台を揺らして覆いかぶさるように隙間なく身体を寄せた彼は、不安定に揺れる私の身体を支えながら、後口に入れた指を一層奥深くにまで含ませて蠢かせた。閉ざす事を忘れた口の端から零れた唾液が、顎先を伝って滴り落ちる。
それでも声をこらえようと耐えていると、子龍が体内でちいさく指を折り曲げた。
「あぁっ! ・・や、そこは、・・・・やぁ・・!」
「―――感じますか、軍師殿」
「や、あっ・・・やめ・・いや、そこはいや・・!」
「お嫌などと。ここが、好いのでしょう?」
一度出した指を2本に増やして子龍は指の腹をそこばかり抉るようにこすりつける。
もう声をこらえるなどできない。
「ひぁ・・・・ああ、あ・・・っ」
濡れるはずもない箇所からくちくちと濡れた水音が漏れているのは何故なのか考えたくもなかった。
「で、出てしま・・・あ!」
とうに限界を超え一抹の理性で留めていたものが弾けようとした瞬間、大きな手に根元をきゅっと握られた。
「い、いや・・子龍、」
弄られて男性の手に放ってしまうなど考えただけで浅ましい。彼の愛撫にも意思を手放すいと耐え続けていたが、放出を留められた私の理性は崩れてしまいそうだった。
「だめ・・・あ、あ、」
「軍師、どうか・・・」
理性どころか正気を手放しそうになる。恥ずかしい、出したくない、我を忘れたくはない。そして早く解放されたい、我を忘れて彼にすがり、優しい快楽を与えられたい。
結局どちらも選べなくて声を詰まらせたまま、涙がこぼれた。
「子、龍・・」
涙混じりの哀願を込めてか細く呼ぶと子龍は怒ったような表情をし、次の瞬間には凛々しい眉を歪ませて嘆息して、中心を戒めていた手をゆるめた。
「・・・・卑怯な方だ、あなたは」
するりと私の両手の拘束を解き、中心に指をかけて擦りあげる。とうに限界を超えていたものはあっさりとはじけた。
声を抑えることもできず精を吐き出し、整わない息をせわしく吐きながらぐったりと寝台に沈んでいると、子龍が額ぎわの髪を撫でていて、その心地よさに目を閉じた。
実のところ私はそこで眠ってしまいたかった。
あの、尾てい骨が割れるような激烈な痛みと全てをさらわれそうな快楽は激しすぎて。
受け止めきるのは彼はいつも激しすぎて。
「あの・・どういたしますか。挿・・れます・・・・・・・?」
目を開けておそるおそる訊ねてみる。自然と上目遣いになった。
子龍は何か言いかけたが黙り込み、難しい顔をした。考えているらしい。
その様子から、いま働いた無体を反省しているようにも見えて、いかにも、今夜はもう、ゆっくりお休みください、軍師。なんていうセリフを言いそうな感じがした。
だが、顔を上げた彼が実際に言ったせりふはというと。
「・・・挿れます」
だった。
「・・・お嫌なのですか」
この人らしくなくひどく切羽つまった表情と口調に、眩暈を感じる。
声を出すなという要求を拒んだら、縛られた。
感じるかと聞かれて、否定的な感覚を訴えたところ、先ほどの無体だ。
ここで嫌だと答えたら、このあとの私の運命はどうなるのだろう?
この人はわがままだ。
わがままでなくてなんであろう。
私は目を潤ませた。
「軍師」と切なげにつぶやいて子龍が私の唇に指を這わせた。
「・・・私はあなたが好きです」
「・・・はい」
眉を寄せた真摯な表情で、吐息だけで子龍が返事する。
「俺も、軍師のことが」
絶句したのは、なぜだろうか。
「だから・・・いいです子龍・・私にあなたを感じさせてください」
万人が見惚れる美麗な容貌を言いようのない表情に歪ませて、堰を切ったように子龍が覆いかぶさってくる。
全体重をかけて押さえ込み、力任せにぐいと足を抱え上げられた。
「・・っ、ゆっくりしてください怖い・・っ!」
「優しくします、・・・・優しくいたします・・・っですから軍師殿・・・どうか・・・―――受け止めてください。・・・・俺を、拒まないで下さい」
いつも受け止めているのに。困った人だ。
返答の代わりに自由になった両手を彼の背に回すと、引き攣れたように鍛えた身体が震え、彼は短く荒い息を吐いた。
後日。
主公に、子龍はわがままだと、ふと洩らしてしまった。
主公は黒目がちの瞳を瞬かせてまじまじ私を見、それから悔しげに頬をふくらませた。
「私は、子龍にわがままを言われたことがない」
と。
何をかいわんや。
「いいな、孔明は。私も子龍にわがままを言われてみたい」
じと目でじぃっと見る子供っぽさに呆れ、困ってしまった私は目を伏せて微笑んだ。
通りかかった女官に水を頼むと、こころよく持ってきてくれた。
いいところだなぁと思う。
さきに身を寄せていた張魯のところではあんまり良い待遇ではなかったのだ。
劉備の人柄のせいなのだろうが、劉軍の陣営は気さくで親切だ。
ついに馬超は主君を持った。
本人に自覚はあるのかどうかちょっと不安だけど、涼州においては軍閥の盟主として立ち、流浪してからも軍を率いてつねに頭を張っていた馬超がもう首領ではなくなった。
まだ数千の兵は馬超を主として従っているが、それを養うのは馬超個人ではなくなり、その行く末も馬超個人に帰属するものではない。
馬岱の役割もこれ以後はかなり変わってくるはずだ。
「まぁ、俺は若に付いてくだけなんだけどね」
欄干のてすりにことりと杯を置き、馬岱ははふと息を吐く。
大量に呑んだ酒は体内を駆け巡っているが酔ってはいない。
巨大な宴会場と化した広間で張飛につかまってえんえんと呑んでいる馬超も同様だ。
とことん酒に強い家系なのだ。
広間に戻ろうかと一瞬迷った馬岱は広間とは反対方向の庭に降りた。
頭の後ろに両手を回して歩きはじめる。
酒が回った身体に夜風が心地よいから、ちょっと散歩してみよう。
成都の城は戦場にならなかったので、先の城主、劉璋が丹精した庭が無傷で残っている。
雅な趣で配置された樹や池や玉石には興味がなかった。
夜空には月がかかっている。
涼州でみるのとも漢中で見るのとも異なる、霞んだおぼろ月だ。温度と湿度との高い成都ではいつもこんな具合なのだという。
夜空に抱かれてほの白く輪郭をにじませる月を、馬岱はそれはそれで綺麗だとおもう。
たぶん馬超はそうは思わないだろうが。
ぶらぶらと、木々の合間を縫い築山の横を通り過ぎて小川をまたぎ越して馬岱は進んだ。
馬超もそうだが、馬岱も道に迷うということは一切ない。
清げな青竹が立ち並ぶ一角に入り、行く手をはばむ竹の葉を手で押さえて前に進もうとしていた時、前方からさやさやと月光がただよってきた。
「・・・・なんだろう、これって」
月のひかりが目に見えたのかと錯覚したが、正確には耳に聞こえてきていた。
なにかの音だが月に似ている。
きれぎれでいながら儚くはない。強くはないが芯が通る。遮蔽された空間で淡い光のすじが閃いているような印象を受ける。
音色に気をとられた馬岱はうっかり一歩を踏み出してしまい、ガサリと下草が無粋な雑音をたてた。
淡く翳る月のした、琴を弾いている人がいた。
解き流した髪は濡羽色をして肩に流れ、黒髪にかこまれた容貌は月とおなじくらい白い。
着ているものも白く夜闇にぼうっと浮かんでいた。
白い指先から紡がれる音色は、さやさやと発光しながらゆるい螺旋をえがいて天へと昇る。
鎮魂だ、これは――――弔いの曲だ
知らない曲であり誰に教えられたわけでもないのに馬岱には分かった。
音色に涙はなかった。
悲しみも痛みもなかった。
そこにあるのはひとすじの祈りだ。
「そちらにいらっしゃるのはどなたですか」
ながいながい曲を弾き終えて、琴から顔を上げたその人が静かな声で問うのに、馬岱はかなり場違いな頓馬な言葉を返してしまった。
「あ、人間だったんだね」
「・・・は?」
案の定、その人はけげんな顔をする。
もう音を立てても大丈夫そうなので、がさがさと茂みを掻き分けて出て行った。
「こんばんは」
「・・こんばんは」
帽子を取って挨拶すると、その人も返してくれる。
「月の精かとおもったよ。でも人間だねあなた」
「・・・私がだれかご存知ではないのですか、馬岱殿」
「知ってるよ。劉備殿の一の軍師諸葛亮殿。宴会の合間にはじめましてのご挨拶に行こうと思ってたら、若がいきなり張飛殿につかまってね。それっきり」
馬岱はぽいっと帽子を放り投げた。
くるくると宙を舞って落ちていく軌跡をけげんな表情で見守ってから、その人が馬岱に向き直る。
「はじめましての挨拶をしていい?きれいな軍師さん」
「・・・帽子、なぜ投げたのですか。それに樹に引っかかってしまってますが」
「平気、いっぱい持ってるから。でもあれはお気に入りだから後で取りに行くけどね」
不可解、と表情に書いてあるのにかまわず、馬岱は3歩ほど踏み出してその人をぎゅっと抱きしめた。
ぎくりと強張る背中をぽんぽんとあやすように叩く。
「誰か死んじゃったんでしょ、親しい人が。そういうときは独りでいちゃ駄目だよ。月の精なら放っておいたけどあなた人間だから傍にいてあげるよ」
月が傾くまでの時間ずっとそうしていた。
緊張感をただよわせていた背中からふっと力が抜けたのを良いことに、髪に触れてみる。
馬超の亜麻色のやわらかい髪も綺麗だけど、この人のつやつやした真っ黒な髪もすごく綺麗だ。
馬岱ははたと我にかえって首をひねる。
―――なんで俺、この人を若と比べてるんだろう
馬超にじゃれて抱きつくことは多々ある。
けど、こんなふうにしっとり抱くことはあんまりない。
それに身体が異様に細い。
武将である馬超と比べるのは間違っているんだろうけど、それにしたって腰なんて女人よりも細いかもしれない。
「ねえ軍師さんご飯ちゃんと食べてるの?」
腰のあたりをきゅっと抱いた馬岱は、懐疑的な声で聞いた。
「ああ答えなくていいよ、食べてないよね。ちょっと俺、広間に戻って喉通りそうなもの貰ってくる」
すっとんで行こうとした馬岱はでも出来なくて、ほとんど自分と同じ高さにある置いていかれそうな子供のような不安げな目をのぞきこむ。
「そんな顔しないで。すぐ戻るよ」
額にそっと口づけた。
「戻ったらご飯食べてね。食べながら亡くなったあなたの友だちの話を聞かせてよ」
馬岱はいきなり跳び、頭上の木の枝に手を掛けて身体を一回転させて樹の枝の上に乗り、周囲を見回す。予想通りの位置に広間の明かりが見えるのを確認して最短距離を割り出してから、振り返った。
「そこで待っててね。動かないでよ。もっとも動いても俺、たぶんもうあなたの居る場所は見つけられるけどね」
馬超の居る場所がだいたい分かるように。
この人がどこかに行ってしまっても見つけられる気がした。
―――うーんだからなんで俺、この人と若を比べてんの?
馬岱はぱっと木の枝から夜空に身を躍らせた。ふわりと一瞬浮いた身体を宙で返して別の樹の幹を蹴り、地上に降りてからは道なき道をひた走った。
果物?粥かスープみたいなもの?意外と肉食べるかも。酒もあったほうがいいかなぁ。
大荷物を抱えて戻ると、彼はおなじ場所にいた。
岩に腰かけて、手元では所在無げな琴の音が切れ切れにしている。さすがに足音を立てないわけにはいかなくてがさがさと騒々しく近寄ると、ゆっくり顔が上がった。
「・・・・その盆はいったい」
馬岱はにっこり笑った。両方の手に曲芸のように乗せた大きな盆がゆらゆら揺れる。
「あなた何が好きか分からなかったから、みんなに聞いてきた。みんな言うことが違って面白かったけど、ぜんぶ揃えて持ってくるのはけっこう大変だったかな。どこで食べようか、どこかに卓はある?」
困ったように眉を寄せた軍師が指して歩き出すのに付いていく。
竹林が風でさやさやと音を鳴らしている。通りぬけたところにこじんまりとした建物があった。のちに丞相府と呼ばれて諸葛亮の政庁となるその建物は、ひっそりと闇の中に白壁を浮かび上がらせていた。
正面ではなく脇の小径から、人が起居できるようにしつらえた居室に入る。
卓と椅子があり茶道具などが置かれているがまだがらんとしており、つい最近使い始めたようだった。
「どうぞ、馬岱殿」
遠慮なく居室に足を踏み入れた馬岱は持っていた盆を卓に置く。
「・・・・劉備様の好物と張飛殿の好物と趙雲殿の好物、ですね。あとひとつは・・・・・」
野菜と肉が入った薄味の炒め物と肉と米を炊き込んだこってりした飯と野菜と肉を煮込んで南方の香辛料で真っ赤になった鍋をつくづくと見て、諸葛亮がぼそりと言う。
「そうなの?」
馬岱は目を丸くした。
「俺ちゃんと諸葛亮殿の好物教えてよって聞いたけどねぇ。もうひとつは、あなたの好物?」
もうひとつは、蒸した魚の上に彩りのよい細切り野菜の餡をかけた上品な皿だ。
「・・・・・・・・・士元が、好きだったものですね」
諸葛亮はことりと卓につく。
「諸葛亮殿の好きな食べ物何って聞くと、みんな答えが違ったけど、好みの酒はなに?って聞くと、みんな同じ答えだったよ」
梅を漬けた果実酒をさいごに卓に置いて、向かい合わせに馬岱も座る。
座ってからふと気づいた。
「ねえ俺向かいに座ってよかった?」
「むろん、ご遠慮なく――」
「膝に乗せたげたほうが良かった?食べさせてあげようか」
まじまじと見られて、すこし行儀悪く卓に頬杖をついていた馬岱はきょとんとした。
「なに?」
「・・・いえ、あなたはどういう人なのかと思いまして」
「自分じゃ分からないな。どうでもいいし。俺がどんな人なのか諸葛亮殿が決めていいよ」
あいまいにうなづいた諸葛亮を尻目に、馬岱は箸を取り上げて料理に手をつけた。
お腹はすいていないが、宴席では呑んでばかりでさほど料理に手をつけなかったのでいくらでも入る。
ぱくぱく食べていると諸葛亮も箸を取った。
「亡くなった友だちは、どんな人だった?」
あらかた食べ終えて、箸を持ったまま馬岱は言った。
諸葛亮はずいぶん前から箸を置いている。目を伏せた彼は、指先でつまんだ酒杯を揺らした。
「士元は―――」
かたりと椅子を鳴らして立ち上がった諸葛亮は窓辺に向かった。
おぼろに霞んだ月が浮かんでいる。
馬岱は箸を置いて、杯に酒を注いだ。
「士元は、すこしあなたと似たところがありましたよ、今ふと思ったのですが」
「ふうん?」
「意外性のあるひとでした。気さくで飄々としていて、誰とでも親しめる人ではありませんでしたが、私のふところには不思議とするりと入ってきてしまって・・・」
「ふんふん」
「強引なところもありましたね、平気な顔をして無理をして。戦場に出ないでくれと何度も言ったのに―――弓兵に討たれるなど・・・・・・そんな死に方をしてよい人ではなかったのに・・・・士元は軍政よりも行政のほうに向いていたのです・・・これからという時に」
立ち上がった馬岱は諸葛亮の肩をそっと抱いた。
力を加減して、その背が自分にもたれかかるようにさせる。
「馬岱殿、・・・あなたは何故」
「俺のことなんてどうでもいいでしょ。もっと聞かせてよその人のこと。出会ったときから全部がいいな、まだ夜は長いんだから」
馬岱はひと晩かけてホウ士元の生き様と死に様と諸葛亮との出会いと何も持っていなかったかれらが夜を徹して乱世の後の世を語ったことを聞いた。
それが出会いだった。