世に、春眠暁を覚えずとやらいう。
乱世の姦雄、曹孟徳の比類なき珠玉、荀令君こと荀文若。欠けたところのない満月のようにすべてが整ったかれに欠点があるとすれば、それは寝穢いことである。かれは睡眠をこよなく愛す。つまり朝になってもなかなか起きない。
「おい、文若。そろそろ起きなければ」
同衾していた主君のほうが、ごそごそ起き上がった。
荀彧が寝穢いのはいつまでも眠りを貪っているという一点だけであって、かれの寝相は端正である。
あくまで端然とした寝姿に、曹操の好奇心が触発された。
黒絹のような髪をすいとはねのけて秀でたひたいをすいすいと撫でるが、荀彧はぴくりともしない。
品のいい耳朶をつまんでくりくりとくすぐるようにすると、たぐい稀な智臣は妙なる声であえいだ。
「うぅ・・・ん」
おお…!
曹操はひそかに慨嘆した。
眠っていても弱いところは同じなのか!
―――あたりまえである。
しかし曹操は大発見した子供のように喜び、かつ興味深く実験をくりかえした。
「主公~。なにソワソワしてるんすか?」
朝議の席で、あくびをしながら郭嘉が言った。ひとり寝のぜったいできない男だが、こうして時間通り朝議に出席しているところをみると、夕べ同衾したのは陳羣であったのだとおもわれる。
「主公~、荀彧殿のアレ、ちょいヤバじゃないすか?」
自分の首すじを指先でとんとん叩いて示して、郭嘉が言う。
曹操はうっと息をのみこんだ。
「気づくか、やはり」
「ほかの奴はどうかな~。おれくらい目端の利く奴じゃなけりゃ大丈夫でしょうけど」
荀彧の耳のうしろがわとうなじがわの首のつけねに、今朝つけてしまった赤い痕。
「ふぅ~ん、あれが荀彧殿の弱いところかあ」
「あんまり、見るな」
「いいじゃないですか、減るもんじゃなし」
「おまえに限っては減りそうだ」
ひどいなあ、と郭嘉はあくびする。
朝議は、なかなか終わらない。