晩秋の日は暮れるのが早い。
夕方、西日がまぶしいなあと思いつつ調練を終えて馬の世話やらをしているとすぐに真っ暗になる。
特にこの日は軍務が立てこみ、調練の後処理のあとで軍令書の仕分けや返信などの事務仕事なんかもしていると、すっかり夜が更けてしまった。
「寒くなってきたなぁ~」
歩いて家に帰る馬岱は、実はちっとも寒いなんて思っていない。
なにしろ北方の沙漠育ちである。凍り付いた砂塵が刃のように吹き付け、馬を走らせれば皮膚が傷だらけになってしまうような荒涼とした厳しい故郷の風土に比べれば、成都の秋の冷えなんてへっちゃらなのだ。
馬岱は帽子の後ろで両手を組んでほてほてと歩きながら、鼻歌でも歌いだしそうなお気楽な調子でつぶやいた。
「こんな日はあったかいお風呂がいいよねぇ!」
ということで、馬岱は薪を用意する。
ちょうどよく厩舎を建てなおしたばかりで古い木材がたくさんある。いい感じに乾燥しており、薪にするにはもってこいだ。
風呂を沸かす釜にばかばか木材を放り込み、ばったばったと風を送ると、最初ぱちぱちと控えめな音を立てていた火が景気よくぼうぼうと燃えはじめる。
「ぅ~っとあれ?熱いのとぬるめなの、どっちが好きかな?」
馬岱は風呂は熱めが好きだけど、彼はどうなんだろう?
今度いっしょに入って聞いてみようか?
ん、いっしょに入る?
彼と?
ぅ~ん。
ものすっごい酔わせでもしないと無理かも。っていうか、酔ったところ見たことないなぁ。
いやいやそのくらいいっしょに入らなくても聞けるか。
今日聞いてみよう。
「というわけで諸葛亮殿、うちの風呂に入りにきて」
風呂は熱めに焚いてきた。水を足せばすぐ調節できるように。
「ごはんもあるよ。どっちが先が良い?」
さすがにごはんは馬岱が用意したものではない。野戦料理ならめっぽう得意なのだが。
酒も用意してる。
もしかしたら酔わせることができるかもしれないし。
もしかしたら酔わせることができた彼といっしょにお風呂に入ることができるかもしれないし。
詳細に描かれた地図を眺め、諸葛亮は唇のすこし下で指を組み合わせていた。
灯火の炎が揺れ、地図に陰りが落ちる。
灯火は揺れるだけでは済まず、かすかな音を立てて消えてしまった。
すこし驚いて顔を上げると、どうしてか机の遠いところにある灯火も、今にも消えそうだった。
・・・・・・油が?
立ち上がって見てみると、火をともす燃料である油がどの灯明皿からも消え去っている。
「・・・・?」
侍従たちが足し忘れたのであろうか。そんなことはあまり無いのだが・・・・
「というわけで諸葛亮殿、うちの風呂に入りにきて」
こんこん、と廊下ではなく庭に通じるほうの窓を叩く音がして、ぱたんっと窓が開けられ、白いふさっとしたものが覗いたとおもったらそれは帽子についた房飾りだった。帽子の下からひょっこりと顔をのぞかせたのは・・・馬岱だ。
”というわけ”って、どういうわけなんだろうかと一瞬だけ考えたが、諸葛亮はすぐに考えるのをやめてしまった。
馬岱の思考はすこし特殊で考えても分からないことが多い。
「ごはんもあるよ。どっちが先が良い?」
「いえ。・・・まだ政務が」
「だぁめ」
残っている、と続けようとしたが窓わくに頬づえをついた満面の笑みにさえぎられた。
「だいたい油がもうないでしょ。いくら諸葛亮殿でも明かりなしに政務は執れないよねぇ。だから帰ろ」
「・・・・・・なぜ、油がないのを知っているのです?」
「諸葛亮殿の執務室の油、夜になったら無くなるような量にしといてねって、みんなに頼んだからだよ、もちろん」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
ひょい、と身軽く室の床に足をつけた将の顔を見ると、ふいと髪に口づけされた。
「髪、伸びた?諸葛亮殿」
「はあ、まあ・・・そろそろ、切らなければ」
「切るの?」
「伸びすぎると、冠が重くなりますので」
「俺が切ったげようか」
「・・・あなたが?」
「うん。俺、刃物全般得意だよ」
馬岱は執務机のわきに立っている細身に両手を回してぎゅっと抱きしめた。思った通り冷えている。
装束が重々しいからぱっと見は分からないが諸葛亮の身体は薄い。そしてちょっと心配になるくらい熱がないのだ。
あ~はやく連れて帰ってお風呂入れたげたいなぁ。
と思ったと同時に、部屋を照らしていた炎がゆらゆらと頼りなく揺れて、ふぅっとかき消えた。
「うん、消えたね。じゃあ帰ろうね、諸葛亮殿」
たっぷり数秒間を沈黙した諸葛亮はふぅと息を吐いて目を伏せ、ほんのすこし微笑んだ。
「・・・今日だけですよ」
「ええっ」
馬岱はびっくりして目をみはった。
「そうなの?俺、明日も明後日も同じ手を使うつもりだったんだけど」
帽子を取ってがりがりと頭を掻き、またかぶりなおす。
「まぁいいや。明日はまたなんか考えるから。とりあえず今日は帰っちゃおうよ。そうだ、諸葛亮殿、風呂は熱めとぬるめとどっちが好き?」
::性描写があります。閲覧ご注意ください::
「・・・買い物というと、市場に行かれたのですか」
「さあ?どれが市場かが分からないなぁ」
「・・・・・城のどちら側だったのですか」
「西、だったけどね」
「ああ・・・ということは、商業地区ですね、あのあたりは少し区画が粗くて・・・・いずれ道を整えようと思っているのです。そうすれば北からの物資が流入しやすくなるかと――」
「諸葛亮殿」
「・・・・・・・・・・・・・はい」
「一晩中おしゃべりしたいんなら付き合うけど・・・・・けど、けどさあ。・・・・・俺は別のことがしたいよ・・」
諸葛亮は黙った。
黙って、そして。
「はぅっ、あっ・・・・ぅん・・っ」
ちょっと待て、と思う。
なんなのだ、この状況は。
寝台の上で、諸葛亮は膝立ちになっていた。向かい合った馬岱が宝物でも抱くように諸葛亮の腰をきゅっと抱きしめ、もう片方の手を奥処をまさぐっている。
挿れられては香油をなじまされ、抜かれてはあらたに香油をからめて差し入れられた。
「ぁあ、・・」
また馬岱が香油を足し、ゆっくりと指を埋め込んできた。
寝所にはいったころと比べればその指は格段にすべらかに中に入ってくる。
くちゅ、と音を立てて埋め込まれた指が動かされた。
「・・・ぁあ・・っん・・!」
逃れようと腰を動かすと中の指を締め付けてしまい、その刺激で声を上げてしまう。
声を抑えようとすると、内部の異物に意識がいってしまう・・・
どうすればいいのかもう分からない。
「すごく・・・・なか、熱い」
諸葛亮の肩口に顔を埋めていた馬岱が、ぼそりとつぶやく。
いつものふざけた口調じゃないのが余計に状況の尋常じゃなさをかんじてしまう。
奥のほうをさぐられて、背がびくりとしなった。
じゅくじゅくと濡れた音がするのがたまらなく居たたまれない。
出し入れされる指の数が増えたが、抵抗はほとんどなく受け入れてしまっている。
「はぁ・・・俺・・・どうにか、なりそうだよぉ」
はぁ?とおもう。
なんでだ。だって、どう考えてもほんろうされてるのはこっちだ。
指がゆっくりと埋め込まれながら回され、同時に襟からこぼれた胸の突起を含まれて、舌で転がすようにゆっくりと何度も口付けられた。連動するように下肢の奥でも動かれて。
「・・・・ぁ!、ぁあっ・・ん・・!」
媚薬入りじゃないと言った。
ウソでいいから媚薬が入っていると言ってくれたらよかったのに。
もちろん、そんなもの使われたくないけど。
「も・・もう・・・その・・・よろしいかと、おもいますが」
蚊の鳴くような声で訴えてみた。
「駄目だよ」
胸に顔を埋めたまま、くぐもった声での返答があった。
「・・・傷つけたくない」
そんなところでしゃべらないで欲しい。
肌蹴られた膚に息があたるのさえ、熱があがってしまう・・・。
熱をすこしでも逃そうと目を閉じ、上気した息を吐いた。
「・・・岱・・どの」
執拗に奥処を嬲っていた指が止まった。繰り返されていた舌での愛撫も。
「うわ・・・諸葛亮殿、それ反則・・・俺、もういっちゃいそう」
「わ、私も・・その・・もう」
ふたりしてぼそぼそとささやきあう。
目が合って、血がのぼった。顔にも頭にも。
「・・・挿れて・・・い?」
切羽詰まっていて何も考えられないままこくりと頷くと、背骨がきしむほど抱擁された。
日が暮れたからだいぶ経った。
うずたかく積まれていた書簡は減り、残すところ数巻となっている。
書棚に向かって立っていた諸葛亮は、窓から聞こえたカサという音に振り返る。
何も起こらなかった。
窓から目を離して、書棚から抜き取った数巻を机に運び、つぎつぎと開いた。
ここ3日、執務のはかどり具合はよくなかった。
計算違いのことが起きて、思うように仕事がさばけなかったのだ。
そのことを思うと、すこし胸苦しい。
甘いような苦しいような・・・・・これが恋とかいうものなのか、と諸葛亮は自分の心持について不思議に思う。
人を慕うということはこれまでもあった。
家族のことは愛していたし、人よりすこし少ないかもしれないが友情も得た。敬愛する主君を持ち、信頼できる仲間ができ、好敵手だとおもえる人物も何人かいる。
だが、そのどれとも異なる、心情がある。
その心情のせいで、諸葛亮はここ3日の職務に支障をきたしていた。
心というか―――その心によって、行われた行為によって。
―――――戦場では、日常茶飯事なのだという、男同士の交情。
それが諸葛亮には少なからず、負担がかかった。
よくあんなことをして、平気だな、武将や兵士というものは、とおもう。
あれのあと、馬に乗ったり剣や槍を振り回したりできるというのは、自分とは次元が違う肉体を持っているとしか思えない。
というか、多分、馬に乗ったり剣や槍を振り回すのは、きっと突っ込む方なのだろうな、ともおもう。
だって現に、突っ込んだほうはぴんぴんしているのだから・・・・
私は身体のあちこちに支障をきたし、執務さえ滞っているというのに・・・・・・
そこまで考えて諸葛亮は手を額に当てた。
額に触れるといつもよりうっすらと熱い。まさかとは思うが赤くなっていたりするのだろうか。
その時、かたりと窓が音を立てた。
諸葛亮は息を吐き、吸う。
だけど何も起こらない。先ほどと違って気配は確かにあるというのに。
「・・・・・・・」
諸葛亮は立ち上がり、窓を開けた。
「諸葛亮殿ぉ」
へにゃりとした笑顔に出会う。
本当に、へにゃり、としか言いようのない笑顔である。
「・・・・何でしょうか」
「え~~っとね、うん、用はあるような無いような。いやあるんだけど、邪魔なら帰るよ」
「・・・」
邪魔だ、と言ったら、本当に帰るのだろうか。よく分からない。
「・・・あと少しで終わると思いますが。待ちますか」
「うん、待つ。俺のこと気にしないでね」
「分かりました」
諸葛亮は机に戻り、書簡を開いた。今宵はもう筆を取る用はないはずだったが、文章に気になるところがあり、短冊に切った布に気になる要点を書き付けて書簡にはさむ。
それを数度繰り返すと、あとは特に気になるところもなかった。
書簡に目を通しながら、諸葛亮はつぶやいた。
「今日は、何を?」
「俺?」
窓の外に立っている男が、聞き返す。ほかに誰がいるというのだ。
「非番だったのでしょう」
書簡の一巻きを片付け、もう一巻きを手に取って開く。それが最後の書簡だった。
「え~と――――――・・・・・買い物、してたよ」
「そうですか」
かるく言いつつ、返答までに大きく開いた間が気になった。
「なにを買ったのですか」
「まだ執務中だよね」
「たったいま終わりました」
読み終わった書簡をきりりと巻きなおし、揃えて重ねる。
ひょこ、と窓から顔をだした馬岱がきょろきょろと部屋を見渡す。
「・・・・何を探しているのですか」
「羽扇、持ってないの?」
「必要ですか?」
「全然」
執務を終えたと言ったのに馬岱はまだ室に入ってこない。というか、いつもは執務中であっても平気で入ってくる。
室内から見下ろす諸葛亮と目が合った馬岱は、へにゃ、と笑った。
「・・・・なんなのですか、あなたは」
「これ、買ってきたんだよね」
へにゃへにゃともう顔面が崩壊してしまっているが、なんとなく、そんな笑い方も似合っているように思える。
馬岱が懐からこそっと出してきたのは、何の変哲もない小壷だった。
贈り物というには無骨である。
「・・・?」
「いやほら・・・・あのさ、諸葛亮殿」
馬岱がいやに声をひそめたので、諸葛亮は窓の側に立った。構造的に、外にいる馬岱のほう位置が低いので、彼は帽子を押さえながら伸び上がっていた。
「あのあと、・・・・諸葛亮殿、身体がつらそうだったから」
諸葛亮は沈黙する。
あのあと、とはやはりあの行為の後のことだろうか。・・・確かにかなりつらかった。しかし誰にも気づかれていない。執務は平常通り続けていたし、多少滞ったといってもそれは対通常諸葛亮比であって、常人には神速とおもえる速さで処理を続けていたのだ。
「だから、・・・香油」
爆弾を落とすようなことをぺろりと言うものだから、諸葛亮は2,3度またたいた。
そして徐々に顔に熱が昇るのを感じた。
諸葛亮は普段あまり性欲を感じない。
彼とした行為も、身体の欲を求めたわけではなかった。
それをすることで彼の器に、欠けているなにかを注ぐことができればいいと感じたのだ。
詰まる所諸葛亮にとってその行為は、凍えている人がいたので温めた方がいいかと思った、というような心情で行ったのであって、その心情の意味についてその時あまり考えていなかったのだ。
行為のあとで、彼に「好きだ」と言われて考えた。
自分はなぜ、彼にそのような心情を持ったのか、と。
「怒らないの、諸葛亮殿。俺、ビーム打たれるの覚悟してたんだけど」
だから羽扇の場所を確かめたのか。
打ってもいいが、多分打てない。
ますます顔に朱が昇るのを感じる。
恥ずかしい。・・・・・・・いたたまれない。
いったい何なのだ。
「ええと・・・・・安心して、諸葛亮殿。媚薬入りが流行ってるって勧められたんだけど、それは断ったから」
「・・・・・・・・」
この人は私をどうしたいのだ・・・・・と考えて、愕然とした。
香油って、あれのときに使うのだろう。
誰も気づかなかった諸葛亮の身体の不調を、当事者である馬岱だけ気づいた。で、気づかってわざわざ休日に買い物に行った。壷がやけにそっけないのも、諸葛亮が構えないようにだ、おそらく。
ってことは・・・・それって・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・要するに、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・今夜もしたい・・・・・・・・・・・・・・・って、ことだ、多分。
諸葛亮は窓から離れた。
なんてことだ、とおもう。
気づくのが遅すぎる。いかに色事に疎いとはいえ・・・・これが戦だったらとっくに領土に攻め込まれている。
そして気づいた。
馬岱がこの期に及んで部屋に入ってこない、つまり諸葛亮の領地に攻め入ってこない理由――――彼は、選択権を諸葛亮に与えているのだ。
「ねえ、諸葛亮殿」
窓の外から声がした。
「さっきも言ったけど。・・・邪魔なら帰るよ」
諸葛亮はほんの一瞬の誘惑に駆られた。
執務がまだすこしあるのです、と言うだけで。この恥ずかしさや居たたまれなさから開放される。
彼は「うん、分かった」とでも言って消えるだろう。
そしてきっともう二度と来ない・・・かもしれない。
・・・・・だからといって、こうあからさまに誘われているものを、「お入りください」などと言うのも。
諸葛亮はこほんと咳払いする。
「・・・・・・・・お入りください、馬岱殿」
きっと、あの時。
亡くした士元を悼んで琴を鳴らしていた夜。
この心を包まれたのだ。
「・・・・・・・・・いつまでも窓を開け放しておくと、虫が入ります。夏なのですから。さっさとお入りなさい」
窓に背を向け。机に置いたままになっていた筆や硯を片付けはじめる。
音はしなかった。ただ風が吹いただけだ。
風が吹き、止んだあと、諸葛亮は背後から抱きしめられていた。
「馬岱殿・・」
しろい手が伸ばされ、馬岱の頬に触れた。
心が震えるのはただ慕わしいからだと諸葛亮は言った。まったくその通りに名を呼ばれるだけで震える心・・・・指先でそっと触れられると、身体の奥底まで震える気がした。
目を開けていられなくなって閉じると、手の甲のがわの指が、頬やまぶたや頤の線を辿っていく。癖のつよい髪をやわらかく撫でつけられて馬岱は目を開けた。
そのままゆっくり顔を下げていく。拒もう思えば十分に逃げられる間をとって落としていった唇は、避けられることもなく近づいていく。触れる寸前で視線を上げれば、諸葛亮は目を開けていた。触れるだけの口づけをすると、その目はすぅと閉じられた。馬岱も目を閉じて、唇を合わせる。
触れ合わせたままでいると、諸葛亮が身じろいだ。
「草が肌を刺すもので・・・・」
「・・・あーうん、そりゃそうだよねぇ」
折りしも初夏だ。草の葉はしゃきしゃきと勢いよく尖っている。
馬岱は身体を起こして上衣を脱ぎ捨てた。諸葛亮の二の腕を掴み、すこし引き上げる。
「・・・部屋に戻った方がいいのかもしれないけど、戻らない。もう、離したくない。・・・・あなた、消えてなくなりそうだし」
草の上に衣を敷き、起こした身体の背に手を廻して顔同士を近づける。
「・・・・・ねえ、諸葛亮殿。いいの?・・・これ以上やっちゃっても」
わずかに頷くのを確認し、馬岱は肺を吐き出すような大きな吐息をつき、腕を回して抱きしめた。
「諸葛亮殿・・・って、男だよね」
「まあ、・・・そうですね」
「あのさ、俺、・・・男とするの初めてなわけなんだけど」
噴きだすような感じで諸葛亮がすこし笑った。
「奇遇ですね。私もですよ」
「笑いごとじゃないと思うなぁ」
笑みを大きくした諸葛亮が、手を伸ばしてくる。
「では、私はここまででかまいません」
しろい手で髪を梳かれて、馬岱は息を止める。あわてて言った。
「いやだよ!絶対、するからね。覚悟してよ?諸葛亮殿」
諸葛亮の文官衣の上から、全身に手をすべらせる。
触れられるとは正直、あんまり考えていなかった。馬岱は基本的に、叶わない夢は見ない。
口づけをだんだん深くしながら身体を触れ合わせ、諸葛亮が自分の体温に慣れるのを待った。
唇が離れると、はあ、と諸葛亮が息を吐く。吐かれた息が潤んでいるのが扇情的で、身体の奥底がぞくりと疼いて、体温が上がる気がした。
文官衣の帯を緩めて、襟のあわせも乱して手をさしこむ。
ためらいがちに肌に触れて、馬岱は手を止めた。
諸葛亮の左の胸骨の上――――そこは脈を打っていた。鼓動はかなり、速い。
(あ~・・・・・・)
馬岱はなんだかとても驚いた。
「俺もいいかげんどきどきしてるけど、・・・諸葛亮殿も、だね」
「それは、まぁ・・・」
「―――生きてて良かったな、と今ちょっと思うよ。俺・・・あなたに会えて良かった。この先、必ず、守るから。なにがあっても、かならず守るよ」
諸葛亮は真顔になって、そしてすこし辛そうに眉を寄せて、それから微笑んだ。心に水が沁みこんでくるように。
「私も、あなたを守りますよ。―――あなたがあなたでいられるように」
馬岱は一瞬驚いた顔をし、そしてすこしだけ眉を寄せ、それから泣き笑いのような顔になって微笑んだ。
「うん」
引かれ合うように口づけて、それからは無言になった。
外であるので、衣を落とさずにゆっくりと身体をなぞり、確かめて。
気の遠くなるような時間をかけて、初めての身体を解していった。
涼夜であるのに馬岱は汗だくで、しろく体温がなさそうにも見える諸葛亮もうっすらと汗ばんでいて。
それからまたたいへんな時間をかけて繋がった。
土の上に寝かせるわけにはいかなくて、膝の上にすわらせたかたちで、背後から身体を合わせて抱きしめた。
馬岱の額から落ちた汗が、しろい膚におちて流れるのが妙に扇情的で。
馬岱もどくどくと派手な脈を打っていたが、背後から手のひらを這わせた諸葛亮の鼓動もものすごく速くなっていたのがなんともいえず嬉しかった。
「・・・諸葛・・亮・・殿、大丈夫?辛くない・・・?」
さすがに普段の冷静さをたもっていない諸葛亮が、うなづく。
「大丈夫・・ですから、岱・・どの」
馬岱が覚えているのは、ここまでだ。
それからのことはあまり記憶に残っていない。
ただ、熱い、思っていた。
繋がっているところも、触れている手も膚も。それ以上に心が。
とろけるように、熱かった。
怒涛の時が終わり、静寂が戻ってきてから、馬岱は諸葛亮のこめかみに口づけた。
「好きだよ・・・諸葛亮殿」
馬岱の予想では、きっと諸葛亮はまたすこし微笑んで「おや」とかなんとかいうのかと思った。
だが、おぼつかない手で衣を整えようとしていた諸葛亮はひどく驚いたように沈黙し、それから―――あろうことか、赤くなってうつむいた。
馬岱も絶句する。
夜目が利く馬岱は、見えてしまうのだ。なんともいいがたい表情も、染まった頬も。
諸葛亮が、意を決したように顔を上げた。
「・・・・・・・・・・・・私も・・・です。その・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・好き、です」
言ったきり、諸葛亮は向こうを向いてしまい、馬岱と目を合わせてくれない。
しばらくぼぅっとしていたが、徐々に衝撃から覚めた馬岱は、飛び上がるようにして背後から抱きついた。
「うん、諸葛亮殿・・・・・でも俺のほうが好きだから。安心していいよ」
なぜだか情交をするときよりもうろたえてしまった諸葛亮を抱きしめて、馬岱は彼に口づけた。
馬超は正式に劉備に臣従し、平西将軍になった。
諸葛亮は兵舎の回廊から調練場を見下ろしていた。趙雲の軍、そして新参の武将、馬超の軍が、もうもうと土煙をあげて行き交っている。
馬超の軍は寡兵。入蜀してからまだ兵を足していないため、今まで彼が率いてきた涼州兵のみで構成されている。
寡兵だが精強だった。
馬軍は、趙雲の軍とは趣きがおおきく異なっている。兵装から馬具、兵の顔つきにいたるまで。
そして動きのひとつひとつが―――苛烈である。
熟練というなら趙雲の軍であろうが、峻烈をきわめているという点では馬軍が際立っていた。
「あ、・・・あぶないッ・・!」
諸葛亮の後ろにひかえていた文官が思わず声を上げる。
突出した騎馬がぶつかり合っていた。前線の兵がばらばらと馬から落ちる。それでも馬軍の突撃はやまない。先頭の馬を駆けるのは、馬超その人だ。
「・・・調練でありましょう!?無茶苦茶だ」
・・・兵の練り方が、根本から異なるのだ、と諸葛亮は思う。
趙雲の軍は、10の力を最上とするならば、6、7の力に合わせて兵を組んでいる。弱いものの力を引き上げ、ずば抜けて優れたものはやや力を抑えるようにして。
それで全体として厚みが出て、均整が取れ、容易に破られることのない強兵になっている。
馬超の軍はおそらく―――馬超をすべての基においている。馬超に付いてこられる者だけが軍をつくり、すべての動作は馬超を頂点として、馬超を見つめている。
兵も馬も、ただ1人を見て・・・駆ける。
馬超は異民族の血が濃い。
益州―――蜀の地は、周辺を漢族ではない部族に囲まれ混血も進み、漢族と異民族の入り混じる、複雑な政情の土地だった。
その地で、馬超の血と、武名は大きい。漢族の支配地から一歩はなれた異民族の居住地では、馬超は熱烈に歓迎されるだろう。王侯のように。
現に成都は、馬超が劉軍に参戦したという一報によって、開城した―――・・・
蜀の地ではめずらしくもよく晴れた宵になった。
夕闇にいくつかの星が瞬いている。
「―――軍師殿」
諸葛亮はひとり、宮城城壁で空を見上げていた。
「なにをなさっているのだ」
「・・・・星を見ておりました」
「星か―――」
馬超も空を見上げる。このように星が明るく瞬いているのは、たしかに珍しかった。
「星を読んでおられるか」
「星を、読む?」
「星になにかを聞いておられるのではないのか?」
諸葛亮はひくく笑った。
「星になにをきいても、答えてはくれません。・・・答えは自分の中にしか・・・・ありません」
「―――なるほどな」
馬超の具足が鳴った。宵だというのに彼は武装を解いておらず、長身で雄偉な体格にまとった白と金の大鎧が、勇ましくも美しかった。
荒々しく引き締まった表情とはうらはらに、横顔は、どこか繊細さを感じさせる。
となりに立った馬超は星から目をはずし、諸葛亮に向き直った。
「―――俺は今から馬を駆るが。・・・・一緒に、来られるか、軍師殿」
諸葛亮は彼に目を当てる。
名流の出自、血筋、輝かしい武勲、凄惨な敗北、錦と呼ばれる振舞い、容貌、まっすぐな性情―――そういうもので構成された彼を。
馬上にあれば鋼鉄の槍を苛烈にふるう手が、差し出される。
「もっと天が近い地に連れて行ってやる。星が、もっとよく見える」
この手を取れば――――得られるものはおそらく、大きい。
諸葛亮は目を伏せ、かるく頭を下げた。
「・・・・・あいにく、今宵は用がございます」
「そう―――か」
馬超はうすい苦笑をもらし、差し出した手を握り締めた。
去っていく背を見送り、その気配が消えてから、諸葛亮は眼下を眺めた。
街や村では家々に灯がともっている。夜警の兵が出はじめた城壁から、離れる。
軍師府にも居室にも、戻りたくなかった。
城内のひろい庭園には、成都をぐるりとかこって流れる錦江から水を引いている。
清らかな流れがしずかな音を立て、いずこともなく流れていく。
樹木が茂り、もう星は見えない。
せせらぎがあつまり沢になっているところで、諸葛亮は足をとめ、おおきく、ため息をついた。
「・・・・・・ため息つくと、幸せが逃げちゃうよ、諸葛亮殿」
目を見開いた諸葛亮が足元を見ると、革の長靴をしつらせた足があった。一本は長々と伸ばされ、一本は曲げて膝を立てている。
諸葛亮は息を吸い、ゆっくりと吐くと、一歩を踏み出す。
こんもりと茂った木蔭に彼はいた。
襟も袖も無造作に乱した平服で、武人らしいしつらえといえば手首に巻いた鉄甲くらい。
「お久しぶりですね」
「ええーーそうだっけ?」
すっとぼけた返答に諸葛亮は目を細める。
うるさいくらい執務室にやってきていたのが、あるときを境にぱったりと来なくなった。
「最近・・・・ここに居ることが多いよ。面白いものが見れるんだ」
「蛍、・・・・・ですね」
「蛍っていうんだ、なにこれ」
「虫です。幼虫のころは水や湿地で過ごし、成虫になると夜に飛び、ある時期になると発光します。・・・・蜀に、いたのですね。私も成都で見るのは初めてです」
「ふうん・・・・そっか、虫なんだね」
ぱたりと身体を倒して、頭の後ろで両手を組み、馬岱が地面にあおむけになる。
癖のつよい髪に草がからまるのには、まったく頓着していない。
話し声がやむと、静寂につつまれた。
黄緑に発光する小さな物体が、3つ、4つとあたりを浮遊していた。
長い長い沈黙。
馬岱と同じくらい無造作に、諸葛亮は草むらに腰下ろした。
片方の膝を立て、その上に肘をついて頬づえをつく。
ほのかな光がゆるやかに行き来する。
ながいながい時間、水の流れる音だけが響いていた。
「・・・ねえ、これってどんな拷問なの、諸葛亮殿」
「・・・・・拷問?」
諸葛亮は水辺をみつめる。
「私といることが、拷問ですか・・・馬岱殿」
ぎゃあという不甲斐ない悲鳴とともに、馬岱ががばっと身を起こす。
「うん、すごい拷問だよね。馬岱殿、とか呼ばれるのもさ」
馬岱が表情と姿勢をあらため、諸葛亮に向き直る。
「今日の調練の若、かっこよかったでしょ」
「・・・・見事なご手練ではありましたね」
「若って、顔いいんだよ、ぱっと見た感じはねぇちょっと怖いけど、ちゃんと見ると整っててさ、目の色とか見たことある?」
「今日、見ました。淡く透き通るような金色でした」
「脱いでもすごいんだよ、知ってる?」
「それは、知りません」
馬岱はひくりと表情を動かすと、へらりと笑った。
「若はお得だよ~~性格はちょっと面倒くさいけど、血も名も顔も身体も槍も絶品!どれをとっても最高品質なのは、俺が保証するから」
「血筋がよいから、名が高いから、容貌が立派だから、身体が美しいから、武技がすぐれているから、人は人に惹かれるのですか?・・・・なにかと比べて選ぶのなら、別のすぐれたものが現れると、心は移るということでしょうか」
諸葛亮が、すぅっと手をのばす。夜を裂いて白い指先に自分に伸びてくるのに、馬岱は目を開いた。
諸葛亮の指先は馬岱の頬をかすめ、癖っ毛にまといついた草の葉をつまみとった。
「太陽も月も星も・・・それぞれに輝き、また人の営みに役立ちますが・・・・では、蛍のような仄かな光には、まったく価値がないとでも?」
つまみとった草の葉を諸葛亮は息を吹きかけて飛ばした。
「・・・・・・・・人の心を震わせるのは・・・・・容姿でも能力でもなく・・・・・」
細い刃のような新緑の葉は、すらりと風に乗り、水の上に落ちてゆく。
「ただ、慕わしいという想いだけ・・・・です」
水をみつめる諸葛亮は、背後から両腕に包まれた。肩口に額がつけられる。
黙っていると、腕の力はどんどん強くなった。
それでも黙って動かずにいると、ついにはぎゅっと身体に腕を廻された。
わずかに首を動かすと、肩に埋まった顔の表情がすこしだけ見えた。
「・・・・貴方の笑っていない顔を見るのは、はじめてな気がします」
肩が揺れたが、顔は上がらなかった。
「・・・笑ってたほうがよければ、ずっと笑っていようか。今はムリだけど」
「どちらでも。・・・どちらでもよいのです、それが貴方であるかぎり」
くぐもったうめきがもれ、ぎゅっと抱き締められたあと、唐突に身体が反転する。
草むらに身体を押しつけられ、見上げれば見たことのない表情の馬岱がいた。
「ねえ・・・なんで嫌がらないの。はやく逃げてよ、諸葛亮殿」
笑みもなく余裕もない、切羽詰った表情。押さえつける腕は将であるだけにさすがに強い。
「なにされるか、分かってないの?」
諸葛亮は視線をすこし動かした。馬岱の背後に蛍が飛んでいる。
ふよりふよりと、すこし頼りなく。
諸葛亮はちいさく微笑んだ。