*できてない趙孔
別動隊として行軍していた趙雲は、夜になって本隊と合流した。
湖のほとりに野営の支度を終えた頃には、既に夜更けになっていた。
せっかく水辺であるなら水浴をするかと、昼間に到着していた本隊の兵に声をかける。
水はどうか、危険なところはないか。
「澄んできれいな水です。昼に到着した我らも水浴びしましたが、危険はありませんでした。ただ―――」
「なにかあったのか」
「主公が、軍師殿になにかしきりに怒鳴っておられまして―――張飛将軍が、主公をなだめておられました」
「原因は?」
「お声までは聞こえませんで、分かりません。主公がなにかお叱りになったようで、軍師殿は、気落ちなさった様子に見えました」
「趙将軍!」
その時、軍師付きの護衛兵が血相をかえてやってきた。
「軍師様が、湖に入られました」
「こんな夜にか」
まったくあの人は、と目をすわらせた趙雲の前に膝をつく兵の顔色が悪い。
「水浴をなさると仰せなのですが、――衣を着たまま水に入られまして、ご様子が」
「ご様子が、なんだ?」
「‥‥まるで入水されるようで、その」
趙雲の周りで固唾をのんでいた兵たちが、一斉に口を開く。
「入水って。自死なされようとされてるってことか?」
「あの軍師殿が?」
「いや、ねえだろ」
「ねえな」
「朝餉の材料探してる、とかじゃねえのか」
「なんか実験をされてるとか」
月夜である。
水に入った軍師の姿が月光にぼぅっと浮かんでいる。
彼は胸の半ばまでを水に浸して、湖の中心に向かってゆっくりと歩いているようだった。ときおり、空を見上げる。白い衣を着たままである。
夜中の、山の中の、湖の中で、である。異様な光景ではあった。
「な、なにをなさっておられるのか」
「ほんとうに入水…」
「主公のお叱りを、苦にされておられるのか」
「お助けしたほうが」
行軍中は軍師は劉備本隊付きゆえ、軍師についている護衛兵も劉備の兵卒である。軍師の奇行に慣れていない彼らはいちようにうろたえていた。
入水自殺――あの軍師が。内心、鼻で笑った趙雲は衣を脱ぎ捨てて下履きになり、急ぐでもなく水に入った。
「………軍師」
声をかけると、ぱっと顔が上がった。
「趙将軍。合流されたとは聞いておりましたが、ご無事でなによりです」
声音は尋常のものだ。
「なにを、されておられる」
「水浴ですよ。護衛にも、そう言いました」
趙雲の表情を見た軍師が、首をかしげる。
「なぜこのような夜中に」
「人目につかないほうがよかろうと思いまして。主公も人に見せるなと仰せでしたし」
「…主公が?」
「ええ…話すと少々長くなりますが、聞きますか」
「聞きましょう」
手に持った手拭いをざぶりと水をつけ、濡れたそれで身体をぬぐって悠々と汗と汚れを落としながら、趙雲は軍師に問うた。
聞いたとしても絶対にろくな理由ではないなという確信があったが、聞かないわけにもいかなかったのだ。
聞いたとしても絶対にろくな理由ではないなという確信があったが、聞かないわけにもいかなかったのだ。
「昼間、この場所に到着した時、炎天下の行軍で汗だくだったのです。そこにきれいな水をたたえた湖があったものですから皆、大喜びで。ことに主公はお喜びになられ――いきなり衣を脱ぎ、『ひゃ~~っっほう』と雄叫びを上げて崖の上から湖に飛びこまれたのです」
「……主公……」
趙雲は目をすわらせる。
未知の湖に率先して飛び込んだだと。崖の上から…なんと危険なことを。主公、あとで説教だ。
「主公に続いて張飛殿が『あにじゃあぁぁ』と叫ばれ飛び込まれまして。その後も『劉備様ぁ』『ひゃあ~っほう』と兵卒らが次々と飛び込んでお祭り騒ぎになりかけたところ―――関羽殿が静かにざぶざぶと水に入られました。その雄々しくも威厳あふれるご様子に、兵卒らがはっと息を呑み―――関羽隊の皆さんが粛々と儀式のように厳かに入水されるよし、これは『ひゃっほう』派はもう時代遅れ、これからはざぶざぶ派の時代到来か……という空気が濃厚に流れましたところで、さて私も清らかな水で汗を流そうと衣を脱ぎかけたところ、泳いでおられた主公が、ぎょっと目をむかれて『待て、孔明!!お前は脱ぐな!!脱ぐな!!!脱ぐな!!よいか、脱ぐな!!!絶対に脱ぐな!!!』―――と5回も脱ぐなと怒鳴られまして。いささか啞然とした私が、『…何故でしょうか、主公』と問うたところ主公は『いや、なんかマズイだろ、いやなんか、おいまずいよな趙雲、いや趙雲は別動隊だった、よけいまずい』と錯乱気味になられ、張飛殿がみかねて『兄者、あの貧弱鶏ガラ野郎にも脱ぐ権利くらいあるだろ』と取りなしてくださったのですが。たいそう疎外感に打ちのめされました、私は…。武将の方々にくらべれば貧弱でしょうが、隠しておかなければいけないほどでしょうか。趙将軍は、どう思われます?主公は水から上がられたあと小声で『おまえは趙雲以外の者の前では脱ぐな、孔明』と仰せでしたが、趙雲殿、脱いでもよいでしょうか。衣を着て水に入ると重くて」
3秒ほど沈黙した趙雲は、
「兵卒が見ておりますので、脱がないでください、軍師」
と言った。
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初色軸
雨が降り続いている。
雨が降り続いている。
むかしから水のあるところが好きだった。静かな池のほとり、清らかな川のながれ。涼やかなせせらぎの音、小さな水しぶき。
雨も、雨音も好ましい。
池に睡蓮が咲いている。
剣のように尖った真っ白い花びらと、鮮やかな緑の葉のうえにふりそそぐ雨滴が、落ちては跳ねて薄く射す陽光を弾き、静やかに美しい光景だった。
池のそばの小亭に琴を持ち出して、気ままに弾いていたのだ。
思うままに弾いていたが、なにか、えたいのしれない不安と焦燥が心にわだかまって、琴を置いて立ち上がった。
近くにあるものは雨に洗われて透明感を増してきらきらと輝き、遠くは絶え間なく落ちてくる細雨にけぶっている。
亭から踏み出すと雨に包まれた。
手のひらを天にむけるとそこにも雨が落ちてくる。
髪に、顔も、雨は落ちてくる。
どうしてだか、涙がこぼれた。
雨の日に外の小亭で琴を奏するとは、なんとも風流ではないか。
池に睡蓮が咲き乱れている様も美しい。
池に睡蓮が咲き乱れている様も美しい。
調練にてぎゃあぎゃあと騒ぎたてるくそ面倒なガキにつきまとわれた苛立ちがすぅっと引いてゆくようだ。
聞き惚れていたというのに、だが、琴の音はふつりと途切れてしまった。
「・・・丞相?」
魏延の背後の物陰に潜むようにして音色を貪り聞いていたクソガキが、声を上げた。
「なにをなさって・・・濡れてしまわれる」
そのまま駆けだそうとするのに、魏延は腕を組んだまま片足を出す。
足を掛けられた姜維は短い悲鳴を上げてつんのめり、それでもすっ転びはせずに、地面についた手を軸に一回転して体勢を立て直そうとしたのだが、立て直す一瞬前に魏延に足蹴にされて地面に沈んだ。
「なにをなさる、魏将軍っ」
「ガキの出る幕じゃねえっての」
しっしっ、と犬でも追い払うような仕草に歯噛みするうちに、厚い背は悠然と雨の中に歩を進めていた。
「なにを泣いておられるのだ」
雨の中をゆうゆうと近付いてきた男によって、抱き潰すような強い抱擁を受けた。
太い腕の強さも陽に灼けたような体臭も熱いほどの体温を持つ分厚く逞しい体躯も、なにもかも己とは真逆で、とうてい相容れぬもののようであるのに、すっかり馴染んでいて離れがたく放しがたい。
「どうしてここに?」
雨でも調練は中止にはならない。雨中での行軍はそれはそれで訓練になる。
「琴が、聞こえたから」
要するに、さぼったのか。
「なあ、よいだろう。今日はさぼって、帰ってしまおうではないか」
「帰るって、どこへ」
「無論、我が屋敷へ」
そういえばしばらく行っていない。あまりに忙しくて。
「どうしようかな」
なかば誘惑されてしまって迷っていると、額と額がごつんと触れ合った。
「濡れるのも泣くのも、我が閨だけにしておかれよ、軍師」
言いざまに、喉の奥で笑った。
涙のさいごのしずくがはらりとこぼれ落ちた。
初色軸
十数巻にもおよび力作の法案をひとまず書き終えて、諸葛亮は満足の吐息を吐いた。
十数巻にもおよび力作の法案をひとまず書き終えて、諸葛亮は満足の吐息を吐いた。
凝り固まった首と肩を回すと、ごきりと不穏な音がする。
筆を持ち続けた手は凍えたように冷たくこわばっていて、指先の感覚がなかった。
ふと見ると、お付き合いをし始めたばかりの情人が兵法書をたぐっている。
野生の本能で行動するばかりの荒々しい気性にみえて、実はけっこう努力家であるのが驚きだった。
沐浴を済ませた夜着姿で、無造作に着付けた合わせからむくつけき筋肉がもりもり盛り上がって衣を押し上げている。
気配をひそませてすすっと背後に忍び寄った諸葛亮は、冷え切った手を、すぅっと情人の襟元に忍び込ませた。ひと息に背へとすべらせてひたりと留める。
「っひぎゅあ!」
飛び上がった偉躯がぎろりと目を剥いて振り向いた。
「冷た――!!軍師!何をなさる」
「・・・・あたたかい。というか、熱い」
魏延をびっくりさせたのは本望であるが、その体躯の熱さには諸葛亮もびっくりである。
筋肉とは人体最大の偉大な発熱機関なのだ。
「まったく・・、このように冷たくされて」
ぐるりと本格的に振り向いたせいで背にあてていた手のひらは自然と外れてしまい、すくいとるように手をさらわれて、ぎゅっと握られる。
高い体温を揉みこむようにぎゅむぎゅむと手を揉まれると、火で炙るよりもたやすく指先の内側からぬくもりが芽生えていった。
子どもにでもするようにそうしていた魏延が、ふと目を上げた。
「・・・寝所に入れていただければ、もっと、芯から御身体を温めて差し上げるのだがな」
意味ありげに口端を上げて言うので、諸葛亮は目を伏せてちいさな笑みをこぼした。
「ん・・・もう少し、経ったら・・」
含羞を漂わせた笑みの美しさにあてられた魏延は、肩をすくめる。
そうして握った手を引き寄せて、冷えた躰を己の胸に持たれかからせるようにしてから、読んでいた書の分からぬ箇所をひとつずつ、世にも稀な賢者に問うていった。