「肩が凝りました」
と、情人が言った。
証明するかのように、首を左右に折り曲げてため息を吐くのだが、その意は馬超にはさっぱり伝わらない。
「肩が・・・なんだと?」
「肩こりですよ・・・知らないのですか」
「知らぬ」
知らぬものは知らぬと偉そうに胸を張る情人に、知略三国に冠絶する軍師であるところの諸葛孔明は呆れたように肩をすくめる。
馬超は、この軍師を私邸へと拉致してきていた。
日が暮れたのを見計らって軍府に押し入り、強奪してきたのだ。
とくに意味は無い。
近ごろ、逢瀬を持っていない。それではいかん、と思ったのだった。
そして実際、馬超は肩こりというものを知らなかった。
知らないものは知らないのだから分かるように説明してくれれば良いものを、軍師はぷいと横を向いた。
旦那様、と控えめな家人の声がかかる。
酒とともにご馳走を運び入れてきたのだが、主人と客人の間のいささか不穏な空気を感じ取っての進言だった。
「長い時間同じ姿勢で机に向う文官様がよくなる症状ですよ・・・肩や首が張って痛んだり違和感があったりするのです。病とは申しませんが、ひどい肩こりは辛いものです」
「ほう」
ひそひそと耳にささやきかけられる言葉に馬超は目を見張る。
文官によくある症状だと聞いて納得した。
「なるほど、分かった。文官と親しくなる機会がこれまでなかったので、知らなかったのだ」
馬超の生家は武門の家である上、土地柄、文官というものは少なかった。
同時に可笑しく、馬超は朗らかに笑った。
「よくもこの俺が、文官の親玉、といったようなお前と、親しくなったものだ」
「親しくした覚えは、ありませんが」
空気がぴきりと凍りつく。
馬超は笑みを引き攣らせたが、孔明はしれりと横を向いている。
家人は亀のように首をすくめ、けして目を上げぬようにしずしずと皿やら酒瓶やらを卓に並べて、すみやかに退室していった。
孔明の機嫌が悪いのには訳がある。
「あとで馬良に、肩を揉んでもらう約束だったのに――」
卓につき、きれいに並べられた料理をつつきながら、陰にこもった声で怨じている。
肩こりの時には、他人に肩を揉んでもらうのがひどく気持ちよいということだった。
あれか、と馬超は見当をつける。
武術の鍛錬で筋を痛めたときなどに、人にほぐしてもらうのが心地よいのと同じか。
馬超は他人に触れらるのが嫌いなので、自身にさせたことはないが、それならば見たこともあるし理解できる。
なんでも馬良は肩揉みの上手い男で、その妙手はすでに達人の領域らしい。
あれがな、と馬超は馬良の顔を思い浮かべる。
すこし面長の、わりと端正な顔立ちの男である。見るからに温和で理知的でもあるのだが、どうしたことか眉が白く、それが才気あふるる顔に一種おかしみを加えていて、なかなか好感の持たれる顔だ。
馬良は荊州の統治の補佐を受け持っており、ここ益州にはしばしば来ているものの、やはり持ち場は荊州の方で、だからさいきん職務の忙しいせいで肩こりがはなはだしい孔明でも、肩をもんでくれとは言いがたい。
そこを曲げて頼んでようやく得た約束を、突然あらわれた馬超にだいなしにされた、というわけなのだ。その恨みは肩の重さの分だけ深い。
馬超は肩をすくめた。
「――知らなかったのだ、仕方あるまい」
「・・・・」
じと目でねめつけられて、だん、と酒杯を置く。
「だいたいな、他の男に肩など触らせるな」
「では、あなたが肩を揉んでくれるとでも?」
皿に残っていた蒸した鶏をぼそぼそと咀嚼した孔明が箸を置き、じろりと目を向けてくる。
切るような眼差しに、馬超は口ごもった。
「俺に、肩を揉めと――・・・!?」
「いいえ。あなたが私の肩こりを解消できるなぞ、これっぽっちも思っていません。ええ、毛の先ほどの期待もしておりませんとも」
「うぬ」
怨念と負の断定に満ち溢れた視線に馬超は激昂した。
「よくも言うたな」
「言いましたとも。事実でありましょう」
「あ、あの」
将と軍師のやり取りに分け入ったのは、皿を下げにきた家人である。
「・・・味は、お気に召されたでしょうか」
この状況で料理の出来を聞くとはいっそ見上げた度胸である、と怒りを忘れて馬超は感心し、軍師もすこしは怨嗟を潜めた。
「ええ。良い味でした。腕の良い料理人に気の効く給仕と、まことよい家人が揃っておられる・・・馬将軍には勿体ないことと感服いたしました」
事実として料理の味は良かった。滋養に優れた食材を薄味で調理したところなぞ、まさしく孔明の好みに叶っている。
酒も涼やかな飲み口の上物であった・・・というところまで考えて初めて、馬超が自分を饗応するためにとくに命じてあつらえさせたのであろうか、と孔明は気づいた。
とすれば、この倣岸な男にして、最大限の気づかいである。
「酒も料理も、私のために・・・?」
つぶやくと、今度は馬超の方が憤懣やるかたない、という様子でふんと横を向く。
そういえば久々の逢瀬である・・・ということも、孔明はようやく思い至った。
すこし雰囲気が良くなったところで、空いた皿を片付け終えた家人が、頭を下げた。
「旦那様、軍師様、湯殿の仕度が整っておりますれば、どうぞ湯を召されませ」
「―――」
馬超は無意識に顔をしかめる。
風呂は好きではないのである。
というか、ぬるい湯に浸かって喜ぶのは軟弱な漢人の風習として蔑んでいた。剽悍な羌人は潔く、清水で沐浴するのだ。
俺は要らん、と言いかけて所、いつの間にか背の後ろに回っていた家人がひそやかにささやいた。
「温浴は肩こりに効きまする。軍師様のご機嫌麗しくあい変わられますことに相違ありませぬ」
「・・・・・・・」
湯、と聞いてはやくも頬をゆるませる情人をみやって、馬超は腕を組んだ。
「・・・何故、一緒に入るのです」
もうもうと上がる湯気の中で向けられたうろんげな眼差しに、馬超は不機嫌に声を荒げた。
「知るものか。一人ずつでは熱い湯がもったいない、二人で入るのが宜しゅう御座います、と言うのだから、仕方あるまい」
もう知るか、という気分だった。
久方ぶりの逢瀬というに孔明の機嫌は悪いときては、用意させたとびきりの酒も美味くは感じなかった。それも肩が凝ったとかいうわけの分からん理由である。色気もへったくれもない。
完全に不貞腐れた馬超は、しぶきを蹴立てて先に湯船に入った。
湯殿全体をに溢れる熱気がまた疎ましい。熱い湯など好きではないのだ。湯気で髪が張り付くのがなおさらに不快であり、馬超は眉間に皺を寄せた。
おまけに、
「・・・なんだ、これは」
風呂には、ぷかぷか白い物体が浮いていた。筋が通っているところは樹の葉っぱに似ているが、色は真っ白だ。
「花びら?」
しずしずと湯にはいってきて「あぁ・・・この為に生きてる」と深い深い息を吐いていた孔明も、それに気づいて指を伸ばす。花びらだけではなく、花そのものも浮いていた。
「薔薇・・・ですか。白い薔薇ばかりとはまた風流な」
「なんだと?」
「薔薇を知らないのですか?」
まさか、とかなりの驚きを含んだ眼差しに、馬超の不機嫌はとどまるところなく増大する。
「もういい」
この不愉快きわまりない空間から出ようと身体を起こしかけたとき、すい、と情人が近寄ってきた。
「この樹は南方のものですから、知らないのも道理かもしれません」
やさしげな口調に、つい馬超は問い返した。
「樹に咲く花なのか」
「ええ。棘のある細い枝を茂らせる木です。花は蕾のうちに摘んで干したものを茶に入れますし、実も食用になりますから、有用な植物ではありますが、それにも増して花の美しさと香りが抜きん出ています」
ついと花卉を指で摘み上げた孔明は、香りを試さんと花に顔を寄せた。花びらが多く重なる白い花だ。潔癖な白さがなにかに似ている、と思った次の瞬間に馬超はつぶやいた。
「おまえに似た花だ」
え?と振り返るのを、引き寄せた。
湯の中であるせいか、それほど力を込めずとも痩身はゆらりと揺らいで、腕の中におさまる。
と、同時に花香が漂った。
たとえば桂花のように風に乗る薫りではない、よほど近くで嗅がなくては分からぬひそかな、それでいて涼しくも甘やかな匂いである。
馬超の口が笑みを刷いた。
「香までおまえに似ている。木には棘があると言ったな。ますますそっくりだ」
「言ってくれますね・・・」
優婉な眉を引き攣らせるのを笑って、抱き寄せる。
情人の邸に連れ込まれてなお肩こりだ何だと仏頂面を炸裂させる色気のない堅物だが、当人の容姿はまことにうるわしい。
湯にあたためられて上気した肌膚の、さながら花びらのようにやわらかげな優しさは、可愛げの無い性格を補ってあまりある。
黒い髪は湿り気を含んでしっとりと重たげで、触れれば指に絡みついた。髪からはかすかな墨香とともに、孔明自身が焚きつけた香のくゆりもほのかに漂っている。
馬超は武器をふるう以外の瑣末時にはほとんど使われぬ指先で、黒々とした髪を梳き、漂ってきた花びらを黒髪にまつろわせて愉しんだ。
「おまえに、似合う――」
髪に口付けたところまでは、覚えている。それ以降、馬超の意識は途切れた。
目を覚ますと己の寝台で、繊麗な容貌が覗き込んでいた。
「・・・気がつきましたか」
「俺は、――なにがあった?」
意味ありげな流し目で此の方を伺っていた眼差しが急に笑みを含み、軍師はぷっと吹き出した。
「のぼせたのですよ、あなたは。あまり熱い湯に入ることは無いんですって?」
「のぼせ・・・」
湯に浸かる習慣のない馬超には、むろんのぼせた経験も無い。
よく分からぬが、ともかく風呂で意識が遠のいたことは確かなのだろう。
「おまえが、運んだのか――?」
「まさか。あなたが自分で歩きましたよ。熱い、暑いと真っ赤になってわめきながらそれでも夜着をきちんと着たところは、さすがに育ちが良いと感心しました」
孔明はくすくす笑っている。
「機嫌が、なおったのか」
「え?・・・ええ、まあ。美味しい料理と酒と、花を浮かべた風呂まで馳走になって、仏頂面はしていられません」
苦笑する顔も、うなじで纏められた湿り気を帯びた髪も、美しい。
きしりときしみを鳴らして、寝台の端に孔明が腰掛けた。
「このままぐっすり安眠できれば、最高なのですけど―――」
「そんなわけにはいくか」
馬超は腕を伸ばし、細身をぐいと引き寄せた。平衡をうしなってなだれ落ちてくる肢体を受け止め、体躯を入れ替えて寝台に押し付ける。
「目を覚ます前に、さっさと寝てしまうのでした」
「俺の寝顔に見惚れていたか」
「・・・!」
さもおかしいことを言われたというように孔明が笑い出す。屈託なく笑っているのを組み敷いて馬超は口角を上げた。
「客間に逃げ込んで眠ってといたしても、目が覚めた瞬間に襲いに行っておっただろうな。湯殿にいるおまえはうつくしかった―――俺はもう熱い湯などご免だがな」
「花を――ありがとうございます」
「家の者に言え。俺が命じたわけではない」
「そうですね・・・」
組み敷いた身体の、首の付け根に口づけた。
湯と、花の匂いがする。
「馬超殿・・・」
「うん?」
喉のくぼみを舐めてから、馬超は顔を上げた。
「寝顔に見惚れてたんじゃないですよ。尊大で偉そうなあなたが、赤い顔でうんうん唸っているのが可笑しかったのです」
「この―――」
あまりな物言いに、歯噛みした馬超はぐいと夜着の胸もとを広げた。
「安眠が遠くなったぞ、孔明」
くすりと笑った孔明が腕を伸ばしてくる。
「嘘です。心配で見ていたのです・・・優しくしてください、馬超殿」
細腕に頭部を囲まれて、花の香りに包まれた。
薔薇風呂です・・・ええ薔薇風呂ですとも。耽美?なにそれ食べたら美味しいですか。
なんで薔薇風呂で肩こりかな・・・なんでそこでのぼせるかな・・・
彼とはじめて会った日、雨が降っていた。
静かな雨だったようにおもう。
袖にまといつく雨粒をわずらわしそうに払いのける仕草が優雅で、それでいてどこか烈しかった。
視線に気づいたように眼を上げた彼の前髪が、すこし濡れていたことも覚えている。
ほんの少しだけ下の位置にある双眸が、こちらを見た。
値踏みするような視線は息を呑むほど烈しく、それでいて優雅だった。
ドアを閉めると、雨音がやんだ。
さすがに遮音は徹底しているのだな、と思う。
見回した室内は、想像していたよりまともだった。
ドアが頑丈な鉄製なのは、防音のためだろう。オフホワイトの珪藻土で塗り固めた壁はナチュラルな感じがしたし、木を組み合わせた天井も、こういう場所にしては悪くなかった。
合板の家具はすこしだけ安っぽかったが、とりあえず妙な色彩やいかがわしい自販機がなくて、少しは安心した。
力ない身体を、ベッドに降ろして寝かせる。
ベッドが呆れるくらい大きい。
いつものくせで事務的に降ろしたが、もっと優しく寝かせばよかったのだろうかと、急にそんな考えが浮かぶのに苦笑した。
襟元を緩めようと手を伸ばしかけたとき。
閉じていたまぶたが、まやかしのようにゆっくりと、開いた。
「どこですか、ここは・・・」
苦しげにかすれた声が、惜しい気がする。彼の声は好きなのだが・・・まあ、ひくくかすれた声も、艶めいていなくもない。
「ホテルの部屋です。俗にいう、ラブホテルというものですよ」
「・・・・・・」
物憂げに閉じた眼がまた開くのにすこしの間があった。
「・・・なぜ私は、ラブホテルとやらにいるのでしょうか」
声には理知が戻ってきつつある。
「ラブホテルに入る目的は、そうないと思いますが」
「私を抱きたいのでしたら、インペリアルホテルのスイートくらい取って欲しかったですね」
「なるほど」
予想外の答えが可笑しくて、思わず笑った。
「それは失礼を。ただ、あなたは意識を失っているし、雨が降っているしで、選択肢がありませんでした。これでもまともそうな所を選んだのですが」
「もうひとつ聞いていいですか、趙雲殿」
「なんでしょうか」
「私は意識を失っていた。そして今も、身体が動かない。クスリを盛られた・・・としか考えられませんが」
「そうですね」
「どこの組織の誰でしょうね」
「知って、どうなさいます」
「殺しますよ、勿論」
「俺です」
「・・・なんですって?」
「あなたは薬が効きやすいようですね。もともとの体質なのか、それとも激務にお疲れだったせいなのか・・・後者だとしたら、少しは気をつけたほうがいい」
「・・・・」
また、すこしの間。
身体は動かないのに、舌がそれなりに動いているのが意外な気がした。ゆったりとしたしゃべり方は、いつもとそう変わらない。言葉と言葉のあいだの間が多いことからすると、思考はすこし遅いかもしれない。
それでも透き通るような眼は、やはりこの人でしかありえない色だ。
「それは、いつもは「私」というあなたが、「俺」と話しておられることと、たとえば何か関係が?」
また、意外な言葉だった。
「さぁ・・・あるかもしれません」
「・・・・」
眼を閉じた彼が、息を吐く。
叡智と強さを宿している瞳がまぶたによって閉ざされ、白い容貌でそこだけ血の色の唇がうすく開いて、息が漏れている。呼吸は、いつもよりは速い。
「・・・このことを、殿トウはご存知なのですか」
「このことというのは軍師殿パツジーシンが俺ホングンに薬を盛られて、ホテルに監禁されている、という事実のことでしょうか」
「監禁・・なのですか、これは・・・」
「それに近いものではあります」
「それで、答えは?」
「殿は知りません」
「・・・・・・・」
それから彼は、ずいぶん長いこと黙っていた。
「俺からも聞きます。できれば正直に答えていただきたい」
腕組みを解いて、彼に近寄り、額に手を置いた。薬の影響か、もしくは彼の精神状態によるものか、血の気が引いていて青白く、冷たい感じがした。
「殿は、あなたを抱いているのですか」
長い、沈黙があった。
「・・・聞いて、どうするのです」
「重要なことです、俺にとっては」
「・・・・・」
「答えたくないなら、身体に聞きます。答えたとしても、同じですが」
「同じならば、答えによってなにが変わるのです。たとえば・・・殿が私を抱いている場合は?」
「・・・殺すかも、しれません」
「どちらを」
「殿を」
「・・・反逆を?冷静で賢くて忠義に厚いあなたらしくもない」
「べつに、反逆する気はありません。それで、どちらですか」
「・・・答えたくありません」
「そうですか」
長い黒髪を、手ですくう。べつに性格を反映しているわけではなかろうが、冷たい手触りだった。くせはあるが強くなく、しなやかに手に纏いついてくる。彼の体の一部分にでも、すこしは素直なところがあるのだ。
頬にかかる髪をわずらわしそうにしていながら、抵抗をする様子はない。
殿は、彼を抱いているのか。それだけは分からない。
たびたび寝所を共にしているのは確かだが、護衛としてつねの劉備のかたわらに在り、プライベートな事柄までほとんどすべてを知っていても、彼を呼ぶときの劉備はかならず寝所を締め切ってしまう。
夜が明けて退室する彼から、情事の気配を知ることはできない。寝乱れた髪をかきあげながら寝室から出てくる彼に、みだらな痕跡が残っていることはない。
彼はあまりに冷ややかで情事の気配がないが、劉備は劉備でまた熱くありすぎて、とらえどころがない。
彼を愛しているのは確かでも、それが身体を求める欲望をともなっているのか、計り知れなかった。
「それだけしゃべれるのなら、身体は、もう動くのでしょう?抵抗しないのは、無駄だからですか、軍師殿。だからあれほど、武器を持ち歩きなさいと言ったのに」
「私はあなたたちと違って野蛮なことは好みませんので」
挑戦的な視線を向けられたが、とくに反論はしなかった。
彼の声も舌鋒も嫌いではないので、このまま一晩中、論戦を繰り返しても良かった。
だが―――
「・・・抱きますよ、孔明殿」
いちおう、言ってから服に手をかけた。
刺し殺しそうな眼で睨んでくるのに、肩をすくめる。
「殺したい、という目をしておられる」
「お止めなさい、趙雲殿。後悔しますよ」
「あなたが俺を殺すときは、銃でもナイフでもないのでしょうね。・・・毒かな」
「私の敵が楽に死ねないことは、あなたが一番よく知っているはずです」
「・・・あなたの毒は、甘そうだ」
抱いたところで、手に入れることはできないのは分かっている。
知っていて―――何が欲しかったのだろう?
意外だった。
「―――殿は、あなたを抱いていなかったのか・・・」
返事はない。
あると思っていたわけではなかった。意外で思わず口に出してしまっただけだ。
どこまでも冷たいのか思った身体は、熱かった。
さいごまで抵抗しないかと思った手足は、途中から抗ったが、力で押さえつけた。重ねた衣服を乱して膚を侵した。鋭い叱責がいつしか懇願になり、最後には哀願に変わったが聞かなかった。
嫌だイェン、と繰り返す声音が、耳に残っている。
犯したときの、絶望にまみれたうめきも。
まともそうなホテルだったが浴室は馬鹿げて広く、蛇口をひねると、何もしていないのに勝手に泡が出はじめた。
魂が抜け出したようにうつろだった身体だが、後方に触れるとびくりと肩を震わせる。
「・・・嫌」
「お許しを、軍師殿・・・。中の始末をしなければ、お体に障ります」
「・・ぅ、ぁ」
叶うかぎり丁寧に素早くやったが、その間中、屈辱にまみれたうめき声が洩れていた。
どろりと出てきた時には背筋がひきつり、悲痛な喘ぎ声が上がった。
円形の浴槽は、彼を抱いて入ってもまだ余裕があった。
熱めの湯に、真っ白い泡。
雨が降っていることを思い出した。
「初めてあなたに会った日は、雨が降っていました」
後ろに回り、彼を抱え込むかたちで浴槽につかった。
泡は次から次へと湧き出てくる。どうやって止めるのか分からなかったので、そのままにしておいた。
「孔明殿・・・」
白いうなじに口づける。
「欲しかったのです。どうしても・・・殿に逆らっても、あなたが欲しかったのです」
「・・・私は、あなたに初めて会った日のことなど、覚えておりません」
「・・・・・・」
「殿がいらして、多分、その後ろにあなたは居たのでしょうね・・・。雨、でしたか、それはそれは」
うつろな、それでいて毒のこもった声音だった。
「今夜のことも、私は忘れてしまいますよ、趙雲殿」
「そうですか」
少し笑った。忘れてしまう、か。殺されたほうが、ましかもしれない。
はじめて会った日は、雨だった。それは間違いない。
目を伏せたこの人の前髪から、雨粒が落ちたことも覚えている。それを見たのは、俺の前に立つ殿の肩越しだった。
目が合ったと思ったのはきっと、俺だけだったのだ。この人は、殿しか見ていなかったのだ。
抱いたところで、手に入れることはできないのは分かっていた。
届かない、月―――
広い広い浴槽には、白い泡が、いつまでも出ていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「隔たり」の魚水の裏ルート趙諸。
途中の意味不明なルビは、あれです、この話、劉軍が中国マフィアだという設定なので。
頭(トウ):ボス
白紙扇(パツジーシン):軍師・参謀
紅棍(ホングン):戦闘幹部
というのが香港マフィアの役職名なんだそーです。Webでちゃちゃっと調べただけなので間違ってたらスイマセンですが。
「隔たり」は魚水がラブラブで趙雲が良い人なのですが、実は趙雲が裏切る裏ルートが存在しまして。しかし隔たりとかぶるのが嫌で、現代。現代でも殺伐とした雰囲気を出したかったもので中国マフィア。うん別に深い意味はないです。
調練場から少しはなれた水場で、趙雲は顔と頭に水を浴びた。
水がそろそろ冷たい。空は高く、澄んでいる。
どこからか甘い匂いが薫ってきて、探すまでもなく井戸の向こう側に木犀の樹があるのが見つかった。
趙雲はぶるっと身体を震わせる。
「お疲れ様です」
背後から軽やかな声がして、ふわりと乾いた布が降ってくる。考えるより前に掴み取って振り返ると、予想に違わぬ美しい顔が微笑んでいた。
「お一人ですか?」
浮かんだ考えを振り切って、趙雲は渋面をつくってみせた。
「少し前までは。今は誰より頼りになる主騎と合流したから、危険はない」
「屁理屈だけはお得意ですね」
白皙の容貌が、わざとらしく顔をしかめてみせた。
「なんて言いようだ。手公のもとに参上しておったのだが、窓から貴兄が見えて、水場に向っておるくせに布一枚も持参しておらぬ。風邪を引いては気の毒と思い、わざわざ出向いてきたのに」
「布なら、持っておりますよ」
ふところにおさめたそれを取り出す。
「・・これ、すでに匂ってないか?」
「調練中に、汗を拭きましたから」
「悪いことを言わぬから、新しいほうを使うとよいぞ、趙子龍殿。貴兄ほどの男前ならば汗くさいのも魅力であろうが」
へらず口に肩をすくめたが、せっかくの好意であるし、どのみち布はもう濡れてしまっていたから、遠慮なく使うことにした。
つるべを落としてもう一杯水を汲み、顔をすすぐ。
「・・といいつつ、わたしは貴兄の汗の匂いは嫌いではない。汗だの埃だの泥だのにまみれていようと、貴兄は潔く強くて男らしい」
後ろ手に手を組んで飄々と立った彼が、そんなことを言い出した。
「・・・卑怯な方だ」
「誉めたのになんて言い草だ。わたしのどこが卑怯だって?」
「俺が濡れていて、あなたに触れない時に限って、そんなことを言い出されるところが」
「触りたいのか?城内だぞ」
「抱きしめて俺を感じさせたい。あなたが嫌いではないと云った俺の匂いをあなたに移して、あなたの匂いを俺に移したい」
目を見開いて一瞬動きを止めた彼が、くすくす笑い出す。
「おかしいな、主公に伺ったところ、趙子龍は真面目で穏やかで清廉で実に忍耐強く我慢のきく男だということだったのに。わたしの前で貴兄は時々まるで聞き分けのない駄々っ子のようだ」
「軍師殿」
一歩近寄ると、彼は一歩下がった。
片目をつむって、悪戯っぽく微笑んでみせる。
「駄目。先に身体を拭いてから。といってもそのあとも駄目だけど。今は真っ昼間でここは城内のそれも屋外でその上、わたしはまだ政務がたくさん残っているから。ほら、早く拭くといい。さっき水を浴びたあとぶるっと身体を震わせていただろう?頑健を誇るのはいいけど、粗末にするのはいただけない」
云われたとおり趙雲は髪を拭き、顔をぬぐった。
ひと雫も残らないように入念に水滴をぬぐいとって、面白そうにその様を見ている軍師に歩を進める。
「ひとつ、教えましょうか」
「なにを?」
軍師が目を輝かせる。好奇心がとくべつに強いのか知識欲が異常に旺盛なのか、知るということに関して、この軍師は貪欲である。
趙雲が声をひそめると、軍師も聞き耳を立てる。
「さっき、俺が身体を震わせた理由について」
「寒かったから、だろう?この季節、わたしならもう外での水浴びは遠慮したいな」
「寒かったではないのです」
「うん?」
軍師がきょとんとして、身を寄せてきた。趙雲はますます声を低めた。
「木犀が匂ってきて」
「・・・木犀。ああ、城内あちこちに咲いてるけど・・・それが?」
「何か、思い出しませんか?」
「え?」
しばらくいぶかしげに考えていた軍師は、何かを思いついたらしく、ぱっと顔を上げた。
「・・・・・・・―――――――!!」
見る見るうちに赤くなる。
「・・・まさか」
「ええ。思い出してしまいまして・・・・あなたとの夜のことを」
趙雲は抜け抜けと、言い放った。
趙雲とこの軍師は、恋人同士である。趙雲のほうから惚れこみ、大人げないほど攻めて攻めて攻め尽くして落とした。恋人同士であるから、閨なんか共にしたりもする。
閨を共にすると、ごにょごにょなんてこともしたりする。そこまでこぎつけるまでにはまた趙雲の涙ぐましい努力があったわけだが、それは割愛するにしろ、ごにょごにょする際に男同士であるのだからして、補助するものが必要である。
必ずぜったいに必要なわけではないが、そっち方面は奥手の軍師に傷も痛みも与えるわけにはいかないのだから、必要なのだ。
趙雲の場合それに香油をつかっており、べつに決めているわけではないが、荊州ではどこにでもある桂花(木犀)の匂いのを当初から使っている。
だから趙雲は木犀の香りをかぐと、すったもんだあったさいしょに閨から、少しは馴れてきた今日この頃の閨のことまでが走馬灯のように、脳裏をめぐってしまうわけだ。
耳まで赤くなった軍師の様子を見る限り、彼も思い至ったようである。
思い至るように誘導した趙雲は本懐を果たせて満足だったが、真っ昼間の野外で閨をほのめかされた潔癖な軍師は、恥ずかしさに卒倒しそうな顔つきをして固まっている。
「まだ、政務はしばらく終わらないのですね?」
趙雲が云うと、赤い顔のままでぎくしゃくとうなづく。
いとしい。
抱きしめてしまいたかったが、彼が言うように今は真昼間でここは城内しかも屋外である。
「俺も、まだ軍務がありますが」
一歩近づく。彼はもう避けたりはしなかったが、消え入らんばかりに恥らっている。
弁が立って強気な反面、こういう方面にはてんで初心なところも、惹かれてやまない部分ではある。
「終わったら、夜、伺っていいですか?」
夜、というところをさして協調したわけではないが、彼はまた一段と赤くなった。
返事を待たずして、趙雲は井戸の向こう側の樹木に向った。
小さな星に似た橙色の小花をたわわにつけた一枝を折り取って、彼に差し出す。
「・・・・・」
ためらいがちに白い手を差し伸べてくるのを、するりとかわし、淡い碧色の巾に包まれた結髪の、根元のところに挿した。
「・・・花が薫るたびに、あなたが俺を思い出すように」
趙雲は笑った。
美貌ではあっても、花の似合う可愛らしい顔立ちではないかと思っていた。それは間違いで、よく似合う。花に愛されているように。
「これでも不公平なくらいです。俺はいつもあなたのことを考えない時はないんですから」
真昼間でここは城内しかも屋外でその上、ふたりともこのあとも職務がある。
今はこれだけ、と趙雲は、花を挿した軍師の髪にかすめるだけの口づけを落とした。
「孔明!」
年下の恋人が、飛び込んできた。
「人前では軍師と呼びなさい」
というと、はっとしたように目を見開いて、「・・・軍師殿」と意外に端正な拱手をしたあと、首をかしげた。腑に落ちない、というように。
「誰もいないのだが」
「予行練習ですよ」
「?」と書いた顔。孔明はかたりと筆を置いた。
「なんの用でしょう」
馬超はふっと、真顔になった。
「風が変わったな」
孔明は目を伏せる。振り向くと、そこは壁だった。蜀の脳である丞相府の執務の室には、機密を守るため窓がない。もとのように目線を戻すと、馬超も壁を見ていた。
「風が変わった。空の位置も違う」
「空が高くなったということですか」
「色も違う」
じんましんが出るくらい苦手だというカビ臭い書物の匂いが立ち込める丞相府に、彼はこうしてやってくる。
ひどく些細な事象を、伝えるために。
「天帝の座が動きますか」
「なに?」
「天の座が、朱雀から、白虎に移りましたか」
「・・・謎掛けなのか」
「季節が移ることを別の言い方で言っただけです。この場合は、夏から、秋へ」
「ほう?」
よく分からぬと言いたげな長身を手招くと、分からないという顔をしたまま彼は素直に身をかがめ、孔明はその髪に手を伸ばす。黄沙の色をした髪は、硬そうに見えて実はやわらかい。
「白虎は西方の棲む風の神。獰猛で気高く、孤独な獣です」
髪を弄られて一瞬驚いた顔をした馬超は、目を閉じてなすがままにまかせている。
目尻が鋭くて荒削りな顔立ちは、男らしくて精悍で、でも目を閉じるとほんのちょっとだけ幼い。
「孟起。この書簡を書き終えたら、すこし休息したいと思います。風を、見に行きましょうか」
馬超が目を開けた。ひどく嬉しそうに口端を上げ、孔明の唇の横に口づけた。
「馬を用意してくる!待っておれ!」
といって、止める間もなく飛び出していく。
孔明はちょっと目を見開いた。
(庭を散歩、というくらいに思っていたのですが)
馬となると。どこまで行くことになるのやら・・・
筆を取り、書簡の続きを記しだす。
しばらく、青い空を見ていない。
流れる雲、吹き抜ける風、色変わる空、移ろう季節・・・
私はそろそろ、彼にありがとうと言ったほうがいいのだろうか。
礼を言ったら、彼はきょとんとした顔をするような気がして、孔明は薄く微笑んだ。
真夜中にちかい時刻だった。
灯かりをともしていても照らす範囲は限られ、部屋のあちこちに、灯では追い払いきれない闇がわだかまっている。
ときおり、かたん、という音が闇を揺らした。
部屋は質素そのもので、家具も調度品も、実用本位で選ばれているのが一目で分かる簡素なものだ。
「――申し上げます」
印章に手を伸ばそうとした時、扉の外に控えめな気配が立った。
「趙将軍様が、ご帰還なされました。これより丞相府にお越しになるとのことでございます」
伸ばしかけた手が震えた。
権力の象徴である印章を、取り落とすわけにはいかない。孔明は伸ばした手を返し、胸の前で握り締めた。
「お通ししてください」
言ってから今度こそ印章を取り上げて、作り終わった書に押印する。
ああ、こんなに、簡単に。
印は権力の証である。署名が入り印が押された書簡は、蜀漢内において正式な命令書として通用する。
こんなに簡単に、軍令が出されていく。この指示によって、何人の兵が死んでいくことになるのだろう。
そして、どんなに有能で戦い慣れた将軍でも、丞相の命令に逆らえない。命令に従わなかった場合は軍令違反で罰せられ、悪くすると反逆罪となってしまう。
将軍自身が、これは危ないと、過去の経験や勘などから、危険である、と判断した場合であっても、孔明が渡した命令書にやれと書いてあれば、やるしかない。おそろしいことだ。人の命を握るということは。まして、・・・愛しい人の、命を・・・
具足がこすりあわされて鳴る低い金属音とともに、規則正しい足音が近づいて、扉がひらく。
「丞相」
扉を開けて、拱手する。いかほど強張った顔でやってくるかと思っていた。だが鋭く引き締まった精悍な容貌は、孔明の予想から大きく外れて、微笑んでいた。
「趙子龍、帰城つかまつった。こたびの戦ではさしたる戦功を上げること叶いませなんだが、成都への帰還叶い、丞相閣下のお顔をふたたび見ることができたのは幸甚に存じ――」
「・・・子龍・・!」
孔明は椅子からすべりおり、趙雲が皆までいわないうちにその身体に取りすがった。
「孔明。ちょっと待て」
趙雲は笑って、後ろ手に扉を閉めた。
溺れかけた猫のように必死にすがりつく痩身を一度ぎゅっと抱きしめてから、顎に手をかけて顔を上げさせようとする。かたくなに顔をそむけていたが、
「顔をみせてくれ」と、言われて少しだけ上げた。
「すこし痩せたか。また寝ておらぬし、食ってもおらんようだな。おまえは俺の言うことなどひとつも聞かぬ」
――なにを言っている?わたしが痩せた?そんなことはどうでもいい。どうして、責めない。どうして・・・・
孔明は内心で絶叫しながら無言で、ますますきつくしがみつく。指先ががたがた震えた。趙雲は今度は何も言わず、落ち着かせるように黒衣の背をなでていた。
「・・・無事に帰らぬかと思いました」
孔明がぼつりとつぶやいたのは、丞相府の執務室から移動し、私室に引き上げてからのことだ。城内であっても私室は寝台をそなえ、心きいた従者によって不自由なく整えられている。
窓をあけて風を通そうとしていた趙雲は、振り向いた。
黒衣を着た孔明は、強張った表情をしていた。それでいて心細そうな、泣きそうな。
おそらく苦悩しているだろう、錯乱せんばかりに、と陣中で思っていたが、予想は当たっていた。その予想のために趙雲は、報告ならば明朝でよかったのに関わらず、今夜のうちにやってきたのだ。
「無事に帰ってくれれば、何も望まない、と思っていた。責められても仕方ないと覚悟していた。でも、帰ってきたあなたは、笑っている。・・・なぜ?」
肩が震えている。重々しい織り方をした長袍。鎧よりも重そうに、肩に食い込んでいる。
考えもせずに趙雲は答えた。
「無事なのは、皆の助けがあったからだが、まあ、今回の俺の役目は無事であることに尽きるのだろうと、思ったのでな。無事であることに全力を傾けた。責められても仕方ない、とおまえは言うが、何をどう責めればいい?おまえは兵を思い、民を思い、蜀の国のためを思って全智をしぼって策を立てた。それのどこを責めればいい」
「・・・全力を尽くしたからそれで何もかもが許される、というほど、わたしの責務は軽くありません。子龍どの。わたしは・・・先陣のあなたを囮(おとり)につかったのに。少しでも間違えば、あなたの軍は全滅してもおかしくなかった。あなたには責める資格はじゅうぶんにあります。なぜこんな仕打ちを、と声を大にして、わたしを罵るといい」
「こんな仕打ち」
おかしな事を言われた、というように趙雲は笑った。そんな趙雲の様子のほうこそ、孔明にはおかしな事のように思える。
こたびの戦で孔明の出した策は、先鋒の趙雲がまず囮となって魏軍の主力部隊を引きつけ、手薄になった魏国の領土に蜀軍主力部隊が攻め入る、というものだった。むろん、もっとも危険なのは魏の大兵力に少数の部隊でぶつかる趙雲であったが、彼はよくその任務をまっとうしてくれた。
兵力の差があるので、「少しでも間違えば、あなたの軍は全滅してもおかしくなかった」という孔明の言葉は正しい。それは趙雲にもよくわかっていた。趙雲は兵力を失うことを徹底的に避け、一兵でも生きて帰すことだけを考えた。結果として、魏の主力軍と戦ったのしては、おどろくほど少ない損傷で撤兵し、成都に戻ってきた。
それで、戦に勝ったかというと、そうではなかった。かんじんの魏の領土に攻め込んだ蜀軍のほうが、敗北したのだ。
先帝である劉備が死に、それより先に関羽張飛が死に、そのあとには馬超黄忠も死んでいた。あとを継ぐべき大器の将軍が、育っていない。それに、やはり魏軍との兵力の差は圧倒的だった。
「蜀の国力をかけて戦ったいくさに敗北した。これはわたしの責です。その責は負わなければならないし、負うつもりです。でもわたしは――あなたが大切なのに。蜀の国を思えば、先陣を任せられるのはあなたしかいない。でも、・・・わたしはあなたを愛している。それなのにあなたを死地に送り込んだ。薄っぺらい、軍令書を1通出しただけで。心が・・・ちぎれそうです」
「俺を先陣に送り込んだ。それが”こんな仕打ち”なのか、孔明?」
血を吐くように叫んだ孔明に対し、趙雲は静かに聞いた。返答はなく、孔明は震える手で顔を覆った。
「困ったな・・・」
趙雲は、すこしも困っていない表情で腕を組んだ。その表情のままで、寝台にすわる黒衣のとなりに、腰かける。
「おまえは責めて欲しいのだろうがな・・・俺は、すこしも責める気にならん」
どうして、とつぶやく気力もない。孔明はただ悄然と首を振った。
こわかった。全知をしぼったといえど、万全な策ではなかった。魏との国力の差を考えれば、危うい賭けになるのは仕方ないが、責められて当然であるし、責めて欲しかった。だのに帰ってきた趙雲は、笑っていた――
「理由を聞かねばおまえは納得しないだろうから、言うがな・・・しかしこんなことは言うまでもないことだぞ、孔明」
がしゃりと具足を鳴らして寝台に腰掛けた趙雲は、とくに気負ったふうもなく言った。
「ひとつには、先陣で、敵の主力とぶつかる任務というのは、武人にとって誇りでこそあれ、こんな仕打ちをと怒る対象ではない。ふたつには、俺は蜀国の将であり、蜀に武人としての全てを預けている。蜀の命令で戦うのは、俺の誇りだ。だからそれが蜀のためになる軍務ならば、どのような軍令を受けようとも不満はない」
力説ではなく、どちらかというと軽い語り口だった。しかし言葉の持つ力強さが、闇を払拭するようだった。
「最後にみっつめは、・・・あまり大きな声では言えぬが、俺はおまえを愛している。だからおまえの策で動くのは嬉しいことだ。最も危ない軍務を与えられる己を、誇りに思う」
趙雲は立ち上がって、具足に手を掛けた。
胸をおおう大鎧をはずし、肩甲と手甲をはずして床に置く。最後に剣をはずして、寝台に立てかけ、崩れ落ちそうに嘆いている痩身の肩に手を置いた。
「孔明。忘れたのか。どこまでも一緒に戦っていく、と約束しただろう。先鋒を命じたからといって、俺におまえを責めよ、というのは、俺に対する侮辱だ。武人としても、同志としても。・・愛人としてもな」
さいごだけ趙雲は、すこし面映そうに言った。侮辱だ、と言ったときまでは凛々しく真顔でいたものを、いや、最後のところを言ったときも真顔でいたのだが、言い終わった途端、顔をしかめた。
「あぁ、なにを言わせる。いい年をして妻帯もしておらん男に、愛だのと、言わせるな」
趙雲の言葉は胸を打った。いいがたい感情に胸が熱くなる。希望は見えない。だけど向う先は見える。趙雲の苦笑が聞こえた。
「その長袍、鎧のように重く見える。孔明。剥いでもいいか」
孔明はうなづく。唇を噛んで、こくり、と、子供のように。
「抱いても、いいか?野営続きのなりだが」
孔明はしばらく眉を寄せていたが、それにもうなづいた。言葉が出てこない。やさしい、と思う。抱きしめて欲しいのだと口に出せないのだと分かっていて、こんなふうに言ってくれる。
声もなくひと筋涙を流した孔明を、趙雲は抱きしめて、口づけた。