難しい顔をして難しい書類を整理している軍師・諸葛孔明は、頭のなかでもたいへん難しいことを考えていた。治世のことや近い戦の軍略のことなどである。
と、ふとへんなことを思いついた。
…馬鹿という語も頓馬という語も、”馬”を含んでいる………
はっとした軍師は頭をふって、へんな思いつきを振り払った。
そんなことを考えているヒマは、まったくもってないのだった。
「聞いてくれ、孔明」
憤慨した、という調子で馬超が切り出した。
「馬に乗って市街を通っていたら、投げつけられたのだ」
馬超の大きな手のひらから、ころん、と転がりでたのは、おおぶりの蜜柑。
濃いだいだい色でつやつやしていて、まさに食べごろだ。
「ふうん…果物をね…」
孔明は柳のように流麗な曲線をえがいた眉の片方をひょいとあげ、指先で蜜柑を突っついた。
「投げたのは女性じゃありませんでしたか」
「よくわかったな。人波にまぎれて逃げる下裾が赤かった」
「…ふぅん」
「信じられん。武将にものを投げつけるなど、斬り殺されても文句はいえぬ行為だぞ?それをあえてするとは、劉備軍とは、それほど市民のうらみをかっていたのか」
馬超は心配そうに眉をよせた。
蜀の民に不安や不満がくすぶっているとすれば、その矢面に立つのは孔明ということになる。
無骨な男なりに心配しているのだが、孔明は鼻先で笑い捨てた。
「余計な心配ですよ、馬孟起。わが殿は無辜の民のうらみをかうようなかたではありません。原因はむしろ貴殿のほう…、どこぞで女性のうらみをかっているのではありませぬか?自重なされませ」
嫌味たっぷり慇懃に言い置いて孔明は席を立った。
女性が好いた男性にむかって果物を投げる、という男女の求愛の風習が実は漢人にはあるのだが、教えてやる気にならなかった。
「おい、孔明」
憤懣やるかたない馬超の声に呼び止められて、孔明はしぶしぶ振りかえった。
ぽん、といたってやる気なくなにげなく、馬超が孔明にくだんの蜜柑を放り投げてよこした。
「…」
「やる」
ぶらりと大きな体を揺らし孔明の脇を通って馬超が出て行ったあと、投果の他意はまったくないまま投げられたのだろう果物を手に持って、孔明は毒づいた。
「どうしろってんですか、こんなもの…」
臆病ものだと、かれはわたしをののしった。
諸将は困惑にざわめき、文官からはわたしへの非礼を咎める叱責がかれへと飛んだ。
かれが、嘲笑う。
かれを目のかたきにする文官たちには目もくれず、わたしだけを見て。
「失敗したところで、死ぬのは某と、某の部下のみ。どちらにころんでも丞相の御損にならぬ話でござろうが」
「許さぬ。遠征は予定通り危険のすくない道をえらび全軍一致に進軍し、まず隴右を奪うものとする。先鋒には…」
わたしは平坦な声を出せているか。
顔は平静なのか?
おまえを喪いたくないのだと口に出したら、おまえは、わたしを嘲笑うだろう。
わたしを哀れんで、嘲笑うだろう。
世に、春眠暁を覚えずとやらいう。
乱世の姦雄、曹孟徳の比類なき珠玉、荀令君こと荀文若。欠けたところのない満月のようにすべてが整ったかれに欠点があるとすれば、それは寝穢いことである。かれは睡眠をこよなく愛す。つまり朝になってもなかなか起きない。
「おい、文若。そろそろ起きなければ」
同衾していた主君のほうが、ごそごそ起き上がった。
荀彧が寝穢いのはいつまでも眠りを貪っているという一点だけであって、かれの寝相は端正である。
あくまで端然とした寝姿に、曹操の好奇心が触発された。
黒絹のような髪をすいとはねのけて秀でたひたいをすいすいと撫でるが、荀彧はぴくりともしない。
品のいい耳朶をつまんでくりくりとくすぐるようにすると、たぐい稀な智臣は妙なる声であえいだ。
「うぅ・・・ん」
おお…!
曹操はひそかに慨嘆した。
眠っていても弱いところは同じなのか!
―――あたりまえである。
しかし曹操は大発見した子供のように喜び、かつ興味深く実験をくりかえした。
「主公~。なにソワソワしてるんすか?」
朝議の席で、あくびをしながら郭嘉が言った。ひとり寝のぜったいできない男だが、こうして時間通り朝議に出席しているところをみると、夕べ同衾したのは陳羣であったのだとおもわれる。
「主公~、荀彧殿のアレ、ちょいヤバじゃないすか?」
自分の首すじを指先でとんとん叩いて示して、郭嘉が言う。
曹操はうっと息をのみこんだ。
「気づくか、やはり」
「ほかの奴はどうかな~。おれくらい目端の利く奴じゃなけりゃ大丈夫でしょうけど」
荀彧の耳のうしろがわとうなじがわの首のつけねに、今朝つけてしまった赤い痕。
「ふぅ~ん、あれが荀彧殿の弱いところかあ」
「あんまり、見るな」
「いいじゃないですか、減るもんじゃなし」
「おまえに限っては減りそうだ」
ひどいなあ、と郭嘉はあくびする。
朝議は、なかなか終わらない。
そのとき諸葛孔明は絶対絶命だった。
彼は刺客に囲まれていた。前だけではなく横にも後ろにも武器をもったあやしの者がいる。
脇の下を汗がつたう。懐剣をにぎった手にも汗がにじんだ。
軍師を囲んでじりじりと間合いをつめていた刺客がいっせいに動いた。
孔明は半眼に目をほそめ、懐剣を鞘ばしらせた。
そのとき、馬のひずめが地を蹴る力強い地鳴りが響いた。まるでかみなりのようだった。
きらめく長剣。常人がつかうものよりよほど長い刃が空を切る。
孔明は息を吐いた。
「孔明。無事か」
またたきを数度するくらいの間に敵を打ち果たした武将の手が孔明の頬にふれた。
「ええ…」
弁舌家の孔明も、こうなるとなめらかに舌がうごかない。
「…孟起、どうお礼を申し上げたらいいのか…」
「ん?気にしなくていいぞ。か弱い婦女子を守るのが武人の務めだと、亡き父上はいつも言」
「…誰がか弱い婦女子ですかっ」
孔明は握ったままで使わずにすんでいた懐剣をふりあげた。