「星を、見に参りませんか」
ごく無表情な趙雲に言われて、孔明はきょとんと目をみはる。
「ですが・・・・今宵は酒宴だと、殿が仰っておられましたが」
しかも酒宴の発端は孔明が言った言葉だ。
朝議の時なにげなく、今宵は明け方にかけて星が多く流れると言ったところ、なんでそんなことが分かると張飛に言いがかりをつけられ、仕方なしにこの時期の流星は毎年のことであり、今年は月の隠れる時刻や流星が生じる基点である星座「天船」の高い位置などから、流星がよく見えるであろうと予言した。
さすれば、じっと大きな耳を傾けていた劉備が、「そんなことが分かるとはさすがは我が軍師である!孔明の英知はまさに空に輝く星であるな、よしよし今宵は星を眺めながらの酒宴を張ろう!」と膝を打ち、酒宴と聞けば張飛が目をぎらつかせて賛同し、とんとん拍子に話が進んだ。
「酒宴に、お出になりたいですか」
趙雲はあくまで無表情で、口調も平坦なものだ。
だのに何故か孔明は彼が怒っているような気がして、胸がざわめいた。
「・・・いえ」
酒宴は苦手だ。酒に弱いわけでないが、劉軍の酒宴は猥雑で喧騒と野趣にあふれすぎていて孔明はどうにもなじめない。
だからといって主君の誘いをすっぽかして良いものだろうか。
孔明はとりあえず筆を置き、書きかけの書簡をするりと巻き閉じて他の書簡を重ねて整え、立ち上がった。
その仕草を趙雲がじっと見ている。
そんなに見ないで欲しい・・・・・
孔明は袖を払い、卓に置いてあった羽扇を取ろうとすると、趙雲がすこし苛立った声で言った。
「羽扇など、なにに使うのです」
「・・・・」
「酒宴に、お出になられますか」
もう一度趙雲が問う。
「いえ・・・」
孔明すこしためらって、先ほどの同じ答えを返した。
新野は城というより砦というほうが近い。
寄せ集めの建物を抜けると雅趣のない雑木林がひろがっている。
小道は整備されておらず、星明かりがあるとはいえ足元は暗い。
先を歩む趙雲の背に続きながら、孔明はつまずかないように歩む。羽扇は結局置いてきていた。何に使うわけではない、だが持っていないと手持ち無沙汰で落ち着かない。
そう思ったとき趙雲が振り向いた。
「・・・軍師殿」
片手を差し出され、数瞬の間をあけて孔明は自分の片手を差し出す。いつもは羽扇を持っている方の手だ。手と手が重なった時、心が震えた。むろん顔にも態度にも出さなかったが。
差し出した手に、彼の手が重なる。それだけで押さえつけているものが疼いてあふれそうになる。
数日前、今宵に天体の稀なる現象が起こると彼が言った時、それは彼と共に見れるのだろうと疑わなかった。なぜなら趙雲は軍師の護衛であるのだ。
軍師はおそらく自分の予言した現象をその目で確かめるだろうし、そうなると夜半に空を見上げる彼をひとりにさせておけるわけがない。
酒宴などという話になったとき趙雲は自分でも不思議なほど落胆した。
劉軍の酒宴は猥雑すぎる。いつもならばそつなく付き合えるが、今宵はそんな気分ではなかった。
いっそ強引なほどの誘いで連れ出した軍師をどうするかまで趙雲は考えていない。
喧騒に満ちた酒宴よりも、静寂のなかで天を見上げる方が彼の望みであろうと思った。
いや違う。それは趙雲の望みだ。
武将どもがごろごろとくだを巻く乱れた酒宴で、この人の清雅は目立ちすぎる。酔った男たちの無遠慮な視線に彼の姿をさらしておくのが耐え難かったのだ。
だが、と趙雲は考える。
小高い丘のような場所に来ていた。趙雲は重ねていた手を離す。それだけのことに喪失感がある。
あたりに人影はなく、静まり返っている。
天と地の間に二人だけでたたずんでいるような錯覚がする。
手を離された軍師が趙雲から離れていく。2歩、3歩・・・そこで立ち止まり天を見上げる。
静謐な横顔が星明りに浮かんだ。
だが、酒宴で酔ったあげくこの人を不埒な目つきで眺めまわす酔客と趙雲はそう変わらないのだ。
隙あらば彼を我がものにしたいと画策している。
劉備と談笑しているのさえ、気に障る。
守るべき相手を奪いたいなど、どうかしている、と理性はささやくのであるが――・・・
3歩の距離は望めば簡単に埋まる。両人が手を伸ばすのすら必要のない距離なのだ。どちらか片方が手を伸ばせばその距離は無くなるのに。趙雲はそれをせず、軍師も振り向かなかった。
薄い夏物の白衣を夜風にはためかせる姿を斜め後ろから眺める。
その夜さいしょの星が、流れた。
酔ってしまった人を連れて、趙雲はすこし困っていた。
この人は酒に弱いわけではないのだが、多忙すぎて酒が疲れのツボにはいってしまったらしい。
酔っただけなら何の問題もないが、気分が悪そうだ。その上店を出た途端、土砂降りの雨。傘は持っていないし、突然の豪雨でタクシーはすべて乗車中。タクシー会社に電話をしても繋がらない。
「・・・ごめんな・・さい、趙雲殿、・・」
「いえ――」
高架の下で雨宿りをしながら、趙雲は眉を寄せる。
雨を突っ切って歩くのには不便な場所である。このごろの夏の雨は雷をともなう暴風雨で、いつ止むのかも分からない。駅に辿りつけたとしても、ずぶ濡れで電車に乗るのもどうか。
なによりはやくこの人を落ち着いた場所で休ませたいのだが・・・
周囲を見回すと、ミントグリーンの蛍光色の看板が目に付いた。いわゆる恋人同士がつかうホテルだ。
「―――・・・」
男同士で入れるのだろうか。
それに・・・・ちらりと隣に目をおとす。
この人の怒りか、軽蔑を買うのではないか。
ふつうのホテルは無いものかと見渡すが、濡れずに移動できる範囲には見当たらない。
趙雲はもう一度ちらりと隣に目をやり、ぐったりと重い身体を支えて歩き出した。
下心はない、が―――・・・・
酔わせて、雨にかこつけて連れ込んだと思われても仕方がない状況である。
自動化されたフロントに人影はなく、誰にも会わずチェックインすることができ、男同士でも支障はなかった。
パネルの光っている部屋が空きで、好きな部屋を選べる仕組みだ。
カラオケがあったり、シアタールームがあったりもするらしい。なぜか、ブランコがあるという部屋もあった。
趙雲は何の設備もない角部屋のボタンを押す。金を入れると、自動販売機の受け口のような所にカコンと鍵が落ちてきた。
それほど妙な雰囲気のない部屋だった。部屋のスペースが広く、ベッドが素晴らしく巨大であることを除けば、家具もインテリアも普通で、清潔だ。
「孔明殿、今夜はここに泊まります。楽にしてください」
「・・・ごめんなさい、ほんとうに」
孔明の呼吸ははやく、顔が赤い。目も潤んでいる。
肩を抱いてベッドに座らせ、頬に手を当てて覗き込む。
「どういう感じですか?周囲がぐるぐる回って見えたりは?」
「い・・え、胃の辺りがすこし気持ちが悪く・・て・・・」
「アルコールの吸収を身体が受け付けていないのでしょう。吐いてしまったほうが楽かと思いますが」
「・・・大丈夫です。すこし休めば」
「水をどうぞ。飲んでアルコールを薄めてしまったほうが良い」
趙雲は冷蔵庫からミネラルウォーター出して孔明に渡した。それから浴室に向かう。
浴室はドアも壁もガラス貼りで、脱衣場も浴槽も寝室からすべて見えるような造りだった。トイレはさすがに別の木製のドアだ。
浴室に足を踏み入れ、水を出す。シャツの両腕をまくりあげてタオルをしぼり、ふと見ると、寝室の孔明が上着を脱いでいるところだった。動作がひどく緩慢で、赤い顔で悩ましげに息を吐いている。
透明なガラスを通して見えるその光景が、ここがラブホテルだということを忘れようとしていた趙雲の神経を刺激する。
じっと見ていると、視線を感じたように目を上げた孔明と目が合った。
目を合わせたまま趙雲は、ゆっくりと浴室から寝室へ移動する。
動きを止めた孔明が周りを見回した。
「この・・・部屋は、あの」
「ラブホテルというものです、孔明殿」
趙雲は何の言い訳もしなかった。豪雨が降っていたからだとか、ほかに選択肢がなかったからだとか、そういうことはなにも言わなかった。
ほとんど無意識の動きでペットボトルの水を含もうとした孔明が、むせた。
こふこふと咳き込み、こぼれた水が首をつたい、シャツの襟に囲まれた胸へと滑り落ちてゆく。
「―――・・・」
趙雲は目を細め、指先をのばして濡れた喉もとのボタンを外していった。
「・・・本当にラブホテルなんですか」
肌蹴ると、見える範囲の肌がすべて酒に赤く染められている。
「はい」
浴室で濡らしてきたタオルを、その肌に押し付けた。水がこぼれた喉もと、首すじ・・・水を拭ってから面を変えて折りたたみ、額に当てる。
片手をあげてタオルを支えた孔明が趙雲を見上げた。
「・・・・・・おもったよりも普通なのですね」
趙雲は口端で笑った。
「初めてなのですか?」
「・・・・ええ、まあ」
「ブランコのある部屋の方が、良かったですか」
「ブランコ?・・・・部屋に、ですか」
「そういう部屋もあるようですよ」
「・・・・・どういう風に使うんでしょう・・・?」
この上なく賢いはずの人が、心底から分からないという顔で見上げてくる。
「さあ・・・・楽しみ方があるのかもしれません、色々と」
喉の奥で笑いながら言っているうちに、ふいに情欲がこみ上げた。
もっとけばけばしい部屋にすれば良かった。
下心があってこんな場所に連れ込んだのではなかったが、どうせ下心は常にあるのだ。
この人を抱きたい。組み敷いて喘がせたい―――いつだってそう思っている。実行したことはないが。
それは簡単なのだ。
現にこんなに簡単にラブホテルになんか連れ込んでしまえている。
ここなら泣き叫んでも力で押さえつけ、我がものにしてしまえる―――・・・・
趙雲は立ち上がり、なんとも言えない表情をしている孔明の額の濡れタオルを、額から目の上にと移動させ、視界をふさいでからその身体を器用に支えてベッドに横たわらせた。
「お眠りください、孔明殿」
孔明がなにか言った気がしたが、無視して趙雲は浴室に入り、脱衣場で服を落として浴場に足を踏み入れた。
強い水圧のシャワーを頭から浴びる。
汗が引いて心地よかった。―――情欲はいっこうに引かなかったが。
気の済むまでシャワー浴び、タオルで髪と身体を拭いながら、ふと目を上げると、横たわらせたはずの孔明が身を起こしていた。背と肩がひどく緊張しているように見える。
それでちらりとでもこちらを見れば、誘われていると勘違いをしてしまいそうだ。
埒のない想像に苦笑しかけて、趙雲は動きを止めた。
孔明は身の置き所のない表情で、おずおずと顔を上げ。
ちらりと趙雲を見た。
ガラス越しに目が合い、――裸の趙雲の体躯に視線を走らせた孔明が目を伏せる。それでいてその白皙に浮かぶのは嫌悪ではなく羞恥に見えた。
趙雲は真顔になった。
誘われた―――のだろうか、いまのは。
外では、まだ雷雨が轟いていた。
〔月影〕 月の光、月の形、月の光で照らし出された物の姿
月出でて皎たり 佼人僚たり 舒にして窈糾たり 勞心悄たり
深遠の闇がたちこめている。
二十七夜。もはや消えかけた幽き月が心細げに闇に抱かれ、仄白のひかりを滲ませていた。
牀台には、もうひとつ月がいる。
横たわり、薄い背を微弱に上下させて、眠っている。
この人は、またすこし痩せたのだろうか。
足音を殺して、かの人が眠る牀台に近づいた。
近づくと、かの人は昼間の衣冠を解かずに眠ってしまっていることが分かった。あまりに疲労して、眠るつもりではないけれど少しだけと横になり、そのまま寝入ってしまったというように。
女人のように細いが、女人ほどには丸みのない尊貴の肩に手をかけて首を支え、冠の結わい紐を解く。
細い黒髪が音もなくまつろって、顔を隠した。
外した冠をそっと脇によけ、震えそうな指先で、髪を払いのける。
夜の色が流れて、白皙があらわになった。
淡く白く、まるで今宵の月のようにか細い。
政務をこなす時には冴えを、行政に携わるときには民草をおもいやる温容を。戦場では、白刃の気迫と果断を。
さまざまに顔を持つその人が、眠るときこれほどにはかなげな顔つきをしていることを、知るものは多くない。かつてはあと幾人かいたのだろうか。いまではもうきっと、わたしだけだ。
透けるようなひ弱さはない、が、肌はあくまで白く、なにものにも侵されぬ玉のようだ。
硬質な印象の肌とは逆に、薄く色づいた唇は儚い。
静かに顔を寄せた。
息をしていないかと疑うほど静かな寝息しかないのだが、唇は人の体温がする。
吐息に灯るひそやかな体温は、泣きたいほど深い安堵をもたらした。
生きている。まだ、生きている。
はかない唇の感触に、心が振動した。
わたしの分の重みをも抱えこんでぎしりと鳴く牀の上で、深く、合わせた。
「……」
ちいさく身体が揺れるのを、両腕で抱きしめた。皮膚の感触、匂い、鼓動――覚えているかの人の情報が、五感を通じて流れ込んでくる。
意識がのぼり始めているのか、濃い睫毛は異変を恐れるように震えるが、口内はいまだ無防備で抵抗が無い。
細腰を抱いて身体同士を密着させ、口吻を合わせる。
背筋が震えるのが、我ながら無様だった。
「…姜維、…」
彼が目をあけた。
ほころぶ花のように微笑んだならどれほどうるわしかろうと思う。だが濃い睫毛が翳りを落とす視線は、かの人の気性を映すように黒々と深い。
「戻り、ましたか」
「…はい」
「それで…魏軍の動きは。兵の数は…?司馬懿、はどう…出…」
「報告は明日朝堂にていたします。いまは、――」
堅い官服の襟元を、ゆっくり肌蹴ていった。
それに気づいて、眠りから覚めたばかりの肢体がすこし強張る。
寝顔なりひとめ見たい―――そう思ったのは嘘ではない。
寝顔だけ拝して、退室しても良かった筈であるのに。
欲情ではない―――筈だ。
体温を、確かめたいだけだ。
厳重に着込まれた文官衣を一枚一枚、花弁を摘むように開いていく。
花のようだと喩えるには、この人の肌は硬質すぎる。
見ただけでは、体温があるようには見えない。だから、触れて確かめなければならなかったのだ。
すべての色を包み込む黒を、かたくなに身に纏う人。その色を我が手で乱す時はいつも、罪の意識がともなう。
黒がこの人の鎧であるからだろうか。
戦場で武将が鋼鉄でわが身を覆うように、この人は黒衣でわが身を鎧っている。
守るためだとはおもわない。わが身を護るためにその衣を纏っているのならば、わたしの胸はこれほど痛みはしない。この人が鎧を着ているのは、ただ、戦いつづけるためだ。
黒を乱せば、あらわれるのは白玉の無垢。月白に映えてこの世のものともおもえないほどの。
「丞相」
声が揺らぎそうになって、口を重ねた。うすく開いているのをよいことに、唇からその奥へ。
「丞相」
白い膚を刻印を残すのも、きっと罪だ。
いつだって抵抗しないこの人に思うままに触れるのも。
いまだ未熟なわたしがこの方に触れるのを許されているのは、ひとえに自らの後を受け継ぐものをこの方が欲したからに過ぎない。
「丞相―――丞…」
「…姜維、―――…もうすこし、ゆっくり…」
「いやです」
いやなのではない。無理なのだ。この玉膚を前にして冷静ではいられない。
性急さが未熟のあらわれのようで恐ろしくなり、もう一度くちびるを塞いだ。口内はあたたかい。それから衣の下の肌も。あたたかい。
眉をしかめる様子も、開いた唇が震えるのも、なにかおそろしい。反面、それらの反応を起こさせているのが自分の手だと思うと、しびれる様な欲情が突き上げてくる。
乱れさせたい。わたしのことだけを感じさせたい。・・・それが罪だと、分かっていても。
「丞相。…お許し下さい…」
ささやくとかの人は、諦めたように目を閉じた。
喉から胸に唇を落としながら、最後の帯を解く。
わたしはこの方の後を受け継ぐだろう。
愚かしくも忠実に。この方の為した事跡を継ぐのだ。
もっと早く遭いたかった。
満月のときに。三日月のときに。
出遭ったとき、月はもう欠けはじめていた。
二十七夜。夜は、あまりにも短い。
届かない月に、わたしは恋をしているのだ。
昼下がりに執務をしていると末の弟がやってきた。
「孔明様はいなくなりました」
昼餉のあと、しばしの休息にと庭に出た軍師殿が、戻ってこないのだという。
放っておけば寝食もわすれて執務に没頭する仕事中毒者が、いったいどうしたことやら。
「庭にいらっしゃらない、厠にしても長すぎる。まさか城内に不埒者でも」
「まさか」
「兄上、のんびり構えている場合ではございません。あの方になにかあったら、・・・・・」
いらいらと、今にも捜索隊でも出しかねない。
「もう一度、庭を見てまいります。それでお姿が見えなければ、人手を出してお探ししなければなりますまい」
「そなたは結論を急ぎすぎる」
「そうは言われましても、―――、孔明様!」
みゅう。
「季常・・・あぁ、幼常もいたのですね」
「尊兄?」
馬良はこの日はじめて軍師と会った。
白い道袍に、そこらの女人より長い髪を無造作に巾でくるんだ姿は平素を変わらぬが、浮かんだ笑みが常にもましてやわらかい。
そして、
み。
と、彼に抱かれた猫がなく。
小さな小さな茶色のトラ模様の仔猫が、大事そうに袖にくるまれている。
「ああ、よしよし。鳴くのでない、乳をのんだばかりでしょう?親が恋しいのか・・・そんなに鳴かないで・・・」
みぅみぅと心細げになく仔の毛並みを撫で、やわらかげな首元に口を寄せる。
そのさまは、愛しい人にささやくよう。かたわらの弟は微妙な面持ちでみじろぐ。
「尊兄、その猫どうなさいました」
「庭で鳴いていたのです。乳離れしていないのなら、抱いて人の匂いをつけるのは駄目でしょうが、しばらく待ってもいっこうに親の姿が見えなかったので」
それで、拾い上げて山羊の小屋にまわり、乳を与えてきたのだという。
「抱いて、政を執るおつもりですか」
「一度拾ったのです。捨てるわけにはいきません」
仔猫の細い爪が、手の甲にいく筋もの赤い線を刻んでいるのにも頓着せずに、やさしくやさしく抱いて、喉のあたりを指先でくすぐる。
こうしている間にも、軍師府の彼の机には、刻一刻と処理を待つ書簡がうずたかく積もりつつあるのだろう。行政も軍政も外交もささいな訴訟にも目を通す彼の仕事ぶりに馬良は賞賛を惜しまないが、彼なしでは処理できぬ事項が多すぎるのが問題だ。
「あなたに拾われたものは幸せだ。あなたは自分を傷つけるものさえ見捨てない」
末の弟が、やや皮肉げに言う。
「午後の予定をよもやお忘れではありますまい。荊州豪族のうるさ方との会談ですよ」
腕を組んださまはわが弟ながら尊大で、頭は切れるが、こういうところはすこしいただけない、と思う。
「そう・・・ですね」
ちらりと目線を流された。
やれやれ、私の執務室にやってきたことが、答えだ。
「預かりましょう。尊兄。我が家で飼いますよ」
実は、馬家は近所で有名な猫屋敷だ。
先祖代々の書物好きで、ぼう大な書簡をねずみに齧られないよう、いつからか猫を飼い始め、それが増える一方なのだ。
「ありがとう、季常。・・・・・ときどき、会いに行ってもいいですか」
「猫に?」
「そう、猫に。と、季常に」
弟がそっぽを向いた。
末の弟は自立心が強く、成人前にさっさと家を出て各地を放浪してそのまま、独りで住んでいる。
馬良の目の前で彼は仔猫に口付け、その手を仔猫を受け取るために差し出した馬良手にその手を重ねた。
「可愛がってください、どうか」
「もちろんです」
馬良はその手をそっと握る。つよくもなくやんわりとごくかるく。
「孔明様、時間がありませんよ」
弟が言い、重ねた手を切り離すようにその肩を抱いて、戸口のほうへ向けようとする。
彼らが出て行き、猫を抱いた馬良がのこった。
慣れた手つきでうす茶色のかたまりを抱き、喉をくすぐる。猫はくったりとして馬良を見上げた。
そういえば、名を決めなかった。
「・・・さっそくあの人を屋敷に招き、名づけを頼まなくてはね」
あの人が拾って名づけたのなら、私はおまえを愛するだろうよ。
軍師がそうしたように、馬良はやわらかな毛並みに顔をうめる。
仔猫は震えて、みぅとないた。
雨が降って止んでも、いっこうに涼しくはならなかった。
低くたちこめた雲に熱気が閉じ込めれているようで、ひどく蒸す。
調練を終えた姜維は、水を浴びた。
暑さはあるが湿度も高く、からりとは乾かない。髪にまといつく雫をはらい、一度解いた髪を再度きりりと、結びなおす。
そして午後からの予定のために移動する。
丞相府に、その最奥の居室に、一歩足を踏み入れて、息を止めた。
ここはいつも、ひやりとした空気に包まれている。
書物を多く保管して扱う棟であるため、日光を避ける造りになっているのだ。
真夏の暑気もここには届かない。
そして――――
「・・・・・姜維」
そこにいる人も。
姿も、着衣も、容貌も。
なにひとつ、蒸すような熱気も、湿度も感じさせない。
さらりと流れる髪も、ゆるやかな動作も、やわらかい声も。
姜維は立ち尽くす。言葉もなく。時が止まったように感じられた。
「姜維?」
あるかなきかのかすかな微笑も、書簡を持つ指先の細さも。
「熱でも、あるのですか・・・それとも暑気あたりにでも?」
ゆるりと袖が動いて上がり、手が伸びてくる。
「こんなに顔を赤くして。外はそれほどの暑さですか」
ああ、動けない。なにをしているのだ、わたしは。
丞相の下問である。応えなければ。
手が、触れた。
額に。
「・・・ほんとうに具合が?いけません、もう退出なさ」
「いえ!」
あ。―――声が出た。
「退出など、しません。わたしは。丞相」
声を絞り出す。
「おそばに、おります」
おそばに。ずっと、―――願わくば永遠に。
いつか置いてゆかれる、でも、かならず追いかける。どこまでも。
「では、執務を。あなたにはこちらの書簡をまかせます」
「は」
止まっていた時がようやく流れ出す―――流れ出した、はずだった、のに。
書簡を受け取るとき、指先が触れたので。
また、時が止まってしまった。ああ、駄目だ。
落ち着け。