難解な書類を睨んで、孔明は美しい眉をひそめた。
あたらしい法律に関する草案だったのだが、新法を制定するというのは、とかく神経をつかう。
巻き物状の書類を繰りながら一字一句まで検討していると、ふいっと書類が宙に持ち上がって手から離れた。
怪奇現象ではもちろんなく、孔明はうんざりとため息を吐く。
「…わたしの執務室に黙ってはいってこないでくださいと、何度いったらわかっていただけるのでしょうね。返してください。大事な書類です」
「眉間にしわが寄っている。癖になったら大変だぞ。せっかく綺麗な顔なのに」
「綺麗なんていう言い草はわたしを怒らせるだけなのだと何度いったらわかるのですか。…いっそいつも眉間に醜い縦皺を刻みつけて居ましょうか」
「笑った顔が綺麗な女というのは、よくいるのだ。怒った顔が綺麗だというのは、なかなかいないな。そういうのをほんとうの美人だというんだろう。おまえは怒った顔も綺麗だが、皺が寄っていたところで綺麗だ。ほんとうの美人だ」
「……あなたは、私を怒らせるのがほんとうに上手い。心から誉めているのだと判りながら、心の底から腹が立ちます」
「だが、やはり皺はないほうがいい」
馬超はちゅっと音をたてて、まじないをするように孔明の眉間に口づけ、ついでに唇同士も合わせた。
孔明の抵抗をものともせず、さんざん貪り、息が上がるほどになってから少しはなす。
ひどく納得したように、馬超はうなずいた。
「うん。おまえがいちばん美しいのは、欲情した顔だ」
孔明は手をのばして書類を奪い返し(書類は非常に重みのある竹の巻き物であった)、目の前の男を思いっきり殴りつけるために振りかぶった。
すかすか寝息をたてて眠る男の後頭部を、孔明は睨むように凝視していた。
朝まだき。
夜はまだあけきらない時刻。
ただでさえ睡眠不足ぎみの孔明なので、この時間にはまだ、深くて心地のよい眠りのなかにいなければならないのである。
なのに目が覚めてしまった。
「眠れない…」
不機嫌な、地獄の底から響くような声で言って、ごそりと起き上がる。
同衾していた男が、ん…?と非常に眠そうな声を出した。
「孟起」
こんな時間に自分だけ起きているのは、たいへん不公平である。
同衾者はそのとんでもない絶倫さで、孔明の只でさえ少ない睡眠時間を削りまくっているのだから。
ゆさゆさ揺さぶっても馬超は起きない。髪を引っ張っても起きない。
これでほんとうに猛将なのかと孔明はキレかけたが、馬鹿らしくなり、おとなしく横たわった。
…意外と整った顔をしている。
武装して立つとその派手ないでたちに目がいって、顔立ちそのものに注意はいかないものだ。
目を開けていると鋭角な印象があるけれど、眠った顔はそこはかとなく品があって、血筋のよささえ感じさせる。
…いい体だな…。
投げ出された手は大きくて、手首がみるからに強靭。
孔明はおもわず自分の腕をならべて比べてしまい、結果、憎しみに近い感情をたぎらせた。
男として、武将のなかでさえ傑出した強靭さ。
それは孔明のコンプレックスをダイレクトに刺激する。
寝つけない孔明が気になるのか、馬超が手をのばしてきた。
腕を掴まれそうになって、ぺしりと叩き落す。
眠っていても反射神経ははたらくのだろうか、そのままごいっと掴まれて、抱き込まれた。
抱き枕のようにぴったり抱き込まれて、身動きができない。
孔明はすこしもがいたが、だんだんどうでもよくなっていった。人肌は温かくて、忘れかけていた睡魔が襲ってきたのだ。
「ふん…」
ふぁぁ、とあくびして、孔明は目を閉じた。
はらりはらりと散る花のなか、ほろりほろりと夜が更ける。
昼間から、花見の宴を張っていた。
曹操の後宮には歌妓や舞妓あがりの女性も多くいる。それらを舞わせ歌わせているうちに夕刻を過ぎて日が落ちれば、灯をいれて宴をつづけた。
夜がふけ宴果てて、曹操はいまを盛りの花の下、ひとりぼんやりと花を見上げていた。
人払いをしているのでまわりには誰もいない。宴の残骸――料理の皿や酒壺は、あたりに散乱したままである。
さやさやとひそやかな衣擦れがし、曹操の背後に、ひとりの文官が膝をついた。
「お召しにより参上いたしました、主公」
「…おう。待っておった」
目に見えぬ背後にいても、えもいわれぬ芳香が漂ってくる。それを愉しみながら、曹操は振り向いた。
「荀彧」
「はい」
現われた曹操の寵臣は、きわだった気品の持ち主だった。袖をはらう仕草、さげたこうべを上げる間合い、ほんのちいさな挙措でさえ他の誰にも真似できぬ品位にあふれている。
「酌をしてくれぬか、荀彧」
「ご命令とあらば」
冠をいただいた頭頂から衣のすそ、指先にいたるまで、荀彧には隙がない。うなじにかかる後れ毛までもが、気品に満ちている。
曹操は、注がれた酒を口にふくんだ。
「花が散るのう…」
「はい」
「おぬしを散らしたい、と言ったら。どうする、荀彧よ」
「ご命令とあらば」
荀彧の眸は澄んでいるが、底はない。澄んだ湖面でさえ一石を投じれば揺らぐというのに。荀彧の眸は揺らがない。
「私は主公の臣下でありますれば、御命令にはさからいえません。…命じてごらんになられますか、主公」
けぶるような美貌に、曹操は、ふ、と鼻を鳴らす。
「いいや。やめておこう。…いまはまだ、な」
こくりと喉をならして酒を乾し、あいた杯に美酒をそそいで差し出す。
「飲め、荀彧」
花がひとひらひらりと散って、注がれた酒の表面に浮いた。
「頂戴いたします」
荀彧は、花ごと酒を飲みくだした。
左後方だ。
大人の歩幅にしておそらく10数歩の左の背後の、背の低い木の、後ろがわ。
多忙すぎる執務の合間をぬって息抜きに出ていた諸葛孔明は、ひとりで過ごす平穏な時間が終わったのを感じた。
城からすこし離れた丘陵地。すこしだけ、空と近くなれる場所。
どうやってこの場所を突き止めたのか知らないが、…いったいあの人はなにをしているのか…。
「…孟起。そんなところでなにをしておいでですか」
うっと息を呑む気配がして、背の低い潅木がゆさゆさ揺れた。この木は、人がにょっきり生え出るめずらしい木だったらしい。
日差しが眩しくて空気がもやもやしていて、春なのだなあと孔明は空を見上げた。
「…どうして、俺がいるのが分かったのだ」
「…まあ、なんとなく」
わからないほうがどうかしている。
あれでいちおう気配をかくす気があったのだということが驚きだった。
「厩の係りの者があたふたしていたぞ。軍師が伴も連れずにひとりで外出してしまったと」
「厩の…。なるほど、そうですか」
追ってこれたわけが分かった。
馬超はよく厩にいるので、城内で馬超を探すときは、私室より先に厩に行くのが順当であるとされているくらいだ。厩の番人とも馬の世話係とも親しいのは当たり前なのだろう。
孔明としても、近侍の文官には見つからずに出てこれたが、馬をつかう以上厩はさけて通れなかったのだ。
少しでも謎があるとそのことばかり考えてしまうが、謎が解けてしまうと、とたん興味はなくなった。
地面に寝転んでいた孔明は、寝返りを打とうとして視線を空から離すと、かたわらでは馬超が孔明と並んで坐ろうとしている。
孔明は手をのばし、中途半端に腰をかがめていた馬超の腕を、絶妙のタイミングでおもいっきり引いた。
「ぅを!」
猛将は後ろに手をついて、かろうじて転倒をまぬがれる。
無防備になった腹に、孔明はぱふんと頭をのせた。
「おい…っ」
「ちょうど、枕がほしかったのです」
「そうか…。っておい、俺が枕かっ!?」
「ああ。動かないで。…少しだけです。少しだけ休んだら、また執務に戻らなければ…」
語尾はかすれて、寝息になってしまった。
…これでは動くに動けない。
近い茂みで、ウグイスが鳴いている。
どこからか良い匂いが漂ってきて、馬超は鼻がむずむずした。
なんぞ花でも咲いているのかときょろきょろあたりを見回して、…匂いの正体は、孔明が焚きしめた香だった。